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ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「超巨大地震に迫る」

2012-04-21 07:15:16 | Weblog
例によって知人の一人が送りつけてきた本で、「超巨大地震に迫る」という本を読んだ。
昨年の3月11日の東日本大震災を経たことで、地震のことを知りたくなって買ったに違いない。この本を読んで一番読みごたえのあった部分は「あとがき」である。
その中で言っていることは「地震の予知はできない」という一語である。
私は別に立派な科学者ではないが、私自身もそう思う。
地震の予知は21世紀に至っても不可能に近いと思っている。
「近々起きるであろう」ということは言えても、何時何処でということは確定できないのではないかと思う。
今回の大震災は、地震とそれによって引き起こされた津波と、その津波によって機能停止に至った原子力発電の事故と、3重の災害が同時に起きたと言ってもいいと思う。
その地震そのものが、過去の例を越える想定外の規模であったわけで、千年に一度というスパンで起きたと言われている。
それで東北地方の太平洋岸では甚大な被害が出たことは周知の事実であるが、そういう意味では、これは天災だと言える。
ただし、東京電力の原子力発電所の事故対応は、大地震がきっかけになっているとはいうものの、明らかに人災であって、天災とは切り離して考えねばならない。
しかし、よくよく考えてみると、東北地方の太平洋岸というエリアは、地震も津波も過去に何度も体験している地域だと思う。
だからこそ万全の態勢を取っていた市町村もあるわけで、普通の常識的な知識があれば、防災に対しては万全であってしかるべきだと思う。
今回は、過去の事例にはない想定外の規模であったということはいえるが、そもそも我々の住む日本列島というのは地震列島なわけで、我々は日本という国土の何処に住んでも地震から安全ということはあり得ない。
地震が起きれは、その後に津波が押し寄せてくることも充分に考えられることで、そうであればこそ、我々は産まれ落ちた時から、その対策を考えてしかるべきだと思う。
私は27年前に自分の家を作ったが、家を作るについて真っ先に考えたことは、地震に対する対応であった。
耐震性もさることながら、家が乗る地盤についても心配でならず、そういうことを加味して家の素材から選択を熟考した。
日本人が、日本という国土で生活を営むのに、日本住宅が最適であることに異論はなかったが、「ならばそれは地震に対してはどうか」と考えた時、選択肢から外した。
日本でも木造の建築物が太古からあり続けているが、あれは木材の加工に充分な時間と余裕を持たせて乾燥させた素材を使っており、現代という時空間の中では、普通の人にそういう贅沢が許されるわけがない。
そういう経済的な余裕はあり得ず、どうしても廉価で、丈夫で、長持ちで、地震に強いとなるとコンクリート系のプレハブということに落ち付いた。
そして、地盤のことを思い浮かべて、基礎にパイルを打つことも考えたが、この地域では地盤がことのほか固くて、それをする必要はないと言われたので、その分は大いに助かった。
私の周りでも家を新築した人は多いが、そこまで考えている人はほとんどいないようだ。
だが、我々の住む国が地震列島であることを考えれば、家という超高価な買い物をする以上、そこまで心配しても罰は当たらないと思う。
これこそ自己防衛の第一歩だと思う。
その事は、当然、今回被害に遭われた東北地方の方々にも言えると思う。
自分の街を散歩してみても、川の堤防よりも低い所に家を建てている人もいるが、私には考えられないことである。
そんなところの家を建てておいて、大雨で堤防が崩れると、「行政の不備だから金寄こせ!」という論調で迫ることになるが、そういう場所にも建築許可を出したという意味では、行政の責任が問われても仕方がない。
津波の被害といっても、過去の経験から高台に移転していた集落は被害を免れているわけで、こういう自己防衛をどう評価すべきなのであろう。
同じ東北地方で、同じように太平洋に面した地域で、自己防衛で被害を免れた集落と、ただ単に「不便だから」というだけで、海の近くに居を構えて被害にあった集落をどういう風に評価すべきなのであろう。
自己防衛で被害に遭わなかったのだから、それだけで十分ではないか、という言い分はどうにも私個人としては納得出来ない。
大地震というのは天災にあって、他からの支援が全くないというのならば、皆平等に不幸な目にあったのだから運命として諦める他ないというのならば、それはそれで納得できる。
しかし、現実には自己防衛あるいは自分の智恵と才覚で災害を免れた人と、家や財産を全部失った人が混在していて、それが一様に被災者という括り方で支援を受けるとなると、どうにも腑に落ちない。
被災者のいる現場を見たこともないのでよく判らないが、義援金や支援物資というのは、被害の大小によって差別があるのかないのか果たしてどちらなのであろう。
東北地方の太平洋側に住む人で、海の見える範囲にいる人が、護岸堤防を信用して、海岸べりに住む、あるいは家を作ること自体、津波被害を全く想定しておらず、津波に合うという意識が全くないではないか。
津波の映像がテレビニュースで全国に放映されたので、それを見た人の大部分が、「被害にあった方々は可哀そうだ、気の毒だ」という感情に突き動かされたと思うが、そういう中で自己防衛をした人や、自分の智恵と才覚で被害を免れた人の努力は一瞥だにされていない。
私の老婆心は、そういう人にも支援金や、義援金は配分されるだろうかということである。
だがよくよく考えてみると、自己防衛や自分の才覚で被害を免れた人は、被害にあっていないのだから、被害者でもなければ被災者でもないわけで、義援金が一銭も来なくても文句は言えないのかもしれない。
この文章を綴るに当たって、インターネットで義援金のトータルを検索してみると、3491億円という数字が出ているが、これも正確なものではなく、トータルの正確な数字は判らないものらしい。
という事は、我々が「被災者が気の毒だ」と思って出した善意の金は、確実に被災者にわたっているとは限らないということだ。
誰かが何処かでネコババしている可能性も大いにありうるが、それを追求する術はないらしい。
しかし、善意の金が3491億円も集まったということは、それだけのカネが東北地方に落ちたという事ではなかろうか。
被災者が津波で流された家具を買ったり、テレビを買ったり、車を買ったりしたということであれば、それだけの経済効果が出てこなければならないと思う。
それは政府の交付金や、地方の補助金の類とは全く違っていて、全く善意の金なわけで、それが社会に還元されれば、何処かに流れ着くに違いないと思う。
この本のいう、純粋に科学的な論理は難しい部分もあるが、この本で一番良い部分は「あとがき」であって、「地震学者は地震の予知できない」と言う事をもっともっと国民にアピールしなければならないというのは、科学者の本音だと思う。
ただともすると、人は他者に不快な念を抱かせないように、「地震は予知できない」ということ正直に言えないので、結果として何となく希望を持たせるような言い方になってしまうから世間からの冷遇に合うのである。
地震学者が「地震の予知はできない」と正直に言えば、自分自身の存在感が疑われるわけで、「地震学者のくせに何をしているのだ」と言う論駁に至ってしまう。
この地震を体験したことによって、東北地方の護岸堤防はもっともっと強固にしなければならないということになるのであろうが、ならばどこまですれば安心か、ということになると答えはなかなか言えないのではなかろうか。
確率の問題として、千年に一度という安全率をどう捉えるかということになると思うが、あの東北地方に中国の万里の長城のような堤防が果たしてできるものだろうか。
ただこういう事は言えると思う。
我々、日本人というのは、物事を単一的に捉える民族で、堤防なら堤防、道路なら道路、ガス、電気、上下水道等社会的インフラも合わせて危機管理ならば危機管理と、一つ一つ単一の問題として考える傾向がある。
そうではなくて、複数の目的を合わせて一本のものに集約させる、という発想が下手だ。
千年に一度の地震に耐える堤防を作るのならば、それを高速道路としても使えるように、又電話、上下水道、光ケーブルなども全部組み込んだインフラ整備としても役立たせるような高機能なものとして作るという発想を醸成すべきだと思う。
一頃、スーパー堤防という事が言われていたが、政権交替した民主党の仕分け作業で廃棄されたように記憶している。
スーパー堤防よりももっと機能強化したものを考えるべきだと思う。
スーパー堤防は都市近郊の河川を念頭においた発想であるが、それを海岸の津波対策にも応用すべきだと思う。
今回の地震で、国民全般に地震対策という意味で、今住んでいる家の耐震対策の需要が増えたと思うが、そういうものは経済の下支えには成り切れないものだろうか。
住宅産業は充分に潤っているのではなかろうか。
聞くところによると復興バブルという現象が起きているやに聞く。
仮設住宅からタクシーでパチンコ屋に通う被災者がいると言われているが、これでは地震でなくとも日本は壊滅するに違いない。

