例によって図書館から借りてきた本で「『戦後』を点検する」という本を読んだ。
講談社現代新書判であったが、保坂正康と半藤一利との対談という形になっていた。
両名とも近現代史の大家なので安心して読めたが、私も彼らと同世代なので、登場する事柄についてはリアルタイムに記憶している部分もあったがそうでない所もあった。
昭和のあの時代に、ああいう出来事があった、ということはリアルタイムに関知しているが、その背景となるとやはり門外漢なわけで、そこを掘り起こすという意味で非常に興味深く読んだ。
半藤一利氏は1930年生まれ、保坂正康氏は1939年生まれというわけで、私は保坂氏に年齢的には近いが、共に戦後という時代を潜り抜けて来たという意味で共感を覚える。
私はこういうことを専門的に学んだ経験は無いが、生来の本好きという面から、人さまの知見を受け売りするに資する知識は備えているつもりである。
一つ一つの出来ごとに、自分なりの評価基準は持っているが、それにしても我々の民族の行動としては、実に不可解な部分が多すぎる。
第一、我々の先輩諸氏が日中戦争からアメリカとの開戦に至るまでの過程など実に不可解極まりない。
戦後の、「戦争への反省」という意味での評価では、当時の軍人の独断専横に全ての責任を覆い被せて、軍人以外の者は全て戦前・戦中の軍国主義の犠牲者だ、という言い方が普遍化してしまっているが、果たして本当にそうだったのか、私個人としては今でも納得し切れないものを持っている。
この両名の論旨には、流石にそういうステレオタイプな安易な評価はなされていないが、今の平成の世の政治的状況も、大戦前、戦争前の大正時代から昭和初期の政治状況に極めて似ているのではないかと思う。
つまり、経済が閉塞状況に陥って、何処にも抜け道が見つからないので、内部圧力がたまりにたまって飽和状態になっているようなもので、こういう状況下で、ある種のガス抜きとして、軍の独断専横があって、そで一気にバブルが崩壊してしまったようなものではないかと考えている。
世の中には「風潮」という言葉がある。
広辞苑によると、①風に吹かれて生ずる潮の流れ②時代の移り変わりによって生ずる世の中の傾向、となっているが、まさしくこの言葉通りの雰囲気が時代を風靡することがある。
これを私流の言葉で言い直すと、「時流」という言い方になるが、人間の集団には時と場合によって、一種独特の雰囲気に包まれる事がある。
これは「善し悪し」という価値基準では計れない出来事であって、基本的には人間の理性の及ばない領域であろうが、それで手を拱(こまね)いていては万物の霊長としての估券に関わるのではなかろうか。
そういう時代の風潮、或いは時流に敢然と刃向かうべきが、本来の人間の理性と知性であらねばならないのではなかろうか。
この世に生まれ出た人間は、全て自己愛というものを持っているわけで、「この世で一番大事なものは自分の命だ」という考えに異論を挟むものはいない。
だから自分の命を投げ出してまで他者に尽くす行為を強制するわけにはいかないが、自らが自分の命を投げ出しても他者を救おう、という思いを制止することもない。
世の中が混沌としている時に、ただただ右往左往と、人の波、あるいは人の群れにくっついて動くだけでは能が無いわけで、そういう状況下で自己愛の強い人は、何が何でも生き抜く努力をするが、ただただ時流に流されるだけの人もいる。
人の生き方としては、周りの人間と足並みをそろえて、時流に流されて、自己の思考を思い煩うことも無く、安逸な生活を送った方が精神的にかなり楽な生き方ではある。
しかし、これでは動物と同じなわけで、霊長類の人間としては、ここで理性とか知性という脳の働きが作用して来るのが自然の流れというものだ。
人間の集団は、大勢の人間の集まりなので、中には理性も知性も無く、ただ単に粗暴という人もいることはいるが、そういう人は群れのリーダーには成りきれないはずで、周りの人から疎外されて当然である。
大正時代から昭和の初期の時代に、日本の政治が混沌としていたことは否めないが、そこで本来の力を発揮すべきが教養人と言われる範疇の人々でなければならなかった。
教養人という言葉は、如何にも時代がかかって古めかしい印象を受けるが、左翼用語でいえばインテリーゲンチャということになる。
ところが、戦前の日本では、こういうクラスの人々が軍人のサーベルの音に委縮してしまって、言うべき事を言わなかったから、結果として軍人の独断専横という風潮を国民レベルで後押ししてしまったということになる。
あの時代、軍人・いわゆる青年将校と称する若者のテロが頻繁に横行したので、そのテロに脅えたと言い方も成り立つが、これは人の持つ自己愛という見地からすれば、「テロに脅えるな」と言う方が無理というものである。
が、本来、理性と知性の塊りであるべき教養人が、テロを恐れて沈黙してしまったから、軍人の独断専横を招致した、ということはいえると思う。
