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君が代発祥の地について

2015-09-19 08:50:52 | 日記
 「横浜中区の歴史を碑もとく絵図」に、君が代発祥の地とあったので、地図上の場所行って見ると妙香寺の敷地内に「君が代発祥の地」の碑がありました。
 早速、境内の事務所に伺い話し会ったところ、当寺院に「吹奏楽事始め」という冊子をいただくことが出来、次のように記述がありましたので、投稿いたします。
 イギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長ジョン・ウィリアム・フェントンより指導を受け吹奏楽を猛練習をしていた折に、「儀礼用の国家はあるか」と問われ、同藩砲兵隊長大山厳は、野津鎮雄、大迫貞清に図り、彼らが愛唱していた薩摩琵琶歌「蓬莱山」から「君が代」を選び、フェントンに作曲を依頼した。
 この曲は、明治3年(1870)9月、東京深川越中島の薩長土肥四藩の操練に臨席した明治天皇の前で初演された。その後、「君が代は」林広守作曲とされる現在の曲が使われるようになったが、最初の曲は、このフェントンが作曲したものであった。
 一方、「横浜山手公園物語」著者 鳴海正泰には、次のようにありました。
 文久3年1863年の薩英戦争のとき、戦死した英軍兵士の水葬に英軍楽隊が壮厳な儀礼曲を演奏した。指揮をしてのが、当時少尉だったフェントンであった。薩摩藩はその曲に感激して、洋楽隊を取り入れようと考えていた。
 明治2年1869年、薩摩藩は上京していた藩士のなかから若者30人を選んで、洋楽を習わせることとし、彼らは10月に横浜に到着、山手の妙香寺を宿舎とした。
 間もなく、ロンドンから楽器が取り寄せられ、英陸軍第一歩兵連隊第10大隊(通称赤隊)付軍楽隊長フェントン中尉の下で練習が行なわれた。そんな中で、フェントンは薩摩藩士に国歌をつくることを勧め、当時薩摩藩砲兵隊長であった大山弥助(後の厳)らが、薩摩藩に昔から伝わっていて、めでたいときに歌う琵琶歌「蓬莱山」から歌詞をとり、フェントンが作曲したとも伝えられている。
 薩摩藩士はそれを練習し、山手公園での赤隊との合同演奏会の翌日、東京越中島で行われた天皇の「天覧調練」の場で演奏された。それが「君が代」の最初の公式演奏だったとされている。
 しかし、フェントンの作曲は歌詞とあわないため、中村祐庸が宮内省で新らたに改定作曲し、それを海軍省傭教師のドイツ人のエッケルトが吹奏楽用に編曲した。明治22年(1888)に海軍省が「大日本礼式」として各国に公表され、事実上の国歌として扱いを受けることとなる。妙香寺境内には、「国歌君が代由緒地」と「日本吹奏楽発祥の地」の碑が二つ建っている。と記述されていました。

(妙香寺への階段)

(妙香寺境内に建てられた君が代の碑)

(妙香寺境内入口階段付近に建てられている国歌君が代由緒地の碑)