「奪われる日本の森」

2012-04-19 10:35:02 | Weblog
知人の一人が自分の読んだ本を、「よかったら読んでくれ、気に入らなければそのまま捨ててくれ」といって本を送り付けてきた。
まるで我が家が本の捨て場の感がしないでもないが、貧乏父さん(爺さん)としては、自分の好奇心を刺激する本なので、そのまま捨てるのは忍びず、結局は読んでしまった。
「奪われる日本の森」というものでサブタイトルには「外資が水資源を狙っている」というものである。
発行は2010年なのでいささか古いが、それでも極めて今日的な主題ではある。
この問題の根本の所には、日本の林野行政に関する不備や不満があって、法的に日本の森を守る手だてが何もない点をこの著者は憂いている。
今の日本の林業は、産業として成り立たない面があるので、それが水資源の保護と直結している。水資源の保護と林業の育成は、車の両輪のような関係であるが、林業そのものが産業の体を成さないようになってしまったことが水資源の枯渇に大きな影響を与えているという論旨である。
その林業の実態がこと細かに語られているが、日本の林業の衰退は、安価な輸入木材の流入がその最大の理由であろう。
だが、日本で使う木材を外国から持ってこようが、日本の材木を使おうが、地球全体の材木が消費される事に変わりはない。
こういう産業の推移というのは、何も林業だけの問題ではなく、戦前・戦後を通じて日本が今まで繁栄を築きあげてきた過程では常にあったわけで、それは林業のみに限らない。
石炭産業も、絹織物も、他の繊維業界も、かつては栄華盛衰の試練を経てきているわけで、それはある意味で輪廻転生ということでもあるが、この問題がそういう問題と比べて一味深刻なのは、国土というものに直接関わりがあるからである。
日本の中に外国人の所有する土地が出来るという点に深刻さがあるのである。
そもそも、日本の野山に湧き出ている清水の水は、極めて美味しいことは言うまでもなく万人が認めるところである。
だから、その水の湧き出る場所を外国人が占有するとなると大きな問題を抱え込むことになるよ、と警告を出しているのである。
そもそも、こういう山林には境界をはっきり示す地籍が曖昧だということが、今まで知られていなかった。
日本の土地は、全てきちんと役場に届けられていて、地番が付いているものだとばかり思っていたが、深山幽谷ではそういう管理が全くなされていないなどとは思ってもみなかった。
ただ私が日常生活の中で思うことは、私の周囲の人でも、車にポリタンクを積んで、名水と言われる湧水を汲みに行っては自己満足に浸っている人間がいるが、私としてはこういう行為にいささか懐疑的である。
日本人として毎日食べているお米にも様々なこだわりを持っている人がいるように、水に対してもこだわりを持つことを非難するわけにはいかないが、私からすれば馬鹿らしい行為にしか見えない。そういう人がいるから、そういう名水をペットボトルに入れて売りだす行為も出てくるわけで、それに対して利に聡い外国資本がそういう商売に手を出したとしても、それを一概に阻止することも府に落ちない。
水は人間の生命の維持には欠かせない物質なわけで、ある意味では完全に戦略的な資源という事も言えるが、我々は太古から水と空気と自由はタダだという概念を持っているので、それを戦略的な資源だとするイメージを抱くことにはいささか違和感を覚える。
地球上の人類の中で、畑作放牧生活を主とする人々が地球上の緑を食い荒らしてしまったが、稲作水稲生活をする人々は、水を上手に使う技術に磨きをかけて、森の保全に並々ならぬ努力を重ねてきたという論旨は十分に納得できるものである。
毎年春先になると中国大陸から黄砂が飛んでくるが、あれは人間が中国の大地を丸裸にした結果であって、いわば人災というのだから驚く。
彼らが野山を丸裸にしたのだから、その後植林をすればああはならなかったであろうが、それをしないところが漢民族の漢民族たる所以なのである。
砂漠化した土地を元の緑に戻すということはほぼ不可能なことで、緑の原野を砂漠化することは安易に出来るが、その逆は不可能なわけで、それを中国人は有史以来し続けてきた。
この本の言わんとするところは、そういう中国人の触手が日本の森にも及びつつあるから注意を怠ってはいけませんよ、と言っているのである。
樹を切ったのでその後に植林をしておけば、砂漠化ということは避けられたであろうが、その植えた樹が再び地球を再生するまでには、人間の時間単位で途方もない長期のスパンを要するので、過去の中国人、要するに漢民族というのはその努力を放棄したという事だ。
問題はこの部分にあるわけで、中国人とくに漢民族の人々は、自分の目の前の利得にはなりふり構わずむさぼり取るが、その後のフォローには何の関心も示さないわけで、自然が荒廃するに任せたままで平気でいるというわけだ。
自分の回りから得るものが無くなると、次の場所に移動するわけで、移動して来られた側は、たまったものではない。
21世紀までの人類は、森の樹は無尽蔵にあるという認識でいたに違いない。
日本のみならず、アメリカでも、ロシアでも、いくらでも樹を切り倒して、外国に売り渡していたわけで、だからこそそれを買い叩いて来たから日本の林業が衰退したわけである。
日本の樹であろうが、外国の樹であろうが、樹の絶対数が減れば、その分自然界の酸素の再生能力の減少は必然的に減ることは言うまでもない。
日本の林業も、切って搬出できる範囲のものは全て切り尽くしてしまって、残っているのは切っても搬出できないところのものだけと言うことだ。
こういう問題に直面すると、私は人間の英知に期待を掛けたくなるが、これがなかなか不合理であって、英知が英知たり得ないのは一体どういう事なのであろう。
日本でも外国でも、地球規模で見て、頭の良い人は掃いて捨てる程いるに違いなかろうが、そういう人の英知が、この森の保護、砂漠化の抑制、水震源の確保という人間の生存に直接関わる問題に対して、優れた対応策や解決策を提示できないということをどういう風に考えるべきなのであろう。日本でも優秀な大学が掃いて捨てる程あって、そこの卒業生も腐る程いるに違いないが、そういう人の知性とか理性、理念というものが、社会の正常化にいささかも反映されない、ということはどういう事なのであろう。
林業に関しても 日本の大学の農学部で、林業を専門に研究しているところもあるに違いないと思うが、そういう学究的な実績が一向に我々国民の目に入ってこないということは一体どういう事なのであろう。
この本を読んで思い当たることに、日本では地権者の権利が余りにも強くて、国家権力さえもその個人の私有権を越えられないという矛盾にあらためて思い至った。
今の日本の国民に与えられた私有権、土地所有権は、国家権力でさえもそれを抑圧することが出来ず、公共の福祉のために個人の土地所有権に制限を加えることが出来ないので、それが為公共機関の施設が使用不能に陥っているケースがあって、その代表的なものが成田空港である。
たった数軒の個人の為に、日本の空の表玄関であるべき成田空港の機能が大幅に制限されている現状がある。
この問題に対しても日本の知識階層は、国家の利益を阻害している反対派住民に肩入れをして、日本の知識階層が国益を阻害している人達に良い子ぶって支援する風潮というのは由々しき問題だと思う。
個人の私有権の擁護と、国家のなす公共の福祉を秤に掛けて、個人の我儘を助長するような言辞を弄しては、学識経験者、あるいは知識人としての矜持に欠けると思う。
国家対個人という図式において、どうしても強い側が国家で、個人の立場は弱いものだ、という認識が普遍的であるが、公共の福祉という事が前提であれば、個人の私権の制限という事も素直に受け入れるべきだと思う。
この本の中では、森あるいは水源地を守るといった場合、この個人の所有権、私権が大きく立ちはだかることを危惧しているのである。
山林の売買に関して、売り主は一刻も早く手放して、現金化したいばかりで、藁をも掴む思いで買主を捜しているが、その売買には何の制限もないので、買主の素性が如何なるものであっても厭わず、外国人に渡る可能性が大いにありうるということである。
個人と国家という対立の図式で見ると、過疎の山林の持ち主と、得体の知れない山林ブローカーの存在というのは、資本主義の基本である自由競争に委ねられていて、国家が介在すべきものではないという認識が普遍化している。
だから強力な国家権力の介在という風には見えてはおらず、日本の知識階層には等閑な問題にしか映っていないので、国家の危急な問題とは考えない。
戦後、我々同胞の知識階層、知識階級、高学歴な大学教授やそれに類する評論家というような人々は、国家権力というものが悪の権化かのような認識に浸っている点に大いなる問題が潜んでいる。私に言わしめれば極めて無責任な態度ということになるが、何故に無責任かといえば、如何なる場合、場面でも、大衆、民衆、国民の側の権利を優先させるわけで、それには公共の福祉よりも一部の市民の我儘を優先させる、という大矛盾を正そうとしない点が無責任極まりない。
大衆や民衆というのは、その存在そのものが「善」であって、国家というのはその存在そのものが「悪」だという認識から脱却できないでいるわけで、その事は完全にマルクス史観に嵌り込んだ、妄想であって、自分の頭脳で現実を見ていないということである。
成田闘争に関んして言えば、一部の反対派の住民が未だに頑張っているので、本来もっと有効に、アジアのハブ空港としての機能を発揮し得るところがそうなっていない。
その事実は、大きく日本という主権国家の国益を阻害しているのだけれども、日本の知識階層は、未だに反対派住民をフォローし続けているわけで、これでは日本という国が良くなるわけがない。日本人の中でも教養知性が豊かで、学識経験豊富な階層の人々が、自分の祖国の国益を殺いでいて、自分の祖国の政府に反旗を翻して、自分の祖国の施策の足を引っ張っていてはいては、諸外国から尊敬を得られる国家たり得ないではないか。
日本という国土の中で、外国人が土地を買いあさって、一旦土地の所有権を握ってしまえば、それは国家権力さえも自国の国民のために有効に利用することが出来ないでは、日本という国家そのものこれから先存続し得ない。
日本における土地所有権に関んしては、国家権力でさえも関与し得ないというのでは、国家の繁栄ということは最初から成り立たないではないか。
外国人が日本の土地を買い漁る問題からは飛躍するが、日本という主権国家がこれから先世界と渡り合って生き残って行くことを考えた時、やはりグローバル化と言いつつも、自分たちのアイデンテイテイ―は維持しなければならないと考えざるを得ない。
日本が国論を二分する岐路に立たされたとき、日本の知識階層と日本のメデイアは、こぞって政府に反対する主張を展開する。
物事を推し進める時には『すべきか?すべきでないか!』とニ者択一を迫られることは当然であるが、政府が『しよう』と考えた時には、それを願う人々がいるからこそそういうアクションが起きるわけで、それに反対するということは、そういう人達の意思や願いを踏みつぶすことでもある。ところが、それに対して反対を唱える人達は、どういう対処方法を持っているのであろう。
私にはそういう反対運動をする人達は、政府に盾突くという事で、自分たちのパフォーマンスを演じているのではないかと思う。
現時点での問題では、福島の原発事故に関連して、原発を再開するかどうかという問題であるが、原発など無しで済ませれればそれに越したことはないが、果たしてそんなことができるかとなると答えはない。
反対派の人達はその点を突かれると、「それは政府の責任」と、自分の不利なことは政府に押しつけて、自分は見た目の良い、如何にも社会に貢献しているが如く、立派なことを言っている、かの様に振舞っている。
私に言わせれば、時流に便乗することの得意な、風見鶏に過ぎない。

『父・金正日と私、金正男独占告白』

2012-04-14 12:04:37 | Weblog
例によって近所の知人が自分の読んだ本を我が家に捨てて行った本の中から『父・金正日と私、金正男独占告白』という本を読んだ。
まだ新しい本で、今年の1月に発行されたばかりの本だ。
こういう本を自分の金で買って、読んだらすぐに捨てる贅沢を一度はして見たいと常々思っている。貧乏人はそういう贅沢が出来ないので、とぼとぼと地域の図書館でセーブ・マネーに努めねばならない。
ああ!!!情けない。
一度は自分の金で好きな本を欲しいだけ買い込んでみたい。
そういう愚痴はさておき、この本も前に述べたように、本来の表紙の上に更に別の表紙が被さっており、二重底というか過剰な包装というか、余分なことが成されている。
だが、その表紙の金正男の顔写真というのが余りにも品がなくて、警察が発行する指名手配の犯人の顔写真と同じである。
本人が見たらきっと出版差し止めするに違いない。
この本の中では金一族のことをロイヤル・ファミリーと称しているが、独裁者の一族という意味では確かにロイヤル・ファミリーであろうが、その実態はまさしく野生動物のファミリーに近い。
人類の歴史の中で我々人たるものが一夫一婦制を採用してきたということは、人間の持つ理性のなせるわざであって、人間が『考える葦』であるからには、それぞれの個々の人間が自分の頭脳で、自分たちの健やかな生存を考えた結果が一夫一婦制であったに違いない。
当然のこと、人間の理性にも人によって大きな振幅があるわけで、一夫一婦制に納得できず、尚本人の個性によっても一人の妻に納得出来ない人もいるわけで、いろいろな抜け道というか、言い逃れの便法も用意されていることは論をまたない。
しかし、人類の価値観としては一夫一婦制が普遍化したわけで、これがスタンダードな人間の道として認識されている。
しかし、金日成の一族は、そういう普遍化した人間の道を踏襲することなく、欲望の赴くままに子孫を増やしたので、母親もその子供達もまさしく野生動物の在り様と変わらない状態になってしまっているのである。
この状態は日本でも明治維新の前頃までは普通に見られた有り様で、そのこと自体を咎めるものではないが、近代の意識としては極めて時代錯誤しているわけで、この時代錯誤が統治の面にもそのまま現れている部分が問題なのである。
そもそも北朝鮮、朝鮮民主主義人民共和国という国の生い立ちそのものが、極めて不合理極まりないわけで、そこを最初に統治した金日成から金正日、金正恩にいたる世襲ということも、はなはだ不可解なことである。
この本の内容は、今の金正恩の腹違いの兄・金正男との情報のやり取りが主題になっているが、その中において、この兄が権力の世襲に対して否定的に見ていることが強調されている。
ところが、北朝鮮という国のすることは、普通の人の意表を突くことばかりで、我々の普遍的な認識が全く通用しないところが不可解千万である。
彼、北朝鮮という国は、自分達が国際社会で孤立している、しかも軍事的にも経済的に全く弱い立場だ、ということを武器にしている。
弱い者が強い者を恫喝しているわけで、こういう論理は普通の常識的な世界ではあり得ないが、それが現に存在することが北朝鮮という国である。
そのことは国家が国家の体をなしていないということだと思う。
普通の国家ならば、為政者は自分の国の国民、住民、市民に対して責任を負って、そういう人達が幸せに暮らせるように様々な方策を講じて、そういう人達のために便宜を計るのが普通の主権国家というものである。
為政者がそうであるからこそ、その国の国民は、為政者に対して納税や兵役の義務を負うのである。為政者の行う国政の第一の目的は、自らの国民の福祉に貢献することであって、自分の国の国民に豊かな生活を補償することである。
ところが中国や北朝鮮の為政者は、国民の福祉という概念が全く念頭にないようで、自分が国家権力の椅子に座り続ける事と勘違いしている節がある。
昔、東西冷戦華やかりし頃、中国の毛沢東はアメリカの核攻撃に対して、「そんなモノは全く怖くない」と言い放ったことがある。
中国は「13億の人口を抱えているので、1億や2億死んだとしても、残ったもので起死回生が図れるので、アメリカの核攻撃など少しもこわくない」と言ったとされている。
今の北朝鮮が6カ国協議に立ち向かう姿も、この構図と瓜二つで、北朝鮮の為政者にとって、自分の国の国民、住民、市民のことなど眼中になく、ただただアメリカと対等の立場でモノを言う事だけが、彼らの存在価値であるかのような対応である。
こういう為政者の姿は、アジアの地に連綿と生き続けているであろう野武士、山賊、夜盗、強盗、馬賊、軍閥の類でしかないということだ。
これは日本でも江戸時代前の戦国時代はこれとほぼ似たり寄ったりの世界であったわけで、織田信長も徳川家康も、ほぼこれに似た部族集団であったと見做していいが、言い方を変えれば、近代化以前の人間集団だということに他ならない。
近代化以前の人間集団であるが故に、為政者は、自分の隷下の人間を、国民だとか市民という認識ではなく、奴隷かぐらいにしか考えていないのであろう。
だからアメリカが「食糧援助を断ち切る」と言ったところで、国家の上層を成している人々は何の痛痒も感じず、困るのは下々の人間だということに考えが及ばないので平気でおれるのである。
今回、平成24年4月13日、北朝鮮はロケットの打ち上げに失敗したが、それに先立ってその打ち上げの施設を世界のメデイアに向けて公開した。
ところが、それほど大見えを切ったにも関わらず失敗だったということは、完全にもの笑いの対象になったが、そういう感覚が彼らにはないのであろうか。
人間の集団が近代化すると言うことは、大勢の人の意見を聞いて、その中の最良と思われることを採択して、前に進むということであって、たった一人に独裁者が自分の意向でことを動かすことではない。
北朝鮮が、ロケット打ち上げのコントロール・センターを世界のメデイアの公開したということは、彼らにとって真のロケット打ち上げの本質が判っていなかったのではないかと思える。
日本の場合でも、ロケットの打ち上げは国防という意味からでなくとも、技術的な秘密部分もあろうかと思うので、全面公開というわけではないと思うが、テレビの報道で見る限り、北朝鮮のロケット打ち上げのコントロール・センターの在り様は芝居のセットのようにしか見えなかった。
私のような素人であればこそ、あれでロケットが打ち上げられるのか、甚だ不思議に思えたものだ。このあたりのセンスが、普通の常識人の意表を突くものであって、実に摩訶不思議な部分である。何でもかんでも秘密にしながら、大事なことを公開したと思ったら、まるで芝居じみた振る舞いで、こちらが度胆を抜かれた思いだ。
小泉総理の時に行われた日本人拉致の問題でも、最初七人は何の問題もなく返したが、その後横田めぐみさんの件になると、偽の骨まで出してきて問題を混乱させてしまったが、あれは一体何であったのだろう。
急所を突かれると場当たり的にその場を取り繕うという感じで、見え見えの嘘を平気でつくという神経は、我々には理解し難い面がある。
こういう彼らの態度は、我々の感覚からすれば、全く誠意のない行為に映るわけで、我々の倫理感では決して許される事ではないが、彼らにはそういう認識が欠けている風に見える。
この倫理観の相異というのは、地球上の人間集団にはそれぞれに固有のものがある。
人間の集団には、その集団が置かれた地勢的な条件によって、それぞれ固有の思考回路が出来上がっていると思う。
我々、日本人の倫理感では、誠実こそ至上の価値観であるが、朝鮮民族にとっては誠実さよりも、その場その場を如才なく泳ぎ回る知恵こそ至上の価値を示しているのかもしれない。
他者に対して奉仕や貢献することに価値を示すのが我々の倫理観で最も高い価値を示しているが、アジアの諸民族の間では、自己保存のみに価値を示す例が多く、自己犠牲など最も卑しむべき行為と見做している民族もいる。
北朝鮮の金一族も野武士の集団ではないので、周りに有能なスタッフを揃えて物事の判断をしているとは思うが、そのスタッフがボスの顔色ばかりを伺って、ボスの喜ぶことばかりを提言していたとしたら、全体が崩壊しかねないことは当然のことである。
先日、韓国を観光旅行してみたが、韓国の近代化は目を見張るものがある。
こういうことを言うと韓国人は怒り心頭に来る想いに立つかもしれないが、韓国の近代化には、彼らのいう「日帝36年の七奪」という命題が大きくのしかかっていると思う。
これの別の言い方をすれば、朝鮮は日本に支配されたからこそ、近代化に目覚めれたという事だ。
朝鮮民族は朝鮮民族の自らの内なるエネルギーでは自己改革、近代化という意識改革を成し得ず、従来からの老醜の呪縛から脱し切れずに、中国の属国のままでしか生きれなかったに違いない。
「日帝36年の支配」があって始めて朝鮮民族は近代的な法の存在を知り、税のシステムを学び、社会的インフラ整備ということを習得し、学校制度を確立して進取の気風を醸成し、意識改革に成功し得たのである。
それが今の韓国の経済発展の礎になっているが、それを言うと、彼らの自尊心の估券に関わるので、口には出せないのだろうが、こういう部分が余りにも利己的に我々には見える。
自分にとって不利な部分、自分にとって恥の部分、自分にとって弱い所を曝すことは自尊心が許さないわけで、それをカモフラージュするために、故意に虚勢を張るという部分が彼らにはあるように見える。
北朝鮮も日本が敗戦を迎えるまでは日本が支配していたわけで、日本はこの地域に莫大な社会資本の投下を行った。
その事を今では日本の悪行であるかのような言い方でいわれているが、その社会的インフラ整備をことごとく無にしたのは、彼ら自身の彼らのための戦争であって、日本が折角作り上げた近代工業の礎をことごとく無に帰したのは彼ら自身の選択であった。
私としては、北朝鮮のことを特に注視して見ているわけではないが、日本のメデイアの報ずるところから察する限り、北朝鮮においては国家としての組織そのものが充分に機能していないように見受けられる。
そういう状況であるからこそ、この本の著者・五味洋治という東京新聞の記者は、そのロイヤル・ファミリーの一員である所の金正男に近づき、コンタクトを取ったのであろう。
金正日という為政者の長男として、自分の子供を海外で教育するということは、帝王学としては有りうることであろうが、そうであればこそ、そういう教育を受けたならば祖国に戻って、国政にその留学で得た広範な知識を反映させてしかるべきである。
ところが彼の場合、そういうことは見受けられないわけで、あくまでも放蕩息子の域を出るものではなく、ただただ金日成一家の末裔というに過ぎない。
この本の著者である五味洋治も、彼が金日成一家の末裔と言うだけで、ジャーナリストとしての触角が動いたのであろうが、いくら彼とインタビューした所で、それは芸能人のインタビューと同じ次元でしかない。
ただその対象が北朝鮮の為政者の放蕩息子だから、取材対象としては多少値打ちが高い、という程度のものでしかない。
そもそもこの本の表紙の顔写真からして戴けない代物ではないか。
この写真は著者・五味洋治自身が撮影したものと記されているが、そうであるとするならば、彼自身の審美眼、あるいは美的センスというものが疑われる。
この本の表紙の写真はそれこそ指名手配の顔写真であるが、裏表紙には家族一員の記念撮影的な小さな写真が記載されている。
だが、こちらの方がよほど頬えましいものである。
著者が本人に直接会って写真を撮らせてもらったというからには、たった1枚ということは考えられないので、他にも良いものがあったに違いないと思うが、敢えてこの写真を選択したということは、そこにこの著者のセンスが映っていると言う事である。