教養人の認知はメデイアによるところがおおいにあるが、統治するものは基本的にメデイアをしっかり掌握しなければいけない。
メデイアの殺生与奪権をしっかりっと握って、何を報じて何を報じてならないか、をしっかりと把握して、勝手な報道、何でもかんでも有ること無いこと、公序良俗を無視してまで報じていい、という放任主義は厳に戒めるべきだと思う。
人間として普通に倫理観、常識、知的センスがあれば、報ずる側にもおのずからその峻別はつくはずで、その峻別が付かないということは、報ずる側、メデイアの側が金儲けに徹し切って、金儲けの為に公序良俗を無視していることである。
そういう人間ならば当然のこと厳罰に処して良い筈である。
そういう公序良俗を理解し切れないような人間に、普通の人権を認める必要はないし、ましてや「知る権利」だとか「報道の自由」などという判ったような言い分を言わせる必要はさらさらない。
普通の社会において、常識人としての公序良俗が理解できないような人間は、人間以下の存在で、人権などという権利を主張させる必要は毛頭ない。
この教養人と言われる人たちが、メデイアに様々な情報を提供すると、それに接した下々の人々は、「偉い先生がそういうのだから間違いないだろう」と単純にそう思い込んでしまう。
メデイア、今日ではテレビや新聞、はたまたインターネット等であるが、こういうものをじっくり観察すると、テレビや新聞の報ずることは、出来ごとの最初から最後まで全部を見せるわけではなく、そんなことは物理的に出来ないわけで、出来ごとの主要な部分のみ要訳して報道される。
問題は、この要訳という部分で、情報の送り手、発信する側は、見る側の人を故意に、思惟的に、或いは意識的に誘導して、世論形成をすべく情報をコントロールしている。
一連の出来事のどの部分を切って、どの部分を報道するかは、送り手側の思うがままになっているので、そういう操作は意図も安易に出来る。
送り手側の都合の悪いことは故意に隠し、貶めたい相手の弱点は大々的に報道するなどという作為は、明らかに世論形成の単純な手法であるし、だからこそこの部分に情報公開の透明性が問われ、偏向報道が問われるのである。
そういうメデイアのもろもろの事情の上に今日の政治状況があるとすれば、如何なる時代の為政者であっても、メデイアの首根っこをしっかりと抑えつけ、「報道の自由」などという甘い餌を振り撒くべきではない。
その事を考えれば、俗に言われている教養人という人達は、このメデイアに対して、その隠された部分を表に出し、時流とか、時の雰囲気とか、民衆の願っていることに整合性があるかどうか、ということに懐疑の念を常に抱き、それをニュートラルな方向に修正する使命があると思う。
この世の人々は、人の言う事にどうしても左右されがちである。
大昔の口コミであろうと、現代のマスコミであろうと、為政者のみならず下々の人々までがメデイアの報ずることに一喜一憂しながら生きているわけで、メデイアが事件の全貌を報じていなくとも、その報じられた内容によって自己の考えを固定化しようとするのである。
私は保坂正康氏と同世代であるが、これまでの自分の人生の中で見た同胞の有り体を考えると、我が日本民族というのは実に不甲斐ない民族だとつくづく思う。
あの戦争に嵌り込んで行った過程をつぶさに見、戦後の騒乱をつぶさに見ると、つくづく我が民族の不甲斐なさが身に沁みて感じられる。
戦前の我々の先輩諸氏が日中戦争に嵌り込んで行った過程を見ると、我々の同胞が如何に不道徳で、倫理感に欠け、思い上がりもはなはだしく思考的に極めて浅はかな存在であったか思い知らされる。
戦後の世相を見ても、GHQの指示による戦後の5大改革で、治安維持法が廃止され、それによって政治犯の釈放がなされたが、その時釈放された政治犯の数は468名と言われている。
つまり、戦中に治安維持法で投獄され、敗戦によって解放された正真正銘の共産党員は僅か500名にも満たなかったという事だが、それが翌年の食糧メーデーには皇居前広場に集まった人が25万人もいたというのだから、あの軍国主義は一体何であったのか、「天皇陛下万歳」の掛け声は一体何であったのか、摩訶不思議ではないか。
あの天皇制の厳しい中の軍国主義の治世下において、隠れ共産党員が25万人もいたという事は信じられないことではないか。
言うまでもなくこれは信念を持った共産党員ではなく、世の中の時流が変わったことによる便乗的な世情の揺れ、時流の潮の目の読みに起因する大衆の心の揺らぎであったわけで、これこそが戦前・戦中の軍国主義の正体であり、ある意味で民意の具現でもあったわけだ。
我々の同胞の生き様というのは、この程度のものでしかないわけで、戦前には世界の一等国とおだてられるとホイホイとそのおだてに乗ってしまい、「おだてりゃ豚も木に登る」という体をなしたわけだ。
