gooブログはじめました!よろしく

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ 私は、日常の風景やイ
ベントなどを写真で紹介したいと思い開設をいたします。

日本吹奏楽発祥の地

2015-09-12 09:27:01 | 日記
 「横浜中区の歴史を碑もとく絵図」に、日本吹奏楽発祥の地とあったので、地図上の場所行って見ると妙香寺の敷地内に「吹奏楽発祥の地」と「君が代発祥の地」と二つの碑がありました。
 早速、境内の事務所に伺い話し会ったところ、この寺で吹奏楽を薩摩藩の青年達がイギリス陸軍第10連隊第1大隊付軍楽隊の隊長ジョン・ウィリアム・フェントンより指導を受けたと聞き、妙香寺が作成したチラシ「横浜はじめて物語―吹奏楽」をいただきましたので、この内容を投稿いたします。君が代については、次回とさせていただきます。
 日米修好条約による安政6年(1859)の開港当時、横浜には外国からの文化が数多く入ってきました。現在のブランスバンドやマーチングに始まる「吹奏楽」もこの一つです。この吹奏楽が、その後の日本の文化に大きな影響を与えます。
 最初は、薩摩藩から呼び寄せられた青年たちは、フェントンから楽譜の読み方やピューグル(信号ラッパ)を使った練習でしたが、明治3年(1870)7月末注文をしていた楽器が届くとフェントンは、週4回も伝習生の寄宿先だった「妙香寺」に通い32名に増員された彼等を熱心に指導しまた。
 この「薩摩軍楽隊」は連日連夜の末9月7日にはフェントンの指揮で山手公園野外音楽堂において初の演奏会を開催し、これには、第1大隊付軍楽隊も出演しました。
 この頃の「薩摩軍楽隊」の様子は、同年、東京の越中島の天覧閲兵式に出演したときの姿を明治の絵師{三代広重}が東京三十六景「深川越中島」の版画に描かれています。
 横浜でも、第10連隊の他にも第20連隊軍楽隊等によって山手音楽堂やその下の海岸とおり(現在の元町附近)において週に1~2回の行進演奏や演奏会が行われ、マーチやカドリール、ギャロップなどの音楽で人々を楽しませました。
 彼らは、イギリス人としての凛々しさにあふれ、身長の身を赤い軍服で包んでいたことから、赤隊と呼ばれていたそうです。
 フェントンから指導を受けた「薩摩軍楽隊」は、兵部省の創設により、明治4年(1871)日本海軍軍楽隊となった薩摩洋楽伝習生達は、海軍軍楽隊や陸軍軍楽長をはじめとした要職に就くエリートになって行きました。
 明治4年(1871)5月にフェントンの妻、アニー・マリアは、この横浜で40年の生涯を終えるのです。今も眠る「横浜外人墓地」の墓碑には、「ジョンW.フェントンの愛する妻「アニー・マリア」と深く彫られています。
 フェントンは第10連隊撤兵の際にも横浜に留まることを決意し、日本海軍軍楽隊のお雇教師として指導にあたる事を選びました。これは妻を1人異郷の地に眠らせることが偲びなかったのではなかろうかとも云われています。
 しかし、フェントンは明治10年(1877)に日本を離れますが、彼の残した多くの輝かしい功績は、日本海軍軍楽隊の音楽として他の「洋式」と共に世間に広がり、後に「市中バンド」と呼ばれる学校や企業など民間バンドの創設へと波及、今日の「吹奏楽」の基盤となったのです。
と記述されていました。
 参考文献
 フェントンと海軍軍楽隊の生成について 塚原康子「19世紀に日本における西洋音楽の受容」{1993年多賀出版}と中村理平著「洋楽導入者の奇跡」{1993年刀水房刊}とありました。
 また、別のチラシには、
日本吹奏楽発祥 百四十六年記念演奏会
日時 平成27年10月12日(月・祝) 午後2時より
とありましたので、併せて、投稿いたします。

 一方、「日本大百科全書 小学館発行 編集著作 秋葉 隆」には、
 フェントン教師の指導する薩摩藩軍楽伝習隊は、兵部省海兵隊楽隊、そして海軍軍楽隊へ変わりまた、宮内省雅楽部の指導も兼務していた。およそ100名を超す多くの若者に楽器の演奏法、集団による合奏法ならびに演奏行進などを教えた。苦節9年、吹奏楽の基本的土壌をふまえ、フェントン教師の吹奏楽の定着の努力が実りつつあった。そして、明治10年、その任期も満了して海軍省から解任となった。幕末の洋楽胎動期からのフェントン教師の活躍は、多くの教え子の成長を促した。
 さて、ジョン・ウィリアム・フェントンの来日について、愛弟子であった中村裕庸軍楽長は、「薩摩戦争の時に艦隊旗艦の楽長で、官級としては、少尉なり、とフェントンは語る」と遺稿に記している.
 薩英戦争の時の艦隊旗艦「ユリアラス号」は、その艦隊とともに戦争後文久3年(1863)4月9日に横浜に入港している。
 フェントンの在任していた英国海軍歩兵第10連隊は、第9連隊第2大隊の応援に向い英国テイマー号によって日本に到着した。と云う一説がある。しかし