「背信政権」

2012-04-12 22:15:26 | Weblog
例によって近所に住む知人がわが家に捨てていった本の中から「背信政権」という本を読んだ。
まだ新しい本で、中央公論新社が昨年(平成11年)の5月に発行した本である。
私の知人は金持ち父さん(本当は爺さん)なので、こういう本を右から左へと買っては捨てられるが、私は貧乏人を自認しているので、とても同じ真似はできない。
この本の定価は1600円となっているが、本来、本の値段などというものは、中身の内容によって軽重が変わるものではないかと思う。
内容的には文庫本で十分なものをこういう単行本に仕立てるということは、資本主義体制の最も基本的な部分であろうが、それを言葉を変えて言えば、売らんが為に創意工夫が満載されているということでもある。
本の内容に関わる問題ではないが、ただただ消費者の財布を緩める為の工夫が盛り沢山なわけで、その一つが表紙の体裁である。
本であるからには、表と裏に表紙があることは当然でるあが、本来の表紙の上に更にもう一枚綺麗な表紙を被せ、その上に尚も帯までが入っている。
これでは普通に土産物屋で売っているお土産の二重底、あるいは上げ底に匹敵することで、本を買う消費者からすれば、そんなに綺麗な表紙のカバーに金を払う気は更々ないに違いない。
私自身は根が貧乏なので自分の金で本を買うということはあまりしないので、出版界の寄生虫のようなものだが、それでもこういう本を手に取るといささか不思議に思う。
そして書いた人がこれまた讀賣新聞の人で、民主党政権になってから読売新聞社内で、民主党政権をウオッチするチームが作られ、社会部と政治部の混成チームでウオッチし続けた結果を纏めたものだということが判る。
新聞に連載された記事を、後で一冊の本にするということは往々にしたあることだと思うが、その時の版権は一体何処に帰属するのであろう。
出版界の寄生虫が心配する筋合いのものではないが、そういうことは専門家集団なので我々のような素人が心配するに及ばないかもしれないが、素人としては気になるところである。
新聞社の人間が、会社の金で取材して、それを記事にするまではよく判るが、その後に残ったその原稿は一体どうなるのであろう。
一旦記事なった後の原稿を寄せ集めて、更に一冊の本に仕立て上げることは、悪いことでないと思うが、その本の売り上げとしての儲けの落ち付く先は一体何処にあるのであろう。
メデイア界ではこういうことがよくあって朝日新聞でもNHKでも、一度公開した内容を再び本にしたり、他の映像として世に出すことはままある。
その時に取材した記者は、自分の仕事の範囲内として、その後で本にした部分の儲けにはタッチしていないというのならば納得がいくが、その意味で大学の先生の出す本にも同じことが言えると思う。
大学という組織の中で、給料を受け取って、大学の研究費で研究をして、それを学会誌に発表する、学術誌に発表するまでは大学の先生としての常識的な立ち居振る舞いであろう。
ところが、その原稿を一般の読者向けに手直しして、一般向けの教養書として発行し、印税を稼ぐとなるといささか問題になるのではなかろうか。
こういう下素っぽい論議はさておいて、小泉政権の後の自民党の体たらくにはほとほと嫌気がさして、民主党に乗り換えてはみたものの、これも全く頂けない有り様である。
我々日本民族というのは、物作りには長けているが、どうして政治的には何時まで経っても3流国の域を出られないのであろう。
我々日本民族は極めて単一民族に近いと言われているが、厳密には海から来た異民族とも融合しているわけで、限りなく単一民族に近いと言いつつも正確にはそうではない。
しかし、我々日本民族を取り巻く地勢的な環境は、海が極めて強固な要塞の役を果たしていて、他民族の影響を限りなく制限してきたことは確かだと思う。
ある意味で海が隔壁の役を果たして、その中で限りなく純粋培養に近い有り様で進化してきたに違いない。
我々の国土に住む我々の同胞は、極めて純粋培養に近い状態で生き永らえてきたので、極めて単一性が高く、それこそ以心伝心という技を知らず知らずのうちに習得していた。
自分の周りの人間は、全てが自分と同じ日本人であり、同胞であるので、何も警戒する必要が無い。相手を信用しても、「庇を貸して母屋を取られる」ことを心配する必要がないし、農業に生産基盤を置いているので、自然の恵みは年々巡ってくるわけで、集落を統治する役目もお互いの回り持ちで済ませれたわけである。
統治ということを、人々を管理するという発想で捉えるのではなく、役職の盥回しという感覚で捉えて、皆が平等に役職を務め、皆が公平に使役を分担するという感覚で捉えていたのである。
集落のトップの地位は統治のためのポストではなく、輪番制でたまたまそこに座っただけのことで、権力の象徴でもなく、統治の指標でもないわけで、決して固執する立場のものではなかった。
この部分は、地球上の他の民族の概念とは全く相容れない思考であって、日本の常識が世界の非常識であり、世界の非常識が日本の常識である所以である。
しかし、日本が鎖国状態のときはこれでもよかったが、我々の国も世界の国々と歩調を合わせて歩もうとすると、これでは世界に通用しないことは当然のことである。
この本が語りかけていることは、日本の中において、日本人が日本を統治するについての余りにも不手際が多すぎることを憂いているわけで、これは日本人の自らの統治能力の瑕疵にそのままつながっている。
我々日本人の祖先は、農耕民族として水の管理にはそれこそ血道を分けた紛争を経てきていると思う。
Aという集落とBという集落とCという集落が、それこそ田に引く水に関して死活問題として論じ合ったに違ない。
それぞれの村の長が集まって、鳩首会談をしたに違いないと思うが、今の民主政治もこの延長線上にあると思う。
要するに、政治に対する感覚として、江戸時代の村の長の寄り合いの域を出るものではなく、そういう感覚で21世紀の政治をしているからこそ、無意味な議論が罷り通っているのである。
民主党の掲げるマニフェストというのは、国民が心の底から渇望しているものを網羅しているが、これがその通りに実現できればこんなに幸せなことはない。
しかし、その財源は何処から出すのだ、となると明確な答えはないわけで、結果として出来もしないマニフェストを掲げた、嘘を言ったという結果に結び付いてしまう。
子供手当でも、出来ればそれを振りまいた方が国民が喜ぶのが当然であるが、「ならばその財源は?」となると答えはないわけで、そこで自民党との確執ができるのである。
国民の為という大義の前では民主党も自民党もない筈である。
問題は、その大義の重心を何処に置くかの違いだけで、自民党でも理念としては「子供手当など全く必要ない」と言うわけではない筈だが、政党として政党の利害得失を考えると、民主党の言うことにもろ手を挙げて賛同するわけにもいかない。
これが党利党略というもので、この党利党略が大きな足かせになっているのが今の日本の政治の状況だと思う。
与党の提案にもろ手を挙げて賛成すれば、反対党の存在意義が失われるわけで、政党政治である限り、心の中で相手の党の言う事に賛成であったとしても、政党員である限りそれが表に出せないのである。
ここで党と個人の関係が日本の封建性のしっぽのようなものと映り、前近代的な思考を引きずっているあかしである。
それと、我々日本民族というのは、責任ということに極めて曖昧な思考しかもっていないように思う。
自民党政権でも民主党政権でも大臣に任命された人が、他愛のない失言で大臣の椅子を放り出すケースが後を絶たないが、これは一種の責任の取り方の一つではあるが、そういう責任の取り方があっていいかどうかの議論は一向に出てこない。
人は誰でも失言の一つや二つは無意識のうちに発してしまうと思う。
不用意で言ってしまうこともあれば、常日頃心中で思っていることがポロッと出てしまうこともあろうかと思うが、その度ごとに大臣が変わると言うのも、余りにも大臣の値打ちが軽いということでもある。
人の発言の言葉尻をつかまえて、揚げ足取りに徹する行為も、余りにも議論の本旨をゆがめてしまうもので、民主主義の本質を見失う最大のものだと思う。
これは政界、政治を司どる立場のものが、政治をマツリゴトと認識して、村の寄り合いの延長線上の認識で以て、マツリゴトというパフォーマンスを演じている図でしかなく、国民のために何を成すべきか、ということを忘れた立ち居振る舞いだと思う。
そして、この本の内容であるが、この本は政権交替した後の民主党政治の政局を縷々述べてるが、問題はこの政局を述べる、政局を語るという行為であって、これは実に下賤な振る舞いではなかろうか。
俗に床屋談議という言葉がって、床屋で語られる政局は、無責任極まりない放言ばかりで、何の参考にもならないという意味で言われているが、この本もそれと全く同じ轍を踏むもので、民主党政権の政局をいくら熱弁で語ったとしても、屁のツッパリにもならないという典型的な例である。
民主党というのは元を正せば革新政党で、憲法改正反対、自衛隊反対、日米安保反対が基本的な伏流水として在るわけで、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの最も忠実な実践者でもある。
対日戦に勝利したアメリカの、日本民族の金玉抜き政策を後生大事に押し戴いて、日本民族であることを否定しようとする人達である。
民族としての誇りも名誉もいらない人達で、ただペットのように飼い主から餌さえ与えられれば、自らの力でそれを維持管理することさえも忌避しかねない思考なのである。
鳩山由紀夫などは宇宙人と言われるぐらいノー天気な人なので、耳触りの良い綺麗な言葉に酔いしれて、出来もしない約束を安易にするので、後に続く人が困ってしまっているが、本人は自分の撒いた種の事の重大さに全く気が付いていないようだ。
この人の政治感覚は全くのド素人であって、浜田幸一氏のように生き馬の目を抜く修羅場に顔を出すべき人ではない。
「おだてりゃ豚も木に登る」という例えのようなもので、政治家としては全く人畜無害な人であるが、それがおだてられてノコノコ顔を出すから、世の中が混乱するのである。
彼の最大の失敗は、沖縄の米軍の移転問題であるが、彼は余りにも安易に出来もしない約束を交わして、それが結果として彼の命取りになったが、彼の約束は彼が退いた後も生きているわけで、その事を考えると彼は日本の国益を大きく損ねたことになる。
ところが、この彼の失政の責任、国益を大きく損ねた責任は一体どうなるのであろう。
今月に入って彼は再びイランを訪れて、イランへのIEAOの在り方に文句をつけて物議をかもしだしているが、彼の政治的センスというのは一体どうなっているのであろう。
馬鹿とか阿呆としか表現の仕様がないではないか。
管直人も市民運動家出身の総理大臣ということであるか、彼自身も自分が統治者と言う認識が無く、国民を統治するという意識は持っていないと思う。
市民運動の延長のような感覚で、町内のお祭りや運動会をし切っているような感覚でいたに違いない。
町内のお祭りや運動会をし切っている分には、全部が日本人という仲間であるが、国の総理大臣ともなれば、付き合う相手は国際的な広がりを持つわけで、仲間内というわけにはいかない。
そこに東日本大震災が覆いかぶさってきたわけで、それに付随して東京電力の福島第1原子力発電のメルトダウンが追い打ちをかけたので、民主党政権の危機管理能力が見事に試されたことになった。
民主党は今までは野党であって、与党、自民党に対して言いたい放題のことを言い、責任は一切回避できたので、随分とお気楽な立場でおれたが、自分が政権をとってみると、与党の辛さを身に沁みて感じたに違ない。
しかし、考えてみると人間の集団というのは実に不思議な存在だと思う。
人間の集団という言い方は極めて雑駁とした捉え方であるが、地球上のあらゆる主権国家には、それぞれに優れた大学を持っていると思う。
大学ともなれば、それぞれに知の殿堂なわけで、そこを出た人は、それぞれに優秀であって優れた知性と理性の持ち主に違いない。
そういう人が頭を寄せ合って、それぞれに国家の運営に当たっていると思うが、それでもこの世に失政ということは多々ある。
これは一体どういうことなのであろう。
日本にも有名大学は掃いて捨てるほどあって、今の若者の60%以上がそういう大学を出た人だと言われているが、21世紀の日本はそういう高学歴社会に至っている筈であるが、そうであれば今日の政治の低迷は一体どう説明するのだろう。
民主党は高校無料化を目指し、大学は全入を目指しているが、日本がそういう高学歴社会になればもっともっと住み易い国になって当然であるが、そうなっていないのは何故なのであろう。
大学での教育というのは一体何なのであろう。
日本は戦争に負けたので、アメリカ占領軍のウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムに忠実に従って来た経緯があるが、民主党員が政権を担うような時代になれば、我々の祖国が根本からメルトダウンするのも当然の帰結と言える。
一度敗戦を経験したら「もう金輪際、武器を取ることを止めましょう」、一度原発が事故を起こしたら「もう金輪際、原発は止めましょう」というのは余りにも幼児じみた思考ではなかろうか。
中国漁船が日本の巡視艇にぶつかってきたので船長を逮捕したら、中国の恫喝にあっさり屈服する民主党政権の不甲斐なさも、基本的にはアメリカ占領軍が日本国民に施した、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの完膚なきまでの成功例である。
金玉を抜かれた日本民族は、世界の羨望の的であることは間違いない。
何となれば、こんなに人畜無害でよく働く民族は他にいないわけで、踏んでも踏んでも雑草ように立ちあがって、モノを作りに精を出す民族は他にないからである。
中国人あるいはアメリカ人からすれば、まるで打ち出の小槌のようなもので、打ちつければ打ちつけるほど金銀財宝がザクザク出てくるわけで、こういう民族を根絶やしにすることは、彼ら自身の損失につながる。
だから彼らからすれば、生かさぬよう殺さぬよう、適当に泳がせておくことが最良の策なわけで、彼らはそれを実践しているのである。
適当に餌を与え、出過ぎた時は制裁を加え、おとなしい時はおだてて働かせれば、日本民族というのは実に生真面目に働く。
その中で、その殻を破る勇気を持った者はおらず、その殻を破って本来の大和魂を発揮しようとすると、自分に災禍が及ぶことを恐れ、そういう人の足を引っ張り、一様に綺麗な言辞に惑わされて、血を見ることを避けたがる傾向の中で飼いならされているのが我々の現実の姿なのである。
そういう現実であったとしても、それで直接人が死ぬわけではないので、それが平和だと思い込んでいる。
民主党政権というのは基本的にこういう人々の政権なわけで、魂を抜かれた大和民族の末裔であるが、それでも人は生きて行かねばならず、プライドや誇りは投げ捨てでも、生物的に生きねばならないのである。
こういう非常に心根の優しい政権なので、国民に喜ばれる施策は大いに推し進めるが、その結果に関して責任を負うものではない。
その責任は次世代に先送りするだけで、自分たちは人から恨まれる施策は極力さけて、耳触りの良いマニフェストを吹聴するのに一生懸命になっているのである。