そして、自分の周囲を見渡すと、自分よりも貧しい国が一杯あったわけで、それを見下す心理というのも、我々の同胞に倫理観が欠けていた証拠なわけで、当時のインテリーにはそういう下等な民衆を指導する見識も無かったという事だ。
思えば、明治維新以降の我々の国民的コンセンサスは言うまでもなく富国強兵であったわけで、これはとりもなおさずその裏の心理としては貧乏からの脱出願望であったという事だ。
明治維新で階級制度が廃棄されたことを民主化と称して礼賛する傾向があるが、民主化という言葉の裏には「味噌も糞も一緒くたにする」という負の効用があることを忘れてはならない。
昭和初期の時代に、軍人が威張って、サーベルの音をちらつかせて知識人を黙らせたということは、身分制度を御破算にした負の効用が露呈したという事である。
「武士は食わねど高楊枝」という戯れ言葉は、統治する、或いは人の上に立つことのノブレス・オブリージを差し示しているが、昭和の初期においては、その真意を理解する者がなくなったという事に他ならない。
戦争に敗北して新しい統治者が出現すると、戦前・戦中には身を隠していた隠れ共産党員が25万名も皇居前広場に集結した例を見ても、日本の大衆は群れを成す小魚の大群が一斉に方向転換するのと同じで、この構図は我々の民族の偉大なるエネルギーとも言える。
この小魚の大群が軍国主義を振りかざして、アジアに、太平洋に、挑んで行ったのだが、所詮、小魚は小魚であったわけで、さんざん相手に食い散らされてしまったということだ。
ここで歴史の反省とすべきは、小魚は小魚の生き方にマッチした処世術を考えださねばいけなかったが、我々の選択は、肉食の大きな魚と同じ思考回路を執ったという点である。
こういうマッチングを検討すべきが本来ならば学識経験豊富な知識人でなければならないが、そういう階層が全ておん身大切になってしまったが故に、祖国が恢塵となってしまったといえる。
戦後においても、先に述べた食糧メーデーに見るまでもなく、国論を二分する大きな論争はひっきりなしに浮上していたが、ここでも学生と称する無頼の輩の傍若無人な振る舞いが目につく。
その振る舞いは、戦前の青年将校のテロと同次元のパターンで、青年将校は軍人であったが故に武器の携行が認められていたのでテロになりえたが、戦後の学生には人を殺傷する武器の携行が許されていなかったので、棒や石ころで武力行使の代行をせねばならず、まるで石器時代の野蛮人の立ち居振る舞いと同じことを日本の最高学府の学生がしていたという事だ。
こんな日本が良くなることはあり得ないではないか。
確かに経済成長は成し得たが、人間性の向上は経済の発展と同じ軌跡で歩んでいたかどうかは甚だ怪しいわけで、経済成長の陰で、人心の荒廃は明らかに進んでいたことは間違いないと思う。
そもそも、日本の最高学府の大学の先生と言われる人々の常識が、国民を納得させるものではなく、国民の支持の無い思考になっているのだから、そういう先生の元で教育を受けた新しい世代、次世代が、日本を高い位置にもっていく、精神の気高さを期待できるわけがない。
必然的に、繁栄の坂を転がり落ちる方向にしか知性も理性も作用しないということである。
戦後の安保闘争、学園紛争を見ても、あれが日本の最高学府の人々の立ち居振る舞いだとはとても思えないではないか。
戦前の青年将校のテロへの暴走も、戦後の学生のあらゆる段階の闘争も、全て日本人の民族性を如実に表しているわけで、昭和12年に起きたとされる南京大虐殺も、戦後の学生運動の過激さを見ると、充分に推し量ることが可能だと思う。
あの虐殺に対する中国側のいう犠牲者の数は信ぴょう性が希薄だが、だからと言ってゼロでは決してない筈で、「30万人はいけないが3万ならば良いのか」という議論にはならないが、日本の将兵が南京で無為な殺傷をいくらかしたという事は言えると思う。
問題は、それをしたのがどういう人達であったかである。
私の推測では、非常に純朴で、素直な気質で、健気に軍国主義に心酔した、人間として立派な若手の将兵たちであったと考える。
年の頃は恐らく現役兵ということであれば、20歳前後の若者で、非常に純な気持ちで、敵地に進駐して、敵の憎悪の目に曝されて、過剰に反応したという部分は大いにあろうかと思う。
平和で何でもない時ならば、ごく普通の若者が、ある特殊な環境下に置かれると、自制心を喪失してしまって、「あいつがやれば俺もやる」式の付和雷同的な無責任丸出しの暴走行為に突っ走ってしまったという事があったに違いない。
戦後の安保闘争や、学園紛争や、成田闘争の騒乱事件などを見ても、騒乱を推し進めている若い連中は、真から革命を目指しているわけではなく、ただただ棒を振りまわし、警察官と力の押し比べをし、歩道の石をはがして相手に投げつけたりと、まるで村のお祭りで青年団が集落対抗の喧嘩でもしているようなもので、本気で革命を目指しているわけではない。
