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江戸は埋め立て地(その1)

2010年01月26日 | エコでボランタリーな江戸の町
NHK大河ドラマ「龍馬伝」が始まりました。これまでの時代劇と違って、服装やメイク、身分関係などの描写が実際に近いような気がします。(最も、篤姫が引き眉&お歯黒で、鹿児島弁を使っていたら視聴率は稼げなかったでしょうから・・・)

ところで、家康が江戸に入った頃を描いた映画やテレビドラマを見た記憶がありません。当時の史料が乏しく、ドラマ性もないために制作には向かないのでしょうか。

天正十七年(1590年)に家康が入城した当時の江戸は、「其頃は、江戸は遠山居城にて、いかにも麁想、町屋なども茅ぶきの家百ばかりも有かなしの体、城もかたちばかりにて、城の様にもこれなく(聞見集)」という荒れた光景だったと伝えられています。

しかしながら、小田原や鎌倉は港をつくることが困難だったのに比べて、江戸は波静かな湾に位置し、海上交通の便を得ていました。加えて、後の五街道をはじめ、内陸各地に通じる交通路も集中し、非常に将来性に富んだ土地であり、家康は新しい時代に対する先見の明があったと思います。

とは言うものの、当時は浜松町あたりから日比谷、大手方面にかけて大きな入江(日比谷入江)が入り込んでいました。日本橋、京橋、有楽町一帯は半島状の低湿地帯(江戸前島)で、その東側も遠浅の海(江戸湊)という地形でした。




村井益男著「江戸城」より


そのため、家康は先ず西丸築城工事のときの堀の揚げ土で日比谷入江を埋め立て、次に駿河台、お茶の水付近にあった神田山を削り崩して日本橋、京橋、新橋付近を埋め立てて市街地を形成していきました。

その後、江東方面、江南方面の埋め立ても順次行われていきましたが、埋め立ての際には網の目のように掘割を張り巡らし、市中に物資を運び込むため導入路を確保していきました。

東京湾の埋め立ては今なお続けられています。私たちの未来を考える原点はこの頃にあると思うのですが、江戸の町が形成される時代に焦点をあてたドラマが制作されることを願っているのは、私だけでしょうか?
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