「YUIGON」

2012-04-11 08:10:19 | Weblog
近所に住む知人が自分の読んだ本を捨てる前に私に置いて行ってくれた。
その中の「YUIGON」という本を読んだ。
著者は浜田幸一氏であって、この本の表題は、彼の言うには『遺言』という意味と内容を盛ったもの、ということらしい。
この浜田幸一という人はメデイアにもしばしば登場して人気を博しているが、そういう彼のパフォーマンスは彼の気持ちの中では政治家を辞めた後の政治活動というものらしい。
この本は彼が自らペンをとって原稿用紙を一字一字埋めていったものではないようだ。
ある意味で口述筆記に近いものではないかと推察するが、それだからこそ非常に読み易く、判り易い文章で綴られている。
彼のメデイアにおける発言は非常に過激に思える部分もあるが、彼はでたらめを言っているわけではなく、非常に的を得た発言をしている。
彼の考えていることは、基本的に私の思考と合致しており、私は彼の思考回路を非常に買っている。ただ、問題とすべきことは、彼がアメリカのラスベガスで賭博をして大負けをしたと報道されたが、そのことが彼の不道徳、不行跡、不届きな行為という印象で、世間の人に認知されている。
ところが、この部分の彼の弁明では、一旦受け取ったリベートを先方に返す為の振る舞いだったといっている。
もしこれが真実ならば、日本のメデイアの本質が問われるべき課題だと思う。
あの戦争中に、日本政府の大本営発表がことごとく嘘であったことを戦後我々は知ったわけであるが、それと同じことが戦後も行われていた、ということは実に嘆かわしいことだと思う。
浜田幸一というオッチョコチョイの政治家が、ラスベガスで賭博をすることの裏も取らずに報道する、というメデイアのオッチョコチョイ振りを何と評したらいいのであろう。
浜田幸一氏が、小佐野賢治か児玉誉士夫か田中角栄の依頼で、受け取ったリベートをアメリカ側に返還に行ったとすれば、それを察知し切れずに「ラスベガスの博打で負けた」という根も葉もない報道は一体何であったのかという事になる。
事の核心も探りきれない報道であったとしたならば、報道の意味を成さないわけで、浜田幸一の功罪よりも、メデイアの不甲斐なさを真剣に憂えなければならない。
彼は政界という伏魔殿の中で修羅場を掻い潜ってきたわけで、そのしたたかさおいては人後に落ちないだろうが、その意味で終始一匹オオカミ的に行動し、派閥に属さない生き方を選択したと言うことは大いに共感を覚える。
一匹オオカミ的な態度を貫いたからこそ、言いたい放題のことが言えた、という面もあろうかと思うが、民主政治というのは基本的にそういうものでなければならないと思う。
しかし、民主政治というのは数のマジックが罷り通る場であって、理念や理想をいくら語っても、最後に決するのは人の数であって、正しいことが必ず多数の賛同を得られるとは限らない。
浜田幸一氏の本とはいささかずれるが、昨年の地震による東京電力福島第1原子力発電所の事故に関連して、日本中があの事故を契機にして、「もう原子力発電は要らない、原発廃止」という運動が盛り上がったが、こういう国民大衆の心理もよくよく注視しなければならない。
あの事故で、福島県の一部では放射能が飛び散って人が住めなくなった、という面は如何ともし難いが、だからといってこれから先原子力発電を一切認めないという発想も極めて短絡的な子供じみた発想ではないかと思う。
再び同じような事故を起こしたくない、という感情論は十分に理解できるが、「だから今後一切原子力発電は罷り成らぬ」という発想は、余りにも幼児じみた思考ではないかと思う。
大震災がきっかけとはいえ、誰でも「同じような事故があってはならない」と思っていることに変わりはない筈である。
だからといって「一切、原発を認めない」という発想は、言葉としての理念の綺麗さ、絶対正義に対する盲目的な従属に惑わされた思考停止状態ではないかと思う。
美しい理念や理想を並べることで自分の人格が向上したような気分に浸っている愚昧な人々ではなかろうか。
資源小国の日本にとって、また原爆の被害国にとって、原子力に関するモノが無いに越したことはないが、「ならば日本の電力をどうするのだ」と言ったとき、「節電に務めれば良い」という無責任な答えしかないではないか。
節電などということは、原子力発電が正常に機能している時でも、するのが当たり前のことで、原発のあるなしに関わらずしなければならないことであって、この期に及んで改めて取り組む問題ではない。
我々が問題とすべき点は、「原発が事故を起こしたから、もう二度と同じ惨劇を繰り返したくない」という思いは万人に共通のものであろう。
だが、こういう発想では人類の進化は望めないわけで、同じ惨劇を再び繰り返しては成らないという思いを、事故の真相究明とそれに応じた対策に充てるべく、前向きに考えてこそ人類に未来に貢献する思考ではないかと私は考える。
事故が起きたから「原発を一切合財日本から無くしましょう」では、一見整合性のある議論に見えるが、考え方としては後ろ向きの思考だと思う。
それと合わせて、日本の立ち居振る舞いは世界が見ているわけで、日本で原発廃止の動きが出れば、石油業界のメジャーは「日本は再び炭素エネルギー、石油エネルギーに戻ってくるに違いない、それ稼ぎ時だ」という動きに出る。
現に石油は値上がりし続けているわけで、世界は敏感に日本の動きをウオッチしているのである。その意味で、世界で生き馬の目を抜く熾烈な駆け引きをしている石油メジャーは、我々が日本という国内で大きな声で「原子力発電を止めましょう」と声高に叫んでおれば、「いずれ石油買いに来るからストックしておけ」ということになるのは必然的な動きである。