日本の農村のお祭にも、結構荒っぽいお祭があるわけで、諏訪大社のお祭りとか、岸和田のお祭りというのは若者が1年に一回おおぴらに無礼講で騒ぐことが許されたお祭りで、当然、怪我人が出ることは最初から想定されている程のお祭りである。
安保闘争や、学園紛争、はたまた成田闘争のデモも、この程度のものであって、基本的に日本の若者は人を殺すことが好きな連中で、口先では平和、平和と訳知り顔に振る舞っているが、その奥底では人を殺しても何とも思っていないではないか。
浅間山荘事件や、赤城山リンチ事件や、よど号事件を見ても、日本の若者は、まさしく南京大虐殺もどきの人殺しを実践しているではないか。
そして、こういう跳ね上がりの学生を指導する先生が、またまた左傾しているわけで、「人を殺してはいけません」という事を学生に説かないものだから、偏差値の高い学生は偏差値が高いが故に、古典的な良識を理解し切れずにいる。
「血気盛ん」という言葉があるが、南京大虐殺を実行したのも日本の若者であったし、戦後の様々な闘争の中で仲間を殺し、警察官に石を投げて、成田闘争では警察官を殺したのも日本の血気盛んな学生であったわけで、学生と人殺しの関係を我々はどう考えたら良いのであろう。
私は警察官が全て善人だとは思っていないが、学生たるものが警察官の制止を聞かず、警察官に石を投げたり、警察官を殺したり、仲間内で内ゲバと称して殺し合う日本の若者・学生をどう捉えたら良いのであろう。
泥棒や強盗がそういうことをするのならば、「治安の悪化」という事が言えるが、最高学府に籍を置く学生が、そういうことをする世の中をどう考えたら良いのであろう。
この本の中で対談している保坂正康氏も、学生の時にはよくデモに行ったと述べているが、その時にデモに出掛けた心境としては、お祭り気分で、神輿の見物という程度の認識でデモに加わっていたのではないかと勝手に想像する。
あの当時の学生にとっては、デモに参加するという事がある種の若気の至りでもあったし、仲間同士の連帯感に繋がる雰囲気であったようにも見えるが、警官に石を投げたり、警官を殺した学生たちが、今は社会の中枢を担っている筈だ。
そろそろ定年で職場を離脱するものもいるであろうが、こういう学生がいる社会、こういうことをする学生の居る社会が良くなるわけがないではないか。
人間が織りなす社会なのだから、あちらこちらで失敗事例には事欠かないであろうが、人間は失敗する動物であるからこそ、その失敗をフォローし合って生きなければならないのではなかろうか。
学生が率先して社会秩序の破壊を推し進めるような社会が、それよりも良くなる筈がないではないか。
こういう学生運動にもある種の流行り廃りがあるわけで、それはやはり時流というもので、ある種の時代の流れの中のムーブメントであったに違いない。
意味も判らずデモに参加していたわけで、一人一人の学生は自分が何をすべきか真から考えることなく、ただ「人がやるから自分もやる」という程度のものでなかったかと思う。
我々日本人にとって、「人がやるから自分もやる」という何処からどう見ても明らかな自主性の無さが我が民族の特質だと思う。
最初にやって成功した人の後に、我も我もと続いていくので、それが右肩上がりの発展途上にあるときは、後に続いたものも利益に預かれるが、それが頂点に達してしまうと、自分自身の指針を見失ってしまって、結果的に「人の振り見て我が振り直す」「あいつがやるから俺もやる」という事に繋がってしまうのである。
日本が戦争に嵌り込んで行った遠因は、貧乏からの脱出願望であったことは否めないが、あの時の我々の発想では、日本は国土が狭いので海外雄飛して、資源を海外に求め、市場も海外に求めようというものであった。
領土的野心を満たさんがために国外に出ようとしたが、敗戦という結果で逆に日本の本来の4つの島に閉じ込められてしまった。
そこに海外からの引き上げと復員で国内の人口は一気に300万人も増えてしまった。
そういう状況下で、我々の同胞は、戦後のあらゆる苦難に堪え、天皇陛下の詔勅ではないが、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでしのんで、粉骨砕身して今日に至ったのである。
我々のこの10年近い経済の停滞は、我々の経済成長が頂点に達してしまって、我々自身のこれから先の指針を見失っているという事だと思う。
今までの戦後復興には、アメリカやヨーロッパという先進諸国に追いつき追い越せという指針が明確にあったが、自分がトップになってしまうと、自分でその指針を確定しなければならなくなった。
人の振りを見てそれを参考にすることも出来ず、「あいつがやれば」と言っても、あいつは堕落してしまっているので参考にもならず、さりとて自分で自分の指針を見つけることも出来ず、暗中模索という事が続いているのが現状であろう。
