例によって図書館から借りてきた本で「つながる読書術」という本を読んだ。
著者は日高隆氏であるが、知らない人なのでウキぺディアで検索してみた。
本文中にもちらりと述べられていたが、本人は学生時代は学生自治会の先鋭的な闘士であったようで、私とは対極の思考の持ち主にように察しられた。
いわゆる全共闘世代のシーラカンスのようなものではないかと勝手に想像している。
若い時には共産主義に傾倒して、ユートピアに憧れを抱き、風車に立ち向かうドンキホーテを演じていたということであろうが、その残滓が完全に消え失せてはいないように見える。
若い時にある特殊な思考に身も心もささげたという実績は、そう簡単に消え去るものではないようだ。
私自身の体験からしても、若い時の5年間の自衛隊生活というのは今に至っても自分自身の心の糧として息づいているわけで、それと同じことがこの著者についても言えていると思う。
若い時に精神の襞に沁み込んだ左翼思想、既存の体制に対する批判精神というのは、いくら歳月を経ても完全に転向出来るものではない筈である。
それが彼の文章の端はしに滲み出ている。
しかし、私が驚いたのは、彼は年間600万円も本を買うという事だが、ウキぺディアの説明のニュアンスから察すると、どうも彼には虚言癖があるようなイメージを抱かざるを得ない。
「年間600万円も本を買う」という本人の言葉が真実かどうかはさておいても、600万という数字は、中国の白髪3千丈という類の誇張した言辞ではないかと思うが、それはともかくとして多額の本代を払っているという事は真実であろう。
本文の後半部分で、「図書館については良い印象を持っていない」という本人の弁は、正直な本音の言い分だと思う。
図書館の愛好者である私自身は、自分自身の立ち位置が、作家や出版社にとっては疎ましい存在に違いないという危惧は持っている。
私は近年、自分の金で本を買った記憶がない。
本は数え切れないほど読むが、自分で金を出して買った本は一冊もないわけで、全部図書館で借りてきた本なので、作家や出版社には申し訳ない気持ちでいる。
そして、本を読むという行為は、私にとっては遊びの部分であり、社会貢献の一部分でもある自分史の発行に関しても、出版社に委ねることをせず、全部自分達で編集、校正、印刷、製本をメンバーのボランテイアー活動でしてしまっているので、出版社の儲け口を与えていないという意味で、これも出版社に対して申し訳ない気がしている。
自分史の出版を自分達の仲間内で自主制作してしまっているので、出版社としては商売を取られたようなもので、申し訳ないという思いがしている。
事ほど左様に私は、本を読むことに関しては公共の福祉に頼っているので、本屋さんや出版社に対しては申し訳ない気で一杯である。
この本の著者と私では20年の年齢差があるが、これだけ年齢差があると、書く文章にも隔世の差が出来てきて、大いなる違和感を感じずにはおれない。
我々のような凡庸な人間にとっては、本を読むという事は普通の人がパチンコをしたり、麻雀をしたり、カラオケをするのと同じようなもので、心の慰めでしかない。
そういう意味からして読書が知識の源泉という位置付けではないので、それが紙の媒体であろうが、デジタル信号という媒体であろうが、活字を追い求め、如何に記憶にとどめておくかという問題は、2次的なことである。
基本的に、教養というのは一度記憶に留めた知識を如何に表現化するかという事だと思うが、彼の場合、貯め込んだ知識を再披瀝することで、それを金儲けに繋げているわけで、その意味では確かに「つながる読書」であった。
ところが私の場合の読書はあくまでも遊びなわけで、最初から金儲けなど眼中にないわけだから、その意味で自由闊達に対象を選択できる。
私も出来れば自分の読みたい本を自分の金で購入して、読んだ後は自分の本棚に並べて、それを眺めて悦にいった気分でいたいのは山々だが、なにしろ貧乏なのでそういう余裕がないだけの話である。
金は無くとも本は読みたいわけで、それがため図書館に走るということになるのであるが、この図書館というのが解放され過ぎている感がする。
若い母親が赤ん坊同伴で来るのはまだ許せるが、ホームレスがあの汚い服装のままで椅子を占拠し居眠りしている図は何とも言いようの無い不快感を覚える。
ホームレスに「図書館に来るな」とも言えないように思う。
しかし、普通の市民からすれば、薄汚いホームレスが使ったスペースを、後から使うという事はやはり気分的に嫌なものだと思う。