浜田幸一の政治から少々逸脱してしまったが、彼の政治に対する論旨は、そう極端に変わったものではなく、極めて平穏な思考であったように思う。
ただ彼は派閥に属していないので、他者の支援が得られずその分、派手なパフォーマンスを打って注目を引かねばならなかった。
その為に、一見、極端な立ち居振る舞いを演じなければならなかったことは事実でろうと思う。
民主政治というのは極めて不都合な部分も併せ持っているわけで、多数決原理で事を運ばねばならないので、その多数意見というのが必ずしも最良の方策ではない、ということを真摯に考えなければならない。
民衆、大衆にとっての政治の利得というのは、自らの益するものを得ることであって、民主党のばらまき政策というのは、一般大衆にとってこれほどありがたいモノはない筈である。
政治が生活保護や子供手当、医療補助をすることは国民にとって極めて有難ことに違いない。
しかし、その為には財源がいるわけで、一般大衆や国民は、その方面には無関心なわけで、貰える物さえ貰えれば嬉々としておれるが、その為には増税しなければならず、そのことに対してはなかなか納得し得ない。
本来、民主政治というのは、国民に負担を強いて、国家の付託を国民の全部が分け合うものではないかと思う。
戦後66年間の内の終戦直後の時代は、それこそ生きんが為にがむしゃらに働いた時期であったが、それが高度経済成長を達成し、その後の経済の低迷を招いたわけで、その低迷の時期からいまだに脱出できないでいるのが今の日本の姿ではないかと思う。
ここで我々が考えなければならないことは、当時、日本とアジアでは経済の格差があって、アジアでは人件費が安かったので、製造業は全てアジアにシフトしていった。
結果として製造業のノウハウもアジアに移転してしまったわけで、そのおかげで韓国、中国その他アジア諸国も経済的に大いに発展し得た。
近隣のアジア諸国は、日本から製造業のノウハウを習得し、安い人件費で洪水のようにモノを生産し、それを輸出にあてて経済の底上げに成功したが、それはかって日本が歩んだ道でもあった。
問題は、あの高度経済成長の時、日本では人件費が高くなって製造業が成り立たなくなった。
その時、安易に人件費の安いアジアに工場を移したことにある。
こういう場合の我々の発想が実に安直で思慮分別に欠いた思考ではなかったか、という反省であるが、我々の同胞の中で誰一人だそれを指摘する者がいない。
この発想は「原発が事故を起こしたからもう原発は止めましょう」という発想と全く同じであり、
大東亜戦争に負けたから「もう金輪際、武器を持つことは止めましょう」という思考と全く同じである。
「日本では人件費が高いからアジアに行きましょう」という発想は、余りにも安易な思考であって、それがひいては日本の市場が無くなってしまうという事まで考えが及んでいなかったではないか。日本から製造業が無くなってしまえば、日本の失業者が増えることは理の当然ではないか。
今の日本経済の低迷は、日本に製造業が存在しないので、人々の働く場がない、それが失業者の増大になり生活保護世帯の増加になっているわけで、民主党の近近の課題は人々の働く場を提供することである。
東北の震災復興がままならないのは、あの地に製造業がないからに他ならず、製造業があれば失業者を吸収することが可能で、その分生活保護の給付も減るに違いない。
日本経済の低迷は日本の製造業がアジアに進出した時期から始まっているわけで、モノの作り方を相手に教えれば、相手は教えられたという恩義はいささかも感じないので、「庇を貸して母屋を取られる」仕儀に至ったわけである。
ここで問題になってくるのが人間の知恵という事になるのだが、日本には立派な大学がいくつもあるにもかかわらず、こういう国家の帰趨に貢献する知恵を提供する者が現れないというのは一体どういうことなのであろう。
そもそも人間の組織というものは実に不可解な存在で、あらゆる組織にはそれこそ優秀な人材が掃いて捨てる程いるのであろうが、そういう人の知恵が一向に具現化せず、組織そのものが崩壊するということは一体どういうことなのであろう。
人は綺麗な言葉に惑わされやすい。
しかし、人間の生き様というのは綺麗な言葉では語り継げれないわけで、阿修羅を掻い潜る勇気と挑戦者魂が必要だと思う。
浜田幸一氏はそれを持っていたことは間違いない。

「暴力団」

2012-03-24 09:07:48 | Weblog
この本も知人から貰いうけた本だが、「暴力団」という本を読んだ。
標題が余りにもストレートなので、何か特別におどおどしい内容であるかの印象を受けたが、中味はそう、想定外の事実は書かれていなかった。
組織の中味がブラック・ボックスという意味では、昔の日教組や国労や動労のような左翼的組合の方が興味深い事実があるように思う。
暴力団なるものは真面目に生業に付いている人の上前を撥ねる悪しき存在であることは昔も今も変わらないが、これを根絶できない点も、昔も今も変わらない事実なわけで、これは一体どういう事なのであろう。
この本によると、アメリカのマフィアは組織の情報を一切隠し通して、捜査側に非協力を貫き通す、と述べており、日本の当局と組の関係はもたれ合いの中にあると述べているが、日本の大衆は確かに博徒の集団を庶民の味方という感覚を持っていたに違いない。
社会が近代化してくると、博徒という職業が成り立たなくなって、そういう集団も他の方法で糊塗を凌ぐ方法を考えねばならず、それが自然と人の弱みに付け込む隙間産業を作り上げたという事ではないかと思う。
日本の大衆の愛する清水の次郎長一家も、正確には博徒の組織でありながら、その余剰人員で社会福祉にも貢献したと言われているので、今の感覚でいえば社会秩序を維持する権限を与えられていたということになる。
アメリカの西部劇でいえば、ワイアット・アープは保安官であると同時に賭博の胴元でもあったわけで、日本の清水の次郎長と相対峙する存在と言える。
日本とアメリカで似たような状況があったという事は、賭博そのものが悪と認定されていたわけではないと考えられる。
賭博は人間の自然権であって、この世にある生きとし生きるものは、何かしら賭けをする存在だ、ということが公然と認められていたという事だと思う。
ただこれが近世以降になって、文明化が進んでくると、働きもせず博打ばかりしてあぶく銭をかき集める生き方は許し難い、という理性というか知性が広範に広がって、そういう生き方を糾弾する動きが出てきた。
そして、賭博で、負けた人間は身ぐるみはがれて放り出されるわけで、そういう弱者は可哀そうだから賭博そのものを禁じてしまえ、という論法に至ったものと推察する。
しかし、冷静に考えれば、賭博で負ければ身ぐるみはがされることは、賭博をする当人も最初からわかっているわけで、それでもなお嵌り込み、最悪の結果を招いたのであれば、これは完全に当人の自己責任である。
ところが、この世の中の善意に満ちた知性的な人々は、そういう結果を招く賭博そのものが悪い、という論法で偽善的な論旨を振り廻したのである。
傍から見れば、賭博で負けて身ぐるみ剥がれた人は可哀そうであるが、それが本人の責任だということを忘れて、良い子ぶって、そういう可哀そうな人を救えというのが偽善者である。
この本の中でも強調されているが、暴力団になるのも、バカでは出来ず、悧巧過ぎても務まらず、中途半端ではなお務まらない、ということは真実だと思うが、それならば堅気の社会と何も変わっていないということである。
どんな生業でも、ここで言われている通りで、バカでは出来ず、悧巧過ぎても務まらず、中途半端ではなお務まらないということは言えるわけで、一言でいえば、暴力団といえども生き残ることは大変だ、ということだ。
私が不思議に思えてならないことは、全共闘世代が、安保闘争や学園紛争で暴れ回っていた頃、彼らの愛読書はマンガ、少年ジャンプというような劇画の本で、彼らが好んでみた映画は、鶴田浩二、高倉健のヤクザ映画であったのが何とも不思議でならない。
私の推察では、彼らのような全共闘世代の本音の部分では、ヤクザ映画の暴力シーンに憧れの心情を抱いていたのではないかと思う。
あの時期に、あの世代が、あのタイミングで、暴力を肯定することは、世間の常識や社会の規範が許さないわけで、表立ってはそれを口に出来ないので、それを反体制というポーズの中に潜り込ませて、行動で示していたのではなかろうか。
戦前の五・一五事件や二・二六事件は、当時者が武器を携行する職域であったので、安易に要人を殺傷することができたが、戦後の全共闘世代になると、彼らは組織立った殺しのテクニックを何一つ教わっていないので、道路の石をはがしてそれを相手の投げるぐらいの幼稚園児の喧嘩ぐらいのことしかできなかったのである。
それが最高学府に籍を置く五体満足な若者の行動であったわけで、その精神性はマンガ本の域を出るものではなく、こういう人達がその後社会に出てきて、それぞれのポストに付いたと考えると、日本が良くなるわけがないではないか。
戦前も、戦後も、日本の若者は、暴力をこの上なく好んだわけで、若者が暴力を好むというのは、動物としての本能であり、如何なる民族でも青年男子の成長過程では通過儀礼として疑似戦争を体験させる。
戦後の日本では、過剰な平和主義の元で、戦争のセの字でさえ言うことが憚れたので、健全な青年が通過儀礼としての疑似戦争を経験する場がなく、そのエネルギーが全共闘の運動に転嫁したに違いない。
普通の主権国家では、国家の将来を担う若者に疑似戦争としての兵役や、それに類する試練を課すので、それが自分の国を自分たちで守るという思考に直結する。
戦後の全共闘世代も、自分たちで暴力を使いたくて使いたくて仕方がなかった、つまり疑似戦争をしたくてならなかったが、日本では銃器というものが安易に手に入らないので、道路の石を剥がしてそれを投げつける、という陳腐な戦術にならざるを得なかったのである。
この全共闘世代のしてきたことは、1万mの上空を飛ぶB29に竹槍で対応した愚と全く同じ思考であって、これが日本の最高学府に籍を置くその後の日本の将来を担う若者の行動であったわけだ。
こんな日本が良くなるわけがないではないか。
そういう潜在意識を内に秘めていたからこそ、それを具現化して、視覚的に見せるヤクザ映画に彼らの注目が集まったのであろう。
私が憂いを覚えるのは、ヤクザ映画を見る全共闘世代ではなく、その映画を作る側の深層心理である。
映画というのは一人できるものではなく、組織で作り上げるものであるが、ヤクザ映画を作るということは、その制作に大勢の人が協力したから出来上ったのであって、そこでその制作に協力した人々は、自分たちの作る映画が真に意義あるものかどうか、ということを考えたかどうかという点である。
アメリカでも『ゴッドファーザー』というマフィアを扱った映画が大ヒットしたことがあるが、映画というメデイアが、社会の暗部を陽のあたる場に押し上げてしまって良いものだろうか。
日本のヤクザ映画も本来ならば日陰者であるべき裏社会の実態を英雄視して描いているわけで、それに最高学府で学ぶ五体満足な若者があこがれる状況が良いわけないではないか。
そういう映画を作る側も、まさしく拝金主義そのもので、そこにあるのは「儲かればいい」というヤクザと同じ心理状況ではなかったかと思う。
有難いことに、私自身は暴力団とのかかわりなど過去に一度もないが、まだ二十歳前後の時、友達がお巡りさんをやっていて、その時はどういう訳か交番勤務であった。
その交番に友達を訪ねて行ったら、「泊まって行け」という事になって、その交番に一夜泊まったことがあった。
翌朝、起きてもまだ始発電車はなく、所在なげに交番の前でポートと立っていたら、例のそういう業界の若者であったのだろう、私の姿を見るときちんと仁義を切って挨拶したのにはこちらが驚いてしまった。
もう一つの話は、国立がんセンターに通院していたとき、内視鏡検査を何度も受けた。
いわゆる胃カメラで、誰でも、何度やっても、慣れるということはなく、毎度毎度、辟易したものだ。
それである日、胃の中をカメラでかきまわされて、その後検査室の前でダウンして、椅子に腰かけて体が落ち着くのを待っていた。
するとそこへ何処からどう見てもそういう業界の若者だというのが、肩をいからせ、それこそ肩で風切って検査室の中に入って行った。
私は「ああ、ああいう人も検査はするのだな!」と思って漠然と見送っていたら、暫くしたら看護婦さんがあわてて飛び出してきて、車椅子を押して入って行った。
するとその若者がぐったりとして車椅子に乗せられて出てきたので、私は笑いが止まらなかった。
いくらヤクザ屋さんでも胃カメラにはかなわなかったみたいだ。
それともう一つ、これは終戦直後のことで、暴力団の話とは関係ないかもしれないが、終戦直後、我が家は小牧の街中の長屋に住んでいた。
その長屋の真ん中にある閑所を通りぬけると、奥にもう一軒家があって、そこにはそれこそ文字通りの博徒が住んでいた。
そして、私の家の前が警察所で、直線距離にすれば10mもなかったが、やはり灯台元暗しで、警察署のすぐそばで賭博が開帳されていた。
そこに集まっていた人は、それこそ体中に入れ墨をした文字通りのヤクザものであったみたいだが、小学校に上がる前の私には、その人がどういう人かよく判らなかった。