講談社現代新書判であったが、保坂正康と半藤一利との対談という形になっていた。
両名とも近現代史の大家なので安心して読めたが、私も彼らと同世代なので、登場する事柄についてはリアルタイムに記憶している部分もあったがそうでない所もあった。
昭和のあの時代に、ああいう出来事があった、ということはリアルタイムに関知しているが、その背景となるとやはり門外漢なわけで、そこを掘り起こすという意味で非常に興味深く読んだ。
半藤一利氏は1930年生まれ、保坂正康氏は1939年生まれというわけで、私は保坂氏に年齢的には近いが、共に戦後という時代を潜り抜けて来たという意味で共感を覚える。
私はこういうことを専門的に学んだ経験は無いが、生来の本好きという面から、人さまの知見を受け売りするに資する知識は備えているつもりである。
一つ一つの出来ごとに、自分なりの評価基準は持っているが、それにしても我々の民族の行動としては、実に不可解な部分が多すぎる。
第一、我々の先輩諸氏が日中戦争からアメリカとの開戦に至るまでの過程など実に不可解極まりない。
戦後の、「戦争への反省」という意味での評価では、当時の軍人の独断専横に全ての責任を覆い被せて、軍人以外の者は全て戦前・戦中の軍国主義の犠牲者だ、という言い方が普遍化してしまっているが、果たして本当にそうだったのか、私個人としては今でも納得し切れないものを持っている。
この両名の論旨には、流石にそういうステレオタイプな安易な評価はなされていないが、今の平成の世の政治的状況も、大戦前、戦争前の大正時代から昭和初期の政治状況に極めて似ているのではないかと思う。
つまり、経済が閉塞状況に陥って、何処にも抜け道が見つからないので、内部圧力がたまりにたまって飽和状態になっているようなもので、こういう状況下で、ある種のガス抜きとして、軍の独断専横があって、そで一気にバブルが崩壊してしまったようなものではないかと考えている。
世の中には「風潮」という言葉がある。
広辞苑によると、①風に吹かれて生ずる潮の流れ②時代の移り変わりによって生ずる世の中の傾向、となっているが、まさしくこの言葉通りの雰囲気が時代を風靡することがある。
これを私流の言葉で言い直すと、「時流」という言い方になるが、人間の集団には時と場合によって、一種独特の雰囲気に包まれる事がある。
これは「善し悪し」という価値基準では計れない出来事であって、基本的には人間の理性の及ばない領域であろうが、それで手を拱(こまね)いていては万物の霊長としての估券に関わるのではなかろうか。
そういう時代の風潮、或いは時流に敢然と刃向かうべきが、本来の人間の理性と知性であらねばならないのではなかろうか。
この世に生まれ出た人間は、全て自己愛というものを持っているわけで、「この世で一番大事なものは自分の命だ」という考えに異論を挟むものはいない。
だから自分の命を投げ出してまで他者に尽くす行為を強制するわけにはいかないが、自らが自分の命を投げ出しても他者を救おう、という思いを制止することもない。
世の中が混沌としている時に、ただただ右往左往と、人の波、あるいは人の群れにくっついて動くだけでは能が無いわけで、そういう状況下で自己愛の強い人は、何が何でも生き抜く努力をするが、ただただ時流に流されるだけの人もいる。
人の生き方としては、周りの人間と足並みをそろえて、時流に流されて、自己の思考を思い煩うことも無く、安逸な生活を送った方が精神的にかなり楽な生き方ではある。
しかし、これでは動物と同じなわけで、霊長類の人間としては、ここで理性とか知性という脳の働きが作用して来るのが自然の流れというものだ。
人間の集団は、大勢の人間の集まりなので、中には理性も知性も無く、ただ単に粗暴という人もいることはいるが、そういう人は群れのリーダーには成りきれないはずで、周りの人から疎外されて当然である。
大正時代から昭和の初期の時代に、日本の政治が混沌としていたことは否めないが、そこで本来の力を発揮すべきが教養人と言われる範疇の人々でなければならなかった。
教養人という言葉は、如何にも時代がかかって古めかしい印象を受けるが、左翼用語でいえばインテリーゲンチャということになる。
ところが、戦前の日本では、こういうクラスの人々が軍人のサーベルの音に委縮してしまって、言うべき事を言わなかったから、結果として軍人の独断専横という風潮を国民レベルで後押ししてしまったということになる。
あの時代、軍人・いわゆる青年将校と称する若者のテロが頻繁に横行したので、そのテロに脅えたと言い方も成り立つが、これは人の持つ自己愛という見地からすれば、「テロに脅えるな」と言う方が無理というものである。
が、本来、理性と知性の塊りであるべき教養人が、テロを恐れて沈黙してしまったから、軍人の独断専横を招致した、ということはいえると思う。