図書館というものが公共施設として誰でもが差別なく利用できるという制度を逆手にとって、ホームレスの安楽の場所となっては、納税者としては甚だ困る事だと思う。
ホームレスの立場からすれば、無料で使える冷暖房完備の施設なわけで、本を一冊でも膝元に置いておけば1日中幸せな気分で居れるに違いない。
赤ん坊同伴の母親の入館ということも、私達が若かった頃にはあまり見かけなかった光景だと思う。
こちらの方は、それこそ行政サイドが入館を拒否することもできないわけで、ある意味で究極の民主主義社会でもあるということになる。
図書館から本を借りて読むという行為は、基本的には貧乏人の発想であり、思考であるが、図書館の利用の仕方を見ると、まさしくその通りの浅ましい利用の仕方をする人がいるものだ。
私の利用している図書館では1枚のカードで一人10冊まで借りれるらしい。
私は一度に10冊も借りても、期限内に読み切れないと思うので、そんなに極端なことはしない。
しかし、若い母親と思しき人達が、外車で乗り付けて、目一杯の10冊を借りて、他人のカードでも目一杯借りて、大きな袋に入れて抱えて帰っていくが、ああいう姿を見ると、人間のあさましさ、さもしさを目の当たりにした思いがする。
外車を乗り回すほどの余裕があれば、「本ぐらい自分の金で買え」と言いたくなるが、車に掛ける金はあっても本に掛ける金は無い、という現実なわけで、これはそのままその人の教養のありのままの姿ということであろう。
本を読むという行為は、様々な欲望を満たす手段としての行為であることは間違いないわけで、知識を増やすという動機もその一つではあるが、それのみではない。
読書が娯楽という人もいるわけで、こういう人たちにとっての読書というのは浪費以外の何ものでもない。お金の浪費、時間の浪費、努力の浪費、スペースの浪費、等々、本を読むという行為そのものが浪費そのものなわけで、出版界としてはこういう顧客を開拓しなければ、出版界そのものが尻すぼみになることは当然の帰結である。
本を読むという浪費を促進するツールとして、デジタル機器が登場してきたわけで、こういうモノの出現は、時代の趨勢であって、避けようがない。
ならば出版界も読者の側も、新しい機器に如何に対応するか、と知恵を絞らざるを得ないのは当然の成り行きである。
この著者は、国会図書館が蔵書の全てをデジタル化することに一抹の危機感を抱いているが、これも時代の趨勢と見做さなければならない。
18世紀から19世紀に起きた産業革命は、従来の価値観を根底から覆してしまったが、20世紀末から21世紀初頭のデジタル革命も、この世の価値観を根底から覆してしまった。
こういう場合、我々日本人の発想だと、「時代の趨勢に乗り遅れた人を救済しなければならない」と偽善ぶった議論が出てくることが最大の問題である。
「乗り遅れた人は、自分で這い上がれ」という発想には至らないのである。
時代の趨勢に乗り遅れた人は、自己責任で乗り遅れたのであって、自分の未来予測が間違っていたか、油断していたか、怠けていたから乗り遅れたわけで、こういう発想をすると、我々の同胞は極めて嫌な顔をするが、この民族性が日本を腑抜けにするバックボーンだと思う。
戦後の復興がなって、日本にモーターリゼーションの波が押し寄せて来た時、「車は走る凶器と化すから利用しない」という人は、自分の未来予測に自分で蓋をして、交通事故の増加傾向を同胞の付和雷同性の所為にして自分を弁護していたが、これと同じことが産業革命や知識のデジタル化についても言える。
私のように、後期高齢者と言われる世代になると、さすがに電子機器を使いこなすには頭脳がついてこれないが、ゆっくり使う分にはできないこともない。
しかし、こういう世代はもう先行きが短いのは自明のことなわけで、新しいデジタル機器に挑戦するよりも、従来の紙の媒体に頼った方が楽なことは当然である。
これこそが時代の趨勢に乗り遅れる最大の理由なわけで、デジタル・ディバイスそのものだと思う。
この本の言うところによると、今、日本では年間8万冊の本が出ているそうだが、いくら国会図書館が蔵書のデジタル化を進めても、全てをデジタル化することは並大抵ではない筈である。
この数字。年間8万冊の本が出版されるとすると、書く側の人も8万人以上おり、それに輪を掛けて読む人がいることになるが、果たして本当にそんなに本を読む人が居るものだろうか。
私は自分では殆ど本を買わないが、図書館に行ったり、大型書店を覗く度にいつも思う事は、一体これだけの本を読む人が果たして本当に居るのだろうかと、不思議で不思議でならない。