「新・堕落論」

2012-03-22 17:23:13 | Weblog
例によって知人から貰いうけた本で「新・堕落論」という本を読んだ。
著者は言うまでもなく東京都知事の石原慎太郎氏である。
出版社は新潮新書であって、今、大きな本屋さんでは店頭に平積みされている。
石原慎太郎氏が今の日本を憂う気持ちは十分に理解できる。
私も彼の主張に大方の点では賛成な方で、自分の同胞を思う気持ちはほぼ同じだと思う。
標題が示す通り、この題は坂口安吾の『堕落論』をもじってというか、それと同じ気持ちでしたためたと、いう意味で、『新・堕落論』ということになったと記されている。
坂口安吾の『堕落論』は戦後の混乱の中での日本人の生き様を憂いた論旨であるが、あの戦後という状況の中では、ただただ生きるという生物の本能としての生き様を維持せんがための堕落だった、と私自身は考える。
東京の焼け野原、空襲は東京ばかりではなかったが、とにかく空襲で家を焼かれた人達は、自分自身が生きんが為に現実主義にならざるを得ず、主義主張を選んでいる暇はなかったと思う。
彼自身が体験した機銃掃射の思い出からすれば、この時点で、人間の考え方は自然の摂理に回帰しても何ら不思議ではないと思う。
この「自然の摂理に回帰する」という事は、言い換えればごくごく自然の発想に近い、自然人の発想に至っても当然という意味である。
普通にこの世に産まれ出た人間は、意味もなく叩かれれば叩き返すと思う。
足を踏まれれば踏み返すと思う。殴られれば殴り返すと思う。
イエス・キリストの説くように、「右の頬を叩かれれば左の頬を指し出す」というのは、この自然人の自然の振る舞いを、野蛮な行為として人間の理性で以てコントロールすべく、人間の知能で理屈付けた考え方である。
我々、人類というのはロビンソン・クルーソーのようにたった一人では生きていけないわけで、他者との共存共栄でしか生を維持し得ない。
しかし、人間が複数集まって生活する、生きるという事は、その中では必ずリーダーが必要になるわけで、リーダーが人間の群れを引っ張って行くには、やはり説得力のあるスローガンが必要なわけで、戦前の日本ではそれが軍国主義というものであった。
ところが日本の敗戦という事は、そのスローガンが全否定されたわけで、人々は自らの生きる目標を見失ってしまった。
第一、目の前の現実は明日食う米もないわけで、当然のこと、職も、家も、寝るところも無かったので、そういうモノの確保から始めねばならず、人間の理念とか理想などという高尚なことを考えている間もなかったということだ。
問題は、あの焼け野原から徐々に復興して来る段階で、人々の生き様というのは、あの辛酸を舐めた経験から、従来の社会規範を疑うようになってしまって、自分たちは「為政者の言う事を真に受けると又どんな痛い目にあわされるか判らない」という懐疑の思惑を持つに至ってしまった。
石原慎太郎氏も言っているように、彼のように学校生活を経験した人たちは、昭和20年の8月15日の前と後では、すべての価値観が180度転換してしまったので、それに対応せざるを得なかった世代は本当に困惑しただろうと思う。
教えられる側の生徒も、今まで教えられたことを全否定されて大いに戸惑ったに違いなく、教える側の先生も、生徒にどう説明すべきか大いに困ったと想像する。
ところが、戦後の復興を成した先兵は、この時に価値観の大転換を経験した人達であって、この世代がその後の日本の根幹をなした部分であろうと考える。
日本とドイツは同じ様に連合軍に敗北したが、敗北の後から立ち上がるその仕方は、随分と異なっているように見受けられる。
そもそも世界、ここでいう場合は西洋列強としての世界は、日本とドイツを同じ枢軸側という目では見ていなかったと思う。
連合軍側にとってのドイツは、あくまでもヒットラーの率いるナチズムであって、ドイツ人そのものではないが、連合軍側にとっての日本は、あくまでも黄色人種のモンゴリアンのイエロー・モンキーに過ぎないという認識だったと思う。
またドイツも日本のことを真の友邦などとは最初から考えていたわけではなく、ただ作戦上、ソ連をけん制するためのテクニックとして利用したに過ぎない。
1945年昭和20年の8月15日の東京の焼け野原を見て、その後の価値観の大転換を経験した世代にとっては、その後の日本の将来などという事は、平成23年の東日本大震災を越える想定外のことでしかなかったと思う。
それこそ坂口安吾の「堕落論」がリアリテイ―を持っていたわけで、「堕落」という事はノーマルな生活からアブノーマルな生活に落ちるというイメージであるが、まさしく戦後という時期は、そういう時期だったと思う。
ここで再びドイツとの比較になるが、ドイツでは憲法を占領軍の言うがままに作らず、教育システムに関んしても、占領軍の言うがままにならなかったようだが、これはドイツを占領した連合軍は、普通に情理を尽くして意義申し立てをすれば敗者の言い分を聞く耳を持っていた、という事なのである。
歴史的に見てドイツでは暫定憲法だし、教育システムも自主的に運用されているという事は、結果としてそういうことであるが、そこには日本に対する思惑とはまた別の思考が潜んでいたのかもしれない。
ところが我々も、占領軍、GHQのマッカアサー元帥に、日本の本質を情理を尽くして訴えれば聴いてもらえたかも知れないが、我々の先輩はそういうことをしたであろうか。
仮に言ったとしても日本の場合は聞いてもられえなかったろうと思う。
その部分をはっきり言ってしまえば、人種差別であって、連合軍から見てドイツはあくまでも自分たちと同じ範疇の民族だが、日本は先に述べたように、黄色人種で、モンゴリアンで、イエロー・モンキーであった故に、従来の価値観の大転換を押し付けられたということだと思う。
ここまで考えると、ドイツと日本の比較をしたところで意味を成さないわけで、21世紀に日本が如何にあるべきかという問題は、我々自身の課題であることは言うまでもない。
冒頭に、人間の群れを率いるにはスローガンが必要だと述べたが、戦前のそれは軍国主義であったことは言うまでもなく、戦後のそれは為政者の側は民主主義を掲げようとしていたが、統治される側は、共産主義をイデオロギーとして掲げていた。
戦前の軍国主義は異論を差し挟む余地を与えず、言論統制をしていたことは言うまでもないが、戦後、それが否定され人々は言いたいことが言えるという状況におかれると、ここで我々の民族としての欠陥が露呈して、節度ということを忘れてしまった。
猿にセンズリを教えると死ぬまでやり続けるという話があるが、真偽のほどは知らないが、我々にもそれに似た部分があって、それは節度を守るという感覚が欠けていると言う事である。
何事も行き過ぎるまでやり、やり過ぎるまで止めないので、最後は弊害が出るわけで、適当なところで自粛するという感覚に欠けている。
戦後の日本は言うまでもなく民主主義体制の中の自由主義できたが、その欠陥を共産主義が突くことは憲法で許されているが、ここで為政者の側の欠陥を突くという範疇を越えて、「俺達の言い分を聞かなければ実力行使に出る」という論法になるのである。
世の中のことは正邪、善悪、正義・不正義という綺麗な言葉で割り切れないことは充分判っているが、一方的なイデオロギーに凝り固まってしまった人に対して、広範な視野に立ってものを考えよ、と説くことは極めて困難なことで、偏った考え方をニュートラルな思考に戻すということは基本的には不可能なことである。
石原慎太郎氏も、今の日本の現状を心から嘆いているが、「こんな日本に誰がした」となると、何でもかんでも戦争の所為にするわけにはいかないと思う。
私に言わしめれば、戦後の価値観の大変換の時、日本の公立学校の先生方の組合、日教組の存在が一番のガンであったと思う。
日本の将来を担う若者を訓育する場であるべき学校の先生方が、共産主義に傾倒していたと言うことは、価値観の大変換に翻弄された面もあろうが、その前に、我々日本民族の付和雷同性に大きく依存している部分が多いと思う。
ほんの数年前の戦前ならば、少しばかり優れたものは皆打ち揃って軍隊に志願し、軍国少年、軍国少女であったではないか。
それが戦後になると、少しばかり学業成績が良く、優れた若者は、すべて「天皇はたらふく食っている。米寄こせ」という事になったのである。
こういう行動を起こすのは、全てが次世代を担う若者であったわけで、それらの若者が戦前は軍国少年になり、戦後は左翼運動に走ったわけで、こういう若者を宥めすかすのが本来ならば老獪な年寄りであり、老練な政治家でなければならなかったが、そうは成らなかった。
ここで問われるべきは大学の使命であって、戦前の皇国史観の平泉澄や、戦後の共産主義を教える先生方の存在であって、大学で学問として主義主張を教えるのは大学としての社会的規範の内であろうが、その主義主張を実践してしまっては、ミイラ取りがミイラになる構図で、由々しき問題である。
ここにも節度の問題があるわけで、大学教授ともあろうものが、自分のすべき事としてはならない事の峻別も判らないようでは、いささか不甲斐ない存在である。
その意味で、戦争を知らない戦争のプロフェッショナルと同じで、本来、優秀であるべき人達がどうしてこういう混沌の渦に巻き込まれるのであろう。
戦後の学校教育の現場が日教組という仮面を被った共産主義者に占領されてしまったとき、日本の有識者たちや政治家たちは、日本の将来に対して危機感を感知できなかったのだろうか。
また、当の日教組の先生方も、当然、人の子の親でもあるわけで、人の子の親として自分のしていることが将来の我が子にどういう影響を及ぼすか、ということを考えたことがなったということであろうか。
その意味では、戦前の日本陸軍が、どんどん中国の奥地に進軍していったのと同じ構図で、後先のことを考えず、自分のしていることの整合性も考えることなく、ただただ無目的に、人から言われたことを鵜のみにして前に進んだだけという事だと思う。
旧日本陸軍でも、日教組でも、旧国鉄の動労、国労という組合でも、中味は我われの同胞としての日本人なわけで、それが組織を形成するとどうして浮き上がって、唯我独尊的な行動思考に至るのであろう。
自分たちの行動に節度を持てば、世間から白い目で見られることもなく、共感も得られると思うが、節度を度外視して極端な行動をしようとするから顰蹙を買うのである。
自分の立ち居振る舞いに節度が持てないということは、基本的に自分の頭でものを考えていない、ということであって、とことんまで推し進めて、壁にぶち当たって始めて自分のやり過ぎに気が付くわけで、気が付いた時には既に遅いという事だ。
私が思うに、戦後に日本に進駐してきたアメリカのGHQの指針と、ソ連が日本に仕様とした民主化運動というのは、完全に利害が一致していたと思う。
連合軍を形成していたアングロサクソン系の人々にとって、日本の存在というのはことのほか恐ろしい存在であったに違いない。
だからアメリカとしては、何が何でも日本の再起ということを、抑えねばならない至上命題であったに違いない。
それは同時に、旧ソビエット連邦の利害とも完全に一致していたわけで、その中で、我々は主権国家の国民として、あるいは大和民族の誇りとして、自存自立を目指ざねばならなかったが、ここで我々の同胞の中の大学の先生方の一部の人たちが、「日本は独立する必要はない、占領のままの方がいい」と称えた人が出てきた。
自らの民族誇りを根げ捨てることを声高に叫んだ大学の先生方の存在をどう考えたら良いのであろう。
大学の先生方が、こんなことを若者に説く国が、その後良くなるわけがないではないか。
この今の日本の現状は、完全にアメリカの占領政策の成果であって、アメリカと旧ソビエット連邦、今のロシアは心の中でほくそえんでいるにちがいない。
石原慎太郎氏が「日本はアメリカの妾だ」というのも十分に納得できることだ。
妾であろうが2号であろうが側室であろうが、我々は生き延びねばならないが、誇りや名誉では腹をふくらませることはできないわけで、生存のためにはそんなものは何の足しにもならない、という論理は一理あると思う。
ただ「誇り」や「名誉」を重んじない民族は、まさしく100%奴隷の生き様でしかなく、ただただ生物学的に食って糞して寝るだけの存在でしかないという認識に至るが、そういう人はそういう人で、その場になるとまた別の論理を編み出すに違いない。
民族の誇りや名誉を持っていなくとも、口は自由闊達に動くわけで、ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うという論理は生きている。
まさしく無責任極まりない存在で、川の流れの中の浮草のようなものだが、なまじそういう人でも知識があるので、二言目には「人権」とか「人間の尊厳」を振り廻すので、始末に負えない。
自分は傍観者の立場にたって、理想論をぶって、物事が理想どうりに進まないと言っては、為政者を糾弾することに生きがいを感じているのである。
こういう人はあくまでも部外者ではあるが、政府当局者や官僚、あるいは巨大な民間企業は、当時者なわけで、この当時者もある意味で批判されても仕方がない面を往々にして内包している。
問題は、この当時者の側の自助努力、あるいは自浄作用に瑕疵があるので、世間から糾弾の矢が差し込まれるものと考えざるを得ない。
例えば、今回の東日本大震災の時の東京電力の対応などを見ても、彼らの視線は自らの会社の内側に向いているわけで、原子炉のメルトダウンで被害をこうむった側に対して、いささかも贖罪の気持を表現しないので顰蹙を買っているのである。
東京電力ともなれば立派な社員が大勢いるに違いなかろうに、どうして被害者に対する救済の気持を表わそうとせず、自らの組織の欠陥に気が廻らないのだろう。
一人一人の社員はきっと立派な人ばかりであろうが、そういう立派な人が集まって組織を作ると、どうして自堕落な組織なってしまうのだろう。
我々の国も、政府も、官僚も、行政も、それぞれの組織の人々は、それぞれに立派な人ばかりであろうが、それが組織となるとどうして、偕老同穴のように自己の利益の追求にのみ固執するようになってしまうのであろう。
日本の大学の先生方が、学問として共産主義者や社会主義を研究することはとても大事なことだと思うが、それを実践の場に移してしまっては、それこそイデオロギーの研究としての節度を逸脱しているわけで、ぞれが判らない大学の先生であってもらっては甚だ困る。
東京電力の社内でも、企業のコンプライアンスを踏みにじり、その節度を越えた無責任体制というものがのさばっていたに違いないが、もともと優秀な人間の集合としての東京電力であるとするならば、内側からなる自浄作用が湧き上がらねばならなかったと思う。
それがないということは、組織全体が官僚化していたという事で、官僚化ということは、親方日の丸で何をしなくても馘首になることはなく、休まず、遅刻せず、働かずで通すということである。
いわば究極の無責任体制ということだが、本来、優秀であるべき人たちが、組織の中に入るとこういう体たらくになると言う事は一体どういう事なのであろう。

