ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「活字たんけん隊」

2011-03-09 08:45:47 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「活字たんけん隊」という本を読んだ。
著者は椎名誠氏である。
サブタイトルには「めざせ、面白本の大海」となっている。岩波新書版であった。
椎名誠の名はよく聞いたが、彼の本を真剣に読んだ記憶は無い。
週刊誌などで彼の文章や写真を見た程度の知識しかないが、彼自身の言葉から察するところ、世界をまたにかけて、あちらこちら旅行以上探検未満の旅をしている風に見える。
羨ましい限りである。
文筆家として、好きなところに好きな時に自由気ままに行ける人生などというのは、そうそうざらに在るものではない。
私はこの本の表題を見て、もっともっと日本語を深く考察する内容かと早とちりしてしまった。
「面白本の大海」というので、本そのものの考察であって、日本語の考察ではなかった。
彼のいう面白本というのは、当然のこと、読む人の好奇心を思う存分に刺激する要素を含んだ本と言う意味で、そういう本ならば誰が読んでもそれなりに面白いに違いない。
要するに本の話であって、日本語そのものの話ではなかったということだ。
私などは根がおっちょこちょいなものだから、「活字たんけん」と聞くとストレートに日本語のことだと早合点してしまったのである。
言葉の乱れということは、恐らく如何なる民族にも普遍的にあることではないかと思う。
世代が次から次へと新陳代謝する過程で、言葉も微細に変化して行くのが自然界の摂理ではないかと思う。
確か川端康成だったと思うが、ノーベル賞を受賞した時の演説で、曖昧な日本語という意味の演説をしたと記憶しているが、私に言わしめれば日本語は曖昧などというものではなく非常に厳密な表現を内包した言語だと思う。
一つの事柄を表現するのに沢山の語彙があるということは、非常に表現のキャパシテ―が豊かということで、とても曖昧などと言えるものではないと思う。
よく言われることに、日本語には 「私」という一人称を現す言葉が数えきれないほどあるわけで、その言葉の多さたるや、とても曖昧などと言える状況ではないと思う。
昨今言われる言葉の乱れというのは、いわゆるボキャブラリー不足で、表現能力が極めて劣っているということだと思う。
普通にテレビで使われているボキャブラリ―に頼り切って、少ない語彙を何度も同じシチュエーションで繰り返して使うので、極めて軽薄に見えるわけで、それはその人のイマジネーションが乏しいからそういう状況を呈してしまうのである。
基本的に一言でいえば、知識も語彙も想像力も乏しいので、貧弱な言い回しを多用するため、その人間が軽薄に見えるのである。
そういう状況から抜け出そうとすれば、この本の著者が言う、活字探検をする以外、いわゆる本を読む以外、方法は無いと思う。
昨今の日本のメデイアは、テレビという媒体が一番隆盛を誇っているが、問題は、このテレビで情報を発信し続けている人たちの思考である。
彼らの知的センスである。彼らの倫理観である。彼らの美意識である。
テレビのメデイアでは、NHKのみが視聴者からの受信料で運営されているので、受信料をとっている手前、公正無私、厳正中立でなければならないが、後は全てが民間資本の民放なわけで、ある意味でカネさえ出せばどう言う放送でもしてくれるという立場である。
これはこれでメデイアとしての立派な立場であり、凛とした社会的存在で、それに徹し切れば立派だと思うが、実情は八方美人的なポーズで良い子ぶって、公正中立と言いながら偏向しているから鼻持ちならないのである。
そこが一番問題だと思う。
民放テレビ局の経営者や経営トップには、それなりに立派な高等教育を受けた教養人が多かろうと思うのに、そういう知性や教養が民間のテレビ局の放映する作品に一向に現出しないということは一体どういうことなのであろう。
そもそも、この狭い日本にあれほど民間テレビ局が要るものだろうか。
放送時間も丸々一日24時間も要るものであろうか。
民間テレビ局の経営者も経営トップも、こういうことを考えたことがあるであろうか。
ある意味で、完全なる過当競争であるが、資本主義体制の中の競争はお互いに切磋琢磨して品質を向上させる効果があるとされてきたが、現実にはお互いに談合して低値安定を計って、放送作品レベル低下に拍車を掛けているにすぎない。
こういうことは経営者や経営トップには充分分かっていると思うが、だからと言って自分だけ、つまり自社だけ仲間から抜けることができないわけで、ある意味で護送船団方式を仲間内で作って、その中で安寧と進化の波を回避しているのである。
私自身もテレビ大好き人間で、同世代の中ではよくテレビを見る部類の人間だと思うが、今のテレビ番組は実につまらない。
見るに堪えない。で、見るのはNHKのニュースと、他に民放の警察モノというか、刑事モノというかそんなドラマのみで、一日の視聴は多くて3時間ぐらいのものである。
年金生活者の年寄りだからこの程度であるが、これが中学生や高校生ならばテレビを見る時間など皆無ではないかと思う。
にも関わらず日本の民放各社は一日24時間近く電波を出し続けているのである。
こんなバカな話があっていいものだろうか。
その点、同じメデイアでも活字メデイアは保存がきくので、その分影響力は持続性が保たれる。
買ったからと言ってすぐ読まなければならないということは無いし、好きな時に好きなだけ読み進めばいわけで、その点大いに自由裁量の幅がある。
しかし、人間が文字を綴るという行為にも時代の推移があるわけで、ここでも若者が古い世代を乗り越えていく姿がみられる。
モノを書くという行為は、言葉を文字で綴るわけで、話し言葉の違いはあっても、やはり言葉の乱れというのは表面に露われてしまう。
私も本の好きな人間の一人として、よく大型書店は覗くが、元々が貧乏人なので、自分で気に入った本をその場で買うということはそうたびたび出来るものではない。
よって図書館を利用するということになるが、人生もかなりたそがれてくると、本をいくら読んでもその人の教養や知性に読書が貢献することは無いと悟った。
所詮は時間の浪費に過ぎない。
やはり「バカは死ななきゃ直らない」ということを人生の終わり近くになって始めて悟った。
私の人生バカだった。