出版業界の裏事情等私が知る由もないが、返品も数多くあるという事は聞き及んでいる。
ところが、一度、本としてできたものを返品するという事は、普通の商品ならば根源的なミスなわけで、商品として価値のない物を売ろうとしたという事ではないかと思う。
だとするならば、その本を出版しようと考えた企画立案者や出版のゴウサインを出した人は、そのミスの責任を負わなければならないと思う。
そういう事を考えれば、この資本主義尾社会の中での出版業界の在り方というのは当然のこと売れる本を出すという単純な結論に帰着する。
本として売れる条件というのは当然のこと、著者の知名度に大きく影響されるわけで、知名度の高い人の本ならば消費者も買ってくれるが、知名度がなければリスクは大きくなるということっである。
よってゴーストライターの出現ということになるのであろうが、軽い内容の本ならば、それはそれで由とすべきだと思う。
出版業界のみならず、エンターテイメントの世界でも同じであるが、日本の内側といわず世界的にも数限りない賞が設けられて、年に一回表彰式が執り行われているが、これも基本的には出版界や映画界において、作品に大いなる付加価値を付けるための仕掛けに過ぎないと思う。
優秀な作品を顕彰するという大義名分は、如何に作品を消費者に買わせるかという、商売のテクニックをカモフラージュする煙幕に過ぎず、何ナニ賞受賞作品という付加価値を高めて、その作品を消費者に買わせようという魂胆だとにらむ。
ただ、そういう著名な賞を受賞した作品だから、内容もそれに応じた価値があるかというと、これは甚だ難しいわけで、作品の良さというのは読む側に認定権があるわけで、人が良いと言ったから自分も必ずそれが良いとは思えないものも数多くある筈だ。
そもそも人が書いた作品を、良い悪いと評価すること自体おこがましい言い分だと思う。
自分の感性に「合うか合わないか」という見方ならば成り立つであろうが、「良い悪い」という評価はあり得ないと思う。
ある人が一生懸命書いた作品を他者が読んで「良い悪い」という評価をすることは余りにもおこがましく傲慢な態度だと思う。
自分の感性に「マッチするしない」、あるいは自分にとって「面白かったかそうでないか」という評価が言えるが、「良い悪い」という評価をするには、評価する側にそれだけの器量があるかどうかが問題だと思う。
著者は日高隆氏であるが、知らない人なのでウキぺディアで検索してみた。
本文中にもちらりと述べられていたが、本人は学生時代は学生自治会の先鋭的な闘士であったようで、私とは対極の思考の持ち主にように察しられた。
いわゆる全共闘世代のシーラカンスのようなものではないかと勝手に想像している。
若い時には共産主義に傾倒して、ユートピアに憧れを抱き、風車に立ち向かうドンキホーテを演じていたということであろうが、その残滓が完全に消え失せてはいないように見える。
若い時にある特殊な思考に身も心もささげたという実績は、そう簡単に消え去るものではないようだ。
私自身の体験からしても、若い時の5年間の自衛隊生活というのは今に至っても自分自身の心の糧として息づいているわけで、それと同じことがこの著者についても言えていると思う。
若い時に精神の襞に沁み込んだ左翼思想、既存の体制に対する批判精神というのは、いくら歳月を経ても完全に転向出来るものではない筈である。
それが彼の文章の端はしに滲み出ている。
しかし、私が驚いたのは、彼は年間600万円も本を買うという事だが、ウキぺディアの説明のニュアンスから察すると、どうも彼には虚言癖があるようなイメージを抱かざるを得ない。
「年間600万円も本を買う」という本人の言葉が真実かどうかはさておいても、600万という数字は、中国の白髪3千丈という類の誇張した言辞ではないかと思うが、それはともかくとして多額の本代を払っているという事は真実であろう。
本文の後半部分で、「図書館については良い印象を持っていない」という本人の弁は、正直な本音の言い分だと思う。
図書館の愛好者である私自身は、自分自身の立ち位置が、作家や出版社にとっては疎ましい存在に違いないという危惧は持っている。
私は近年、自分の金で本を買った記憶がない。
本は数え切れないほど読むが、自分で金を出して買った本は一冊もないわけで、全部図書館で借りてきた本なので、作家や出版社には申し訳ない気持ちでいる。
そして、本を読むという行為は、私にとっては遊びの部分であり、社会貢献の一部分でもある自分史の発行に関しても、出版社に委ねることをせず、全部自分達で編集、校正、印刷、製本をメンバーのボランテイアー活動でしてしまっているので、出版社の儲け口を与えていないという意味で、これも出版社に対して申し訳ない気がしている。