『朗読者』とDVDの『愛を読む人』

2012-03-21 17:20:38 | Weblog
近所に住む知人が自分自身で小説を読みそのDVDも見て大いに感動したので、私にも是非読めと言って新潮文庫の『朗読者』とDVDの『愛を読む人』というのを持ってきた。
興奮気味に語るので、少々、親切の押し売り気味であったが、隙間の時間に読んでみた。
分厚い本ではないので容易に読みとおせたが、確かに彼の言う通り良い内容の本であった。
ドイツにおける文盲をテーマにした作品であるが、文盲ということを最後まで隠そうとする余り、主人公そのものも、その主人公をフォローする語り部としての当時者も、苦悶するというストーリーである。
その中にナチの戦争犯罪の話が織り交ぜられていて、ストーリーの幅が大きく展開しているが、DVDの方はこの部分が大分端折られているので、インパクトに欠けるように思えた。
しかし、冒頭に主人公のハンナと後に語り部となるミヒュエルの愛欲にまみれた生活の部分は蛇足ではないかと思う。
街で介護した若者を引き込んで愛欲に耽る円熟した女という設定は、私の価値観からすれば極めて世俗受けを狙った低俗な部分でしかないと思う。
多少、後に出てくる文盲を暗示する伏線にはなっているかもしれないが、その後の内容とは完全に掛け離れた部分とも言える。
私の価値観からすれば、世間にざらにある官能小説の類ならばああ言う設定もありうるかも知れないが、これだけ内容の濃い作品であるならは、あの部分は端折っても良いと思う。
DVDの作品の方では、その部分に彼女、主人公ハンナが死んだ後にその遺品を戦時中の被災者に届けるシーンと入れ替えるべきだと思う。
しかし、この作品は奥が深くてそう安易に言い切れない部分がある。
冒頭にある愛欲に耽るシーンでも、今のヨーロッパではああいう価値観が普遍的であって、愛情を感じれば肉体の全てでそれを享受する、と言うことに何の違和感も感じないということなのかもしれない。
我々は未だに古い価値観に固執する余り、15歳の少年と円熟した女が乳繰り合うシーンを正視しきれない価値観にまみれているようで、どうもああいう光景には違和感を感じざるを得ない。
ヨーロッパ人の愛情というのは、肉体は自分の感情に素直に反応すべきであって、それを理性や知性でコントロールすべきことではない、という価値観なのかもしれない。
我々の周りでも性の乱れというのは話題になって久しいが、それでも大半の我が同胞は、ああいう割り切り方はしていないと思う。
これを持ってきてくれた友人は、何年も前にヨーロッパに旅行した事があると言っていたが、その時の体験では、既に公衆トイレにコンドームの自動販売機が用意されていたと述べていたところをみると、ヨーロッパでは既にこういう状態が普遍化しているという事なのであろう。
この愛欲に耽るシーンの中で、女・ハンナは15歳の坊や・ミヒュエルに本を読んでもらう事をせがむわけで、その部分が彼女が文盲であることを示す伏線になっていることは確かである。
で、彼女は市電の車掌をしていたのだが、ある日突然、昇進の告知を受け取ると、自らの文盲がばれることを危惧して姿を消してしまうわけである。
その後時が経ってミヒュエルが大学のゼミナールとして裁判の見学に行くと、そこでナチ犯罪を裁く場に昔の女ハンナが裁かれる立場としていたわけで、これ以降の彼の行動、いわゆるミヒュエルの行動は、まさしく『フウテンの寅さん』の車寅次郎と全く同じパターンのところが噴飯ものである。
つまり、言うべき所で言わず、行動すべきところで行動を起こさないわけで、それでこそ小説であり、フイックションだからこそ、ストーリーに起伏ができるとも言えるのかもしれない。
私は単純な人間で、すぐに作中の人物に感情移入してしまって、喜怒哀楽がもろに表面に出てしまうので自分でも困っているが、ストーリーの後半ではハンナが姿を消した以降と言うもの、ミヒュエルのハンナに対する思いは、思いだけは充分にあるが、言葉にもならず行動にもなっていないわけで、まさしくフウテン寅さんがマドンナに振られるパターンと同じである。
小説のストーリーに私がいくら感情移入したところで意味を成さないが、彼女・ハンナが戦犯の罪を問われた時、彼女が字が読めないということさえ立証されれば彼女の罪はうんと軽くなるのに、ミヒュエルはここでも行動を起こさなかった。
ここでは小説の中の話として語られているが、ドイツの敗戦によるニュルンべルグ裁判というのは東京裁判と同じで、連合軍によって裁かれたと思うが、ドイツ人は果たして本当に自分たちでナチを裁いたのであろうか。
ドイツ人がドイツ人を真剣に裁いたのであろうか。
ここでも出てくるが、ナチの行ったアウシュビッツのホロコーストは、ドイツ人がユダヤ人を殺したわけで、ドイツ人を殺したわけではなかった筈だ。
そのことを考えると、それでもドイツ人は元ナチのドイツ人を裁判にかけたのだろうか。
第2次世界大戦後のドイツというのは大変な混乱の中にあったようで、私共では想像だにできないように思う。
国土はイギリス、フランス、アメリカ、ソ連と4か国に占領され、自由主義陣営と共産主義陣営が対立しており、その中でナチに協力した人と抵抗した人がおり、ユダヤ人がおり、ジプシーがいたわけで、これらが混然一体として存在していたのだから、社会が収拾出来なかったのも無理ない話だと思う。
この小説の隠れた伏線としては、この語り部としてのミヒュエルは法律家でもあるわけで、法律家としてこの裁判、つまりナチを裁く意味を探り出そうという意図も見られるが、その部分はあまり深入りしていない。
「正義」というものを法律家としてはどう見るか、というアプローチも出るにはでるが、問題提起というニュアンスで回答を求めるものではない。
しかし、これは実に奥行きの深い思考であって、そう安易に結論の出る話ではない。
そもそも戦争を裁く、戦争犯罪を裁くという設問からして不合理極まりないわけで、我々は生きる、生き抜くという場面から戦争という部分のみを引き出して、それだけを一括りにして語ろうとしているが、そのこと自体不合理極まりないと思う。
第2次世界大戦では日本もドイツも敗戦国であったが、この国が戦争という手段を選んだのは、突き詰めれば自存自衛であったわけで、自分たちがこれから先、生き抜くために戦いを挑んだ結果として負けたわけである。
その動機は、言うまでも無く、自存自衛であって、将来を安寧に生き抜くためであって、ただたんに敵を倒すだけが目的ではなかった筈だ。
しかし、理由が何であれ、勝った側は負けた側を如何様にも料理できるし、して当然である。
勝った連合軍は、戦争裁判などする必要はさらさらないのである。
自分たちにとって、こいつは悪玉だ、こいつは陰謀を計った、こいつは我々の戦艦を沈めた、こいつは我々の捕虜を虐待したという理由だけで十分敗戦国の人間を成敗できる。
人類の過去の歴史は、今までもずっとそうしてきたわけで、そうしても良かったのである。
ここで立ちはだかったのが人類の英知という見栄っ張りとしての見栄であって、人類の理想は如何に自然から遠ざかった思考にたどり着くか、という命題に付き当たった。
自然の赴くままでは余りにも人間性に欠け、野生動物と何ら変わらないではないか、という自責の念にかられて、少しでも文化的な立ち居振る舞いをしようと考えたわけである。
だから勝った側は負けた側を裁判に掛けて、正義という大看板を掲げることによって、自分達の文明の進化の度合いを展示したかったという事だと思う。
「俺たちは文明的に優れていたから戦争に勝利したのだ」ということをアピールしたかったのであろう。
だからニュルンべルグ裁判でも東京裁判でも、裁判には何ら正義に対する整合性はないにもかかわらず、そうしておかないと地球はまたまた混乱に陥ってしまうので便宜的にそうなっているに過ぎない。
小説の中とはいえ、戦時中のナチを裁くという想定も、私にはかなり重い主題であるが、その劇中の裁判でも、他の5人の被告が全員一致して文盲であるハンナに罪をなすりつけて、自分は逃れようとする設定はどうにも不可解である。
こういうモノの見方、感じ方は、私が日本人であるが故の特殊な発想なのであろうか。
だとすると我々とヨーロッパ人は発想の根本から異なっているわけで、同じ一つのことでも、それに対する思いは完全に反対方向を向いているという事も十分にありうる。
この部分が我々の民族の外交下手、政治下手にそのままつながっているのかもしれない。
本の方ではナチの捕虜虐待というか、ユダヤ人に対する虐待の部分が克明に記されているが、映像の方ではその部分が端折られて、あまり詳しく述べられていないが、この部分でも文盲であるが故に苦労する部分が描かれている。
しかし、改めて文盲という事を考えて見ると、私の孫は今小学校の4年生であるが、まさしく赤ん坊ん坊の時から文字は誰に教わるのでもないままに習得していた。
そして、その覚え方を観察していると、実に不思議な事に、カタカナも、ひらがなも、アルファベットも、数字も、全部一緒くたにして同時に覚えてしまったものだ。
我々の既成概念では、ひらがな、カタカナ、しばらくしてからアルファベットと考えがちであるが、幼児はそれらを全部一つの記号として捉えて、秩序だった思考には至らないみたいだ。
それと合わせて、私の父方の祖母は明治の前の生まれであったが、この物語の主人公のハンナと同じで、全くの文盲であったのが不思議でならなかった。
その子供、私の叔父さん達は、全て優秀な人物であったが、祖母は全くが読めず、字の読めることを羨ましがっていた。
この地球上に生きている民族には字を持っていない民族もいるわけだが、人間の幸というのはどちらが幸せか判ったものではない。