教養人の認知はメデイアによるところがおおいにあるが、統治するものは基本的にメデイアをしっかり掌握しなければいけない。
メデイアの殺生与奪権をしっかりっと握って、何を報じて何を報じてならないか、をしっかりと把握して、勝手な報道、何でもかんでも有ること無いこと、公序良俗を無視してまで報じていい、という放任主義は厳に戒めるべきだと思う。
人間として普通に倫理観、常識、知的センスがあれば、報ずる側にもおのずからその峻別はつくはずで、その峻別が付かないということは、報ずる側、メデイアの側が金儲けに徹し切って、金儲けの為に公序良俗を無視していることである。
そういう人間ならば当然のこと厳罰に処して良い筈である。
そういう公序良俗を理解し切れないような人間に、普通の人権を認める必要はないし、ましてや「知る権利」だとか「報道の自由」などという判ったような言い分を言わせる必要はさらさらない。
普通の社会において、常識人としての公序良俗が理解できないような人間は、人間以下の存在で、人権などという権利を主張させる必要は毛頭ない。
この教養人と言われる人たちが、メデイアに様々な情報を提供すると、それに接した下々の人々は、「偉い先生がそういうのだから間違いないだろう」と単純にそう思い込んでしまう。
メデイア、今日ではテレビや新聞、はたまたインターネット等であるが、こういうものをじっくり観察すると、テレビや新聞の報ずることは、出来ごとの最初から最後まで全部を見せるわけではなく、そんなことは物理的に出来ないわけで、出来ごとの主要な部分のみ要訳して報道される。
問題は、この要訳という部分で、情報の送り手、発信する側は、見る側の人を故意に、思惟的に、或いは意識的に誘導して、世論形成をすべく情報をコントロールしている。
一連の出来事のどの部分を切って、どの部分を報道するかは、送り手側の思うがままになっているので、そういう操作は意図も安易に出来る。
送り手側の都合の悪いことは故意に隠し、貶めたい相手の弱点は大々的に報道するなどという作為は、明らかに世論形成の単純な手法であるし、だからこそこの部分に情報公開の透明性が問われ、偏向報道が問われるのである。
そういうメデイアのもろもろの事情の上に今日の政治状況があるとすれば、如何なる時代の為政者であっても、メデイアの首根っこをしっかりと抑えつけ、「報道の自由」などという甘い餌を振り撒くべきではない。
その事を考えれば、俗に言われている教養人という人達は、このメデイアに対して、その隠された部分を表に出し、時流とか、時の雰囲気とか、民衆の願っていることに整合性があるかどうか、ということに懐疑の念を常に抱き、それをニュートラルな方向に修正する使命があると思う。
この世の人々は、人の言う事にどうしても左右されがちである。
大昔の口コミであろうと、現代のマスコミであろうと、為政者のみならず下々の人々までがメデイアの報ずることに一喜一憂しながら生きているわけで、メデイアが事件の全貌を報じていなくとも、その報じられた内容によって自己の考えを固定化しようとするのである。
私は保坂正康氏と同世代であるが、これまでの自分の人生の中で見た同胞の有り体を考えると、我が日本民族というのは実に不甲斐ない民族だとつくづく思う。
あの戦争に嵌り込んで行った過程をつぶさに見、戦後の騒乱をつぶさに見ると、つくづく我が民族の不甲斐なさが身に沁みて感じられる。
戦前の我々の先輩諸氏が日中戦争に嵌り込んで行った過程を見ると、我々の同胞が如何に不道徳で、倫理感に欠け、思い上がりもはなはだしく思考的に極めて浅はかな存在であったか思い知らされる。
戦後の世相を見ても、GHQの指示による戦後の5大改革で、治安維持法が廃止され、それによって政治犯の釈放がなされたが、その時釈放された政治犯の数は468名と言われている。
つまり、戦中に治安維持法で投獄され、敗戦によって解放された正真正銘の共産党員は僅か500名にも満たなかったという事だが、それが翌年の食糧メーデーには皇居前広場に集まった人が25万人もいたというのだから、あの軍国主義は一体何であったのか、「天皇陛下万歳」の掛け声は一体何であったのか、摩訶不思議ではないか。
あの天皇制の厳しい中の軍国主義の治世下において、隠れ共産党員が25万人もいたという事は信じられないことではないか。
言うまでもなくこれは信念を持った共産党員ではなく、世の中の時流が変わったことによる便乗的な世情の揺れ、時流の潮の目の読みに起因する大衆の心の揺らぎであったわけで、これこそが戦前・戦中の軍国主義の正体であり、ある意味で民意の具現でもあったわけだ。
我々の同胞の生き様というのは、この程度のものでしかないわけで、戦前には世界の一等国とおだてられるとホイホイとそのおだてに乗ってしまい、「おだてりゃ豚も木に登る」という体をなしたわけだ。