自分史の出版を自分達の仲間内で自主制作してしまっているので、出版社としては商売を取られたようなもので、申し訳ないという思いがしている。
事ほど左様に私は、本を読むことに関しては公共の福祉に頼っているので、本屋さんや出版社に対しては申し訳ない気で一杯である。
この本の著者と私では20年の年齢差があるが、これだけ年齢差があると、書く文章にも隔世の差が出来てきて、大いなる違和感を感じずにはおれない。
我々のような凡庸な人間にとっては、本を読むという事は普通の人がパチンコをしたり、麻雀をしたり、カラオケをするのと同じようなもので、心の慰めでしかない。
そういう意味からして読書が知識の源泉という位置付けではないので、それが紙の媒体であろうが、デジタル信号という媒体であろうが、活字を追い求め、如何に記憶にとどめておくかという問題は、2次的なことである。
基本的に、教養というのは一度記憶に留めた知識を如何に表現化するかという事だと思うが、彼の場合、貯め込んだ知識を再披瀝することで、それを金儲けに繋げているわけで、その意味では確かに「つながる読書」であった。
ところが私の場合の読書はあくまでも遊びなわけで、最初から金儲けなど眼中にないわけだから、その意味で自由闊達に対象を選択できる。
私も出来れば自分の読みたい本を自分の金で購入して、読んだ後は自分の本棚に並べて、それを眺めて悦にいった気分でいたいのは山々だが、なにしろ貧乏なのでそういう余裕がないだけの話である。
金は無くとも本は読みたいわけで、それがため図書館に走るということになるのであるが、この図書館というのが解放され過ぎている感がする。
若い母親が赤ん坊同伴で来るのはまだ許せるが、ホームレスがあの汚い服装のままで椅子を占拠し居眠りしている図は何とも言いようの無い不快感を覚える。
ホームレスに「図書館に来るな」とも言えないように思う。
しかし、普通の市民からすれば、薄汚いホームレスが使ったスペースを、後から使うという事はやはり気分的に嫌なものだと思う。
図書館というものが公共施設として誰でもが差別なく利用できるという制度を逆手にとって、ホームレスの安楽の場所となっては、納税者としては甚だ困る事だと思う。
ホームレスの立場からすれば、無料で使える冷暖房完備の施設なわけで、本を一冊でも膝元に置いておけば1日中幸せな気分で居れるに違いない。
赤ん坊同伴の母親の入館ということも、私達が若かった頃にはあまり見かけなかった光景だと思う。
こちらの方は、それこそ行政サイドが入館を拒否することもできないわけで、ある意味で究極の民主主義社会でもあるということになる。
図書館から本を借りて読むという行為は、基本的には貧乏人の発想であり、思考であるが、図書館の利用の仕方を見ると、まさしくその通りの浅ましい利用の仕方をする人がいるものだ。
私の利用している図書館では1枚のカードで一人10冊まで借りれるらしい。
私は一度に10冊も借りても、期限内に読み切れないと思うので、そんなに極端なことはしない。
しかし、若い母親と思しき人達が、外車で乗り付けて、目一杯の10冊を借りて、他人のカードでも目一杯借りて、大きな袋に入れて抱えて帰っていくが、ああいう姿を見ると、人間のあさましさ、さもしさを目の当たりにした思いがする。
外車を乗り回すほどの余裕があれば、「本ぐらい自分の金で買え」と言いたくなるが、車に掛ける金はあっても本に掛ける金は無い、という現実なわけで、これはそのままその人の教養のありのままの姿ということであろう。
本を読むという行為は、様々な欲望を満たす手段としての行為であることは間違いないわけで、知識を増やすという動機もその一つではあるが、それのみではない。
読書が娯楽という人もいるわけで、こういう人たちにとっての読書というのは浪費以外の何ものでもない。お金の浪費、時間の浪費、努力の浪費、スペースの浪費、等々、本を読むという行為そのものが浪費そのものなわけで、出版界としてはこういう顧客を開拓しなければ、出版界そのものが尻すぼみになることは当然の帰結である。
本を読むという浪費を促進するツールとして、デジタル機器が登場してきたわけで、こういうモノの出現は、時代の趨勢であって、避けようがない。
ならば出版界も読者の側も、新しい機器に如何に対応するか、と知恵を絞らざるを得ないのは当然の成り行きである。
この著者は、国会図書館が蔵書の全てをデジタル化することに一抹の危機感を抱いているが、これも時代の趨勢と見做さなければならない。