「世界最強!アメリカ空軍のすべて」

2012-03-18 09:18:50 | Weblog
この本も人から貰いうけた本だが、「世界最強!アメリカ空軍のすべて」という本を読んだ。
例のサイエンス・アイ新書のもので、アメリカ空軍のダイジェスト的な解説書の様なものであるが、モノの本質を知るにはやはりその組織の中に入らなければ真実は判らないと思う。
その意味でアメリカ空軍は世界で最強の空軍であることに間違いはない、よってその組織の内部に入ることは安易なことではない。
ここでアメリカの兵制について掘り下げる気はないので、深入りはしないが、この空軍というのは何処の国でもそうだと思うが、軍の組織としては一番新しいわけで、アメリカ空軍、U・S・Air Forceも、正式には戦後1947年の成立ということは知らなかった。
その意味で旧の日本軍にも空軍というのはなく、それぞれに陸軍なり海軍に属していたという意味では、当時の先進国として常識的であったと言える。
アメリカの日本に対する戦略爆撃も基本的にはアメリカ陸軍の組織で行われたという事になる。
対日戦が終わって、1945年、アメリカ軍が日本に進駐して来た時に、私の住んでいる町の小牧に進駐してきたのも正確にはU・S・Armyだったということだ。
この小牧に進駐してきたアメリカ軍が最初にしたことが小牧飛行場のランウエイの拡張工事であって、当時鼻たれ小僧であった私は、その工事を遠くから指をくわて眺めていたものだ。
その時のブルドーザーとパワーシャベルの威力と、トラックによるピストン輸送のあり様には子供心にも度胆を抜かれて、これでは戦争に負けるのも仕方がないと大いに納得したものだ。
この工事が始まったのが朝鮮動乱の前か後だったか定かに覚えていない。
しかし、この頃になると私も小学校に入って、自転車に乗れるようになり、行動半径が広がって、小牧の街からこの飛行場まで足を延ばすようになった。
それで、大山川の堤防の左岸まで行ってみると、ランウエイの一番北に土嚢を積んだ銃座が出来ていて、小さなパラボラアンテナのついた高射砲を黒人のGIが操作していた。
朝鮮動乱ではF86セイバー戦闘機が活躍したことは周知の事実であるが、この小牧からそれが飛び立ったかどうかは全く記憶にない。
おそらくここからは飛び立っていないだろうと思う。
ところが、ここでは双胴の輸送機が盛んに飛び交っていたが、その名前が未だに判らなかった。
それでインターネットを捜しまくってやっと付き止めた。
それはフェアチャイルド社のC-119フライングボックスカーと言うものだ。
双胴で双発の輸送機で、真ん中のカーゴスペースに車を積んで、後ろの扉を開けっ放しで飛行していたのを見たことがあるが、あれはそのまま戦地に飛んで行ったのであろう。
小牧基地がアメリカ軍に占領されていた頃は、アメリカの3軍記念日には基地が解放された。
それで当然見学に行くわけだが、そこではグローブマスターという巨大な飛行機を見たことがあるが、この時のグローブマスターは既に2代目のものであった。
これも、余りの大きさにびっくりしたものだ。
こういうものを目の当たりにすると、子供心にも日本人とアメリカ人のもの考え方の相異を納得せざるを得ず、大きなカルチャーショックを受けたものだ。
それが切っ掛けとなったのかもしれないが、それ以降は軽佻浮薄なアメリカかぶれになってしまった。
GIが連れて歩いているパンパンまで何だかまぶしく見えたものだ。
ただ日本人とアメリカ人の発想の相異の元にある根源的なものも本当は考慮に入れなければならないと思う。
それは基本的には物資の豊かさであって、日本の置かれた地勢的な条件では、我々がどんなにあがいた所で、我々には豊富な資源というのはあり得ない。
だから、我々のモノの考えの潜在意識としては、省資源、省エネルギー、省マネーという事が必須条件になるわけで、いかなるプロジェクトでもその枠を越えることができない。
世界的な名声をはくした零戦でも、限られた制約の中で、極限まで性能向上を極めた結果であって、出来上がった時点では世界最高であったが、アメリカは制約に縛られることなく新しいものを開発して、覇権は逆転したということになる。
日本民族の特性として、もの作りにおいては限られた制約の中で最高のものが出来るが、それを運用するということは、また別の才覚がいるわけで、これは政治の範疇に入ってしまう。
最高の零戦でアメリカの新戦闘機と戦うには、最高の技能があればこそ、どうにか互角に持って行けるが、その頃になると我々の側に優秀なパイロットは居なくなってしまって、訓練不足のパイロットでは効果の上がらないことも当然であり、最終的には飛行機ごと当たって砕けよということになった。
こういう思考回路は愚劣極まりない事は言うまでもない。
日本とアメリカという対比でものを見ると、我々はアメリカには到底かなわないわけで、それは占領された時点では私のような餓鬼でも判るが、戦争を始める前にも我々の同胞の中の大勢の人がアメリカに渡っていたことを考えると、そういう人たちがアメリカの実力というものを我々サイドに説かねばいけなかったと思う。
戦後66年経った今でも真にその辺のことが判っている人は少ないと思う。
で、アメリカ空軍について言えば、日本の航空自衛隊はアメリカ太平洋空軍の第5空軍の隷下にある。
空軍というのは何処の国でも、軍の組織としては新しい組織であって、いわゆるテクノロジーの固まりなわけで、その意味で常に進化しているので興味が尽きない。
普通に考えれば、軍事費に投ずる金を社会福祉に回せば人々がより豊かに暮らせると思えるが、そうならないのは一体どういうわけなのであろう。
しかし、こういう考え方も成り立っているのであろうか。
例えば、政府が高額な軍需品を民間企業から買う。
民間企業が受け取った金は、株主、銀行、従業員に回り、最終的に社会に還元されているので、結果として社会全体が底上げされる。
政府が高額な兵器の購入を止めると、金が社会に廻らなくなって、貧乏人が増え、社会福祉の費用が膨らみ、税収が減るのでその補てんが効かないという悪循環に陥るのではなかろうか。
だから資本主義体制の元では政府は常に高額の兵器を購入し続けて、民間企業は益々付加価値を積み重ねて商品の高額化を狙うのではなかろうか。
それと人間は未知なるものへの限りなき挑戦に燃える性質がある様で、最後の有人戦闘機といわれたロッキードF104スターファイター以降もどんどん新しい有人戦闘機が開発された。
人類が飛行機で音速を突破する話が『ライトスタッフ』という映画の中で紹介されていたが、この映画の冒頭にX-1という超音速機でイエーガ―という人が音速を突破する話が出ていた。
こういう話から見ても、飛行機の進歩というのは人間の未知への挑戦という面が強いが、それは同時に国民への金の還元という面もあったのではなかろうか。
左翼系の人の論旨によると、防衛産業は国民から税金を絞り取るというニュアンスで語られているが、国防費ということはその金は全部国民に還元されているわけで、防衛産業がすべて貯め込んでいるわけではない。
昨今の大企業は、ただ一社が突出して存在するのではなく、下請け、孫請けというピラミット型の組織だったシステムの上にあるわけで、大企業がすべてを統治して搾取しているわけではない。
ところがここで日本のような国が、完成品を丸ごと買うという場合は、その金は外国に流れてしまうわけで、国内に還元されないということは言える。
この本でいう空軍ということは、あくまでも戦争のための空軍なわけで、その目的の飛行機はすべてその目的に合うように仕向けられている。
我々が考えなければならないことがこの部分にあるわけで、日本の防空、日本を空からの侵略に如何に守るかと考えた場合、現時点では、アメリカ空軍と足並みそろえることが最も安易で、最もコストが掛からないであろうが、何時までもそれでいいのかということは改めて考えるべきことである。
最後の有人戦闘機F104の話ではないが、果たして戦闘機に人が乗らなければいけないのか、ということから考えねばならない。
この疑問は当然アメリカにもあるだろうと思うが、そうは言いつつも、アメリカは従来の思考を踏襲し続けて新戦闘機を開発し続けている。
ということは、やはり飽ことのない未知への挑戦をし続けているということだと思う。
ただ単に押し寄せてくる敵を倒すだけならば、ミサイルがあるわけで、そのミサイルで敵を倒すにも、ドッグファイトでぎりぎりまで追いつめて最後にとどめを指すという古典的な戦法に戦いの美学を見出しているのではなかろうか。
以前『トップガン』という映画があったが、それはU・S・NAVYのF14トムキャットでドッグファイトをする場面が見せ場であったが、今時ああいう戦法があること自体私には信じられない。
搭載レーダーが200キロ先まで見えるのに、なおもドッグファイトをする意味がないと思う。
最も日本の航空自衛隊の通常業務である領空侵犯阻止に対処するミッションは、まさしくドッグファイトそのものだと思う。
何となれば、相手、敵味方不明機を目視で確認せねばならないので、相手の真近まで接近せねばならず、その意味でドッグファイトそのものに行きつくと思う。
戦闘機というものが、会敵点までミサイルを運搬する媒体に過ぎないのであれば、敢えてドッグファイトすることはないけれども、それでも尚その能力を持つということは、無駄というべきか余裕とみるべきか、悩ましい所ではなかろうか。
21世紀の地球を眺めていると、もう第2次世界大戦のような主権国家が主権を賭けて戦うなどという古典的な戦争はないように思う。
ゲリラと正規軍という戦いはあるであろうが、これもピンポイントの空爆が可能になったので、正確な情報さえられればわけなく勝利を修めることができるが、問題は何に対して勝利したのかという妙なことになる。
正規軍というものが確立しておれば、勝負は明らかであるが、タリバンとか、アルカイダというような雲を掴むような集団に対して、何を持って勝ったと言えるのか甚だ曖昧である。
昔の中国には馬賊、山賊、夜盗、匪賊、赤匪というのが掃いて捨てるほどいたと聞くが、こういう連中とテロリストは何処がどう違うのであろう。
タリバンとか、アルカイダと言ったところで、こういう連中と同じものではなかろうか。

「自衛隊戦闘機はどれだけ強いか?」

2012-03-15 09:07:24 | Weblog
これも人から貰った本であるが、「自衛隊戦闘機はどれだけ強いか?」という本を読んだ。
サイエンス・アイ新書の本ということだが、要するに受験生の要点をまとめた参考書のようなものだ。
しかし、こういう標題はいささか子供っぽい感じがする。
「自衛隊戦闘機はどれだけ強いか」という設問の仕方は、幼稚園児が子供同士で会話している図に見えてならない。
だからまともに設問に対する答えにはなっておらず、航空自衛隊の歴史の開示になってしまっていて、「どれだけ何に対して強いか」という答えにはなっていない。
ただ航空自衛隊の初期の戦闘機がF86から始まったことは確かであるが、このF86は朝鮮戦争の時に登場して、ソ連のミグ戦闘機と大いに渡りあった筈で、私としてはそういう話が知りたい。
ミグ15とセーバー戦闘機の空中戦というのは見ものだと思うが、果たして実際はどうだったのだろう。
あの時から米ソではそれぞれに熾烈な技術開発を展開して、最終的にはソ連が崩壊したことによってアメリカの勝利という形で終わっているが、今でもロシアの航空機の技術開発は着実に進化しているようだ。
航空機の開発とか宇宙開発というのはやはり人類の夢を追いかける動きであって、生きた人間の欲望というか、煩悩というか、ロマンと言うべきか、人間は未知なるものに挑戦するもののようだ。
体制の如何を問わず、人はそういうロマンを追い掛けるもののようだ。
しかし、その奥底には軍事的に相手よりも優位なポジションを得たいという欲望が潜んでいるわけで、人間の未知への挑戦と同時に、相手よりも優位なポジションに立ちたい、という別な欲望も同時に存在したに違いない。
日本の航空自衛隊がF86から始まってF104、F4、F15と進化してきたことは歴史が歴然と示しているが、自分の国を真から守るという意味では、やはり自主開発が至上でなければならないと思う。
その意味で、T2からF1、F2の開発という手順も極めて妥当なコースだと思うが、真に自主防衛ということを考えると、日米安保も真から考え直すことも必要だと思う。
ところがそうは言いつつも、我々が本当の意味で自主判断でことを決することは、極めて不安な要因を抱え込むことになる。
先の大戦を見ても、政治の中枢にいた人は戦争を回避したがっていたにもかかわらず、結果として嵌り込んでしまったわけで、自主的判断というのも慎重に慎重を重ねばならない。
我々は世間によく言われているように、物作りには長けているが、政治・外交は3流の民族なわけで、真の自主判断でこの生き馬の目を抜く国際社会を泳ぎきることは到底不可能だと思う。
その意味で日米安保は瓶の蓋の意味があるわけで、アラジンの不思議なランプのような役目を立派に果たしていると思う。
日米安保は日本の独走を止める役目を持っているが、アメリカの独走は世界中で誰一人と止める力を持ったものがいない。
日米安保は、アメリカは日本の独走を止める効力を持っているが、日本はアメリカの独走を止める力は何もないわけで、完全に片務的な効力しかない。
ここで日本がアメリカの頸木から逃れて完全に自主判断で自分の国を守るとなると、心配で心配でならないのが日本の周辺諸国という事になる。
F2の開発の時、アメリカ軍のF16をベースに開発されたが、火器管制装置はブラックボックスのままで、その部分は技術提携されなかった。
これでは対等の関係ではないことは歴然としているが、アメリカは日本が秘密の保持に極めて軟弱な点を憂慮したという面もあるかと思う。
確かに我々は秘密というものに極めて疎く、何を公にして何を隠匿するかという認識が甘いと思う。
「これは大事なことだから秘区分を厳格に」と言うと、何でもかんでも秘にしてペタペタと赤印を張り付けてそれで満足している節がある。
秘密の管理という概念そのものが理解し切れていない節がある。
我々は極めて同一性の高い民族なので、以心伝心という言葉もあるように、言わず語らずの内に理解しあえる部分がるので、他者に対して秘密を厳守するという意識が希薄なのであろう。
だから秘に指定されたものを故意に盗み見して、それを金に換えようという悪意に満ちた気持ちではないが、同じ顔かたちのものに不用意に言ったり見せたりしてしまうという意味で秘密が守れない面がある。
そういう面をアメリカもよく承知しているわけで、秘密の開示という事に抵抗をしめすのである。
そこで我々が考えねばならないことは、そういうアメリカの対日工作というか、日本に対する潜在意識の研究の進化の様子であって、こういうことは軍事とか兵器の研究とは異なっているので、日本でも十分に可能なことであるが、我々の関心がそういう面に至っていないので、何の手もつけられていない。
ここに日本人の我々と、アメリカ人の発想の相異があるわけで、我々はこういうものの考え方、発想の時から相手はどう考え、どう行動するのかという国民性を綿密に考える必要がある。
アメリカと戦争を始める前、我々のアメリカ人に対する認識は、「アメリカ人は軟弱だか最初に一撃食わせればそれで勝負が決まる」というものであった。
この認識は完全に間違っていたわけで、こういう間違った認識によって我々は踊らされていたということだが、戦前にも我々の同胞の中にアメリカの事情に詳しい人は大勢いたであろうに、何故こういう間違った認識が普遍化したのであろう。
で、我々は物作りには実に長けているわけで、条件さえ整えればアメリカを凌ぐものをものでも出来るが、その条件というのが結局は金に行きつく。
日本という国が地球上に存在する限り、地勢的な条件というのは替えることができないわけで、我々には資源がない、エネルギーがない、金がないということは、日本が日本でいる限りこれから先も替えることはできない。
と言うことは、アメリカを越える製品は日本では開発出来ないという事になるのである。
だから日米安保なわけで、我々の将来はアメリカと一蓮托生で生きねばならず、我々の真の独立自尊ということを夢想してはならないということだと思う。
この本も日本の航空自衛隊の推移をダイジェスト版として開示している分にはよく判る内容であるが、真に軍事という見地に立てば、日本の手の内を見せる在り方というのは非防衛的ですらある。
この程度のことならば巷間にいくらでも出廻っている情報ではあるが、真の国防という意味からすれば、自国のことよりも他国、即ち仮想敵国の情報こそ得るべきものである。
然るに、その情報もある意味で隠匿しなければならない情報ということも言える。
相手が自分の国のことを何処まで知っているのかという情報も立派な交渉のカードになりうる。
先の例に見たように、我々が戦前のアメリカ人の認識を間違っていたのもそういう事なわけで、戦前の我々の多くが、「アメリカは手ごわいぞ」という認識を共有していたとすれば、もう少し違った歴史になっていたかもしれない。