そして、自分の周囲を見渡すと、自分よりも貧しい国が一杯あったわけで、それを見下す心理というのも、我々の同胞に倫理観が欠けていた証拠なわけで、当時のインテリーにはそういう下等な民衆を指導する見識も無かったという事だ。
思えば、明治維新以降の我々の国民的コンセンサスは言うまでもなく富国強兵であったわけで、これはとりもなおさずその裏の心理としては貧乏からの脱出願望であったという事だ。
明治維新で階級制度が廃棄されたことを民主化と称して礼賛する傾向があるが、民主化という言葉の裏には「味噌も糞も一緒くたにする」という負の効用があることを忘れてはならない。
昭和初期の時代に、軍人が威張って、サーベルの音をちらつかせて知識人を黙らせたということは、身分制度を御破算にした負の効用が露呈したという事である。
「武士は食わねど高楊枝」という戯れ言葉は、統治する、或いは人の上に立つことのノブレス・オブリージを差し示しているが、昭和の初期においては、その真意を理解する者がなくなったという事に他ならない。
戦争に敗北して新しい統治者が出現すると、戦前・戦中には身を隠していた隠れ共産党員が25万名も皇居前広場に集結した例を見ても、日本の大衆は群れを成す小魚の大群が一斉に方向転換するのと同じで、この構図は我々の民族の偉大なるエネルギーとも言える。
この小魚の大群が軍国主義を振りかざして、アジアに、太平洋に、挑んで行ったのだが、所詮、小魚は小魚であったわけで、さんざん相手に食い散らされてしまったということだ。
ここで歴史の反省とすべきは、小魚は小魚の生き方にマッチした処世術を考えださねばいけなかったが、我々の選択は、肉食の大きな魚と同じ思考回路を執ったという点である。
こういうマッチングを検討すべきが本来ならば学識経験豊富な知識人でなければならないが、そういう階層が全ておん身大切になってしまったが故に、祖国が恢塵となってしまったといえる。
戦後においても、先に述べた食糧メーデーに見るまでもなく、国論を二分する大きな論争はひっきりなしに浮上していたが、ここでも学生と称する無頼の輩の傍若無人な振る舞いが目につく。
その振る舞いは、戦前の青年将校のテロと同次元のパターンで、青年将校は軍人であったが故に武器の携行が認められていたのでテロになりえたが、戦後の学生には人を殺傷する武器の携行が許されていなかったので、棒や石ころで武力行使の代行をせねばならず、まるで石器時代の野蛮人の立ち居振る舞いと同じことを日本の最高学府の学生がしていたという事だ。
こんな日本が良くなることはあり得ないではないか。
確かに経済成長は成し得たが、人間性の向上は経済の発展と同じ軌跡で歩んでいたかどうかは甚だ怪しいわけで、経済成長の陰で、人心の荒廃は明らかに進んでいたことは間違いないと思う。
そもそも、日本の最高学府の大学の先生と言われる人々の常識が、国民を納得させるものではなく、国民の支持の無い思考になっているのだから、そういう先生の元で教育を受けた新しい世代、次世代が、日本を高い位置にもっていく、精神の気高さを期待できるわけがない。
必然的に、繁栄の坂を転がり落ちる方向にしか知性も理性も作用しないということである。
戦後の安保闘争、学園紛争を見ても、あれが日本の最高学府の人々の立ち居振る舞いだとはとても思えないではないか。
戦前の青年将校のテロへの暴走も、戦後の学生のあらゆる段階の闘争も、全て日本人の民族性を如実に表しているわけで、昭和12年に起きたとされる南京大虐殺も、戦後の学生運動の過激さを見ると、充分に推し量ることが可能だと思う。
あの虐殺に対する中国側のいう犠牲者の数は信ぴょう性が希薄だが、だからと言ってゼロでは決してない筈で、「30万人はいけないが3万ならば良いのか」という議論にはならないが、日本の将兵が南京で無為な殺傷をいくらかしたという事は言えると思う。
問題は、それをしたのがどういう人達であったかである。
私の推測では、非常に純朴で、素直な気質で、健気に軍国主義に心酔した、人間として立派な若手の将兵たちであったと考える。
年の頃は恐らく現役兵ということであれば、20歳前後の若者で、非常に純な気持ちで、敵地に進駐して、敵の憎悪の目に曝されて、過剰に反応したという部分は大いにあろうかと思う。
平和で何でもない時ならば、ごく普通の若者が、ある特殊な環境下に置かれると、自制心を喪失してしまって、「あいつがやれば俺もやる」式の付和雷同的な無責任丸出しの暴走行為に突っ走ってしまったという事があったに違いない。
戦後の安保闘争や、学園紛争や、成田闘争の騒乱事件などを見ても、騒乱を推し進めている若い連中は、真から革命を目指しているわけではなく、ただただ棒を振りまわし、警察官と力の押し比べをし、歩道の石をはがして相手に投げつけたりと、まるで村のお祭りで青年団が集落対抗の喧嘩でもしているようなもので、本気で革命を目指しているわけではない。