18世紀から19世紀に起きた産業革命は、従来の価値観を根底から覆してしまったが、20世紀末から21世紀初頭のデジタル革命も、この世の価値観を根底から覆してしまった。
こういう場合、我々日本人の発想だと、「時代の趨勢に乗り遅れた人を救済しなければならない」と偽善ぶった議論が出てくることが最大の問題である。
「乗り遅れた人は、自分で這い上がれ」という発想には至らないのである。
時代の趨勢に乗り遅れた人は、自己責任で乗り遅れたのであって、自分の未来予測が間違っていたか、油断していたか、怠けていたから乗り遅れたわけで、こういう発想をすると、我々の同胞は極めて嫌な顔をするが、この民族性が日本を腑抜けにするバックボーンだと思う。
戦後の復興がなって、日本にモーターリゼーションの波が押し寄せて来た時、「車は走る凶器と化すから利用しない」という人は、自分の未来予測に自分で蓋をして、交通事故の増加傾向を同胞の付和雷同性の所為にして自分を弁護していたが、これと同じことが産業革命や知識のデジタル化についても言える。
私のように、後期高齢者と言われる世代になると、さすがに電子機器を使いこなすには頭脳がついてこれないが、ゆっくり使う分にはできないこともない。
しかし、こういう世代はもう先行きが短いのは自明のことなわけで、新しいデジタル機器に挑戦するよりも、従来の紙の媒体に頼った方が楽なことは当然である。
これこそが時代の趨勢に乗り遅れる最大の理由なわけで、デジタル・ディバイスそのものだと思う。
この本の言うところによると、今、日本では年間8万冊の本が出ているそうだが、いくら国会図書館が蔵書のデジタル化を進めても、全てをデジタル化することは並大抵ではない筈である。
この数字。年間8万冊の本が出版されるとすると、書く側の人も8万人以上おり、それに輪を掛けて読む人がいることになるが、果たして本当にそんなに本を読む人が居るものだろうか。
私は自分では殆ど本を買わないが、図書館に行ったり、大型書店を覗く度にいつも思う事は、一体これだけの本を読む人が果たして本当に居るのだろうかと、不思議で不思議でならない。
出版業界の裏事情等私が知る由もないが、返品も数多くあるという事は聞き及んでいる。
ところが、一度、本としてできたものを返品するという事は、普通の商品ならば根源的なミスなわけで、商品として価値のない物を売ろうとしたという事ではないかと思う。
だとするならば、その本を出版しようと考えた企画立案者や出版のゴウサインを出した人は、そのミスの責任を負わなければならないと思う。
そういう事を考えれば、この資本主義尾社会の中での出版業界の在り方というのは当然のこと売れる本を出すという単純な結論に帰着する。
本として売れる条件というのは当然のこと、著者の知名度に大きく影響されるわけで、知名度の高い人の本ならば消費者も買ってくれるが、知名度がなければリスクは大きくなるということっである。
よってゴーストライターの出現ということになるのであろうが、軽い内容の本ならば、それはそれで由とすべきだと思う。
出版業界のみならず、エンターテイメントの世界でも同じであるが、日本の内側といわず世界的にも数限りない賞が設けられて、年に一回表彰式が執り行われているが、これも基本的には出版界や映画界において、作品に大いなる付加価値を付けるための仕掛けに過ぎないと思う。
優秀な作品を顕彰するという大義名分は、如何に作品を消費者に買わせるかという、商売のテクニックをカモフラージュする煙幕に過ぎず、何ナニ賞受賞作品という付加価値を高めて、その作品を消費者に買わせようという魂胆だとにらむ。
ただ、そういう著名な賞を受賞した作品だから、内容もそれに応じた価値があるかというと、これは甚だ難しいわけで、作品の良さというのは読む側に認定権があるわけで、人が良いと言ったから自分も必ずそれが良いとは思えないものも数多くある筈だ。
そもそも人が書いた作品を、良い悪いと評価すること自体おこがましい言い分だと思う。
自分の感性に「合うか合わないか」という見方ならば成り立つであろうが、「良い悪い」という評価はあり得ないと思う。
ある人が一生懸命書いた作品を他者が読んで「良い悪い」という評価をすることは余りにもおこがましく傲慢な態度だと思う。
自分の感性に「マッチするしない」、あるいは自分にとって「面白かったかそうでないか」という評価が言えるが、「良い悪い」という評価をするには、評価する側にそれだけの器量があるかどうかが問題だと思う。