日本の農村のお祭にも、結構荒っぽいお祭があるわけで、諏訪大社のお祭りとか、岸和田のお祭りというのは若者が1年に一回おおぴらに無礼講で騒ぐことが許されたお祭りで、当然、怪我人が出ることは最初から想定されている程のお祭りである。
安保闘争や、学園紛争、はたまた成田闘争のデモも、この程度のものであって、基本的に日本の若者は人を殺すことが好きな連中で、口先では平和、平和と訳知り顔に振る舞っているが、その奥底では人を殺しても何とも思っていないではないか。
浅間山荘事件や、赤城山リンチ事件や、よど号事件を見ても、日本の若者は、まさしく南京大虐殺もどきの人殺しを実践しているではないか。
そして、こういう跳ね上がりの学生を指導する先生が、またまた左傾しているわけで、「人を殺してはいけません」という事を学生に説かないものだから、偏差値の高い学生は偏差値が高いが故に、古典的な良識を理解し切れずにいる。
「血気盛ん」という言葉があるが、南京大虐殺を実行したのも日本の若者であったし、戦後の様々な闘争の中で仲間を殺し、警察官に石を投げて、成田闘争では警察官を殺したのも日本の血気盛んな学生であったわけで、学生と人殺しの関係を我々はどう考えたら良いのであろう。
私は警察官が全て善人だとは思っていないが、学生たるものが警察官の制止を聞かず、警察官に石を投げたり、警察官を殺したり、仲間内で内ゲバと称して殺し合う日本の若者・学生をどう捉えたら良いのであろう。
泥棒や強盗がそういうことをするのならば、「治安の悪化」という事が言えるが、最高学府に籍を置く学生が、そういうことをする世の中をどう考えたら良いのであろう。
この本の中で対談している保坂正康氏も、学生の時にはよくデモに行ったと述べているが、その時にデモに出掛けた心境としては、お祭り気分で、神輿の見物という程度の認識でデモに加わっていたのではないかと勝手に想像する。
あの当時の学生にとっては、デモに参加するという事がある種の若気の至りでもあったし、仲間同士の連帯感に繋がる雰囲気であったようにも見えるが、警官に石を投げたり、警官を殺した学生たちが、今は社会の中枢を担っている筈だ。
そろそろ定年で職場を離脱するものもいるであろうが、こういう学生がいる社会、こういうことをする学生の居る社会が良くなるわけがないではないか。
人間が織りなす社会なのだから、あちらこちらで失敗事例には事欠かないであろうが、人間は失敗する動物であるからこそ、その失敗をフォローし合って生きなければならないのではなかろうか。
学生が率先して社会秩序の破壊を推し進めるような社会が、それよりも良くなる筈がないではないか。
こういう学生運動にもある種の流行り廃りがあるわけで、それはやはり時流というもので、ある種の時代の流れの中のムーブメントであったに違いない。
意味も判らずデモに参加していたわけで、一人一人の学生は自分が何をすべきか真から考えることなく、ただ「人がやるから自分もやる」という程度のものでなかったかと思う。
我々日本人にとって、「人がやるから自分もやる」という何処からどう見ても明らかな自主性の無さが我が民族の特質だと思う。
最初にやって成功した人の後に、我も我もと続いていくので、それが右肩上がりの発展途上にあるときは、後に続いたものも利益に預かれるが、それが頂点に達してしまうと、自分自身の指針を見失ってしまって、結果的に「人の振り見て我が振り直す」「あいつがやるから俺もやる」という事に繋がってしまうのである。
日本が戦争に嵌り込んで行った遠因は、貧乏からの脱出願望であったことは否めないが、あの時の我々の発想では、日本は国土が狭いので海外雄飛して、資源を海外に求め、市場も海外に求めようというものであった。
領土的野心を満たさんがために国外に出ようとしたが、敗戦という結果で逆に日本の本来の4つの島に閉じ込められてしまった。
そこに海外からの引き上げと復員で国内の人口は一気に300万人も増えてしまった。
そういう状況下で、我々の同胞は、戦後のあらゆる苦難に堪え、天皇陛下の詔勅ではないが、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでしのんで、粉骨砕身して今日に至ったのである。
我々のこの10年近い経済の停滞は、我々の経済成長が頂点に達してしまって、我々自身のこれから先の指針を見失っているという事だと思う。
今までの戦後復興には、アメリカやヨーロッパという先進諸国に追いつき追い越せという指針が明確にあったが、自分がトップになってしまうと、自分でその指針を確定しなければならなくなった。
人の振りを見てそれを参考にすることも出来ず、「あいつがやれば」と言っても、あいつは堕落してしまっているので参考にもならず、さりとて自分で自分の指針を見つけることも出来ず、暗中模索という事が続いているのが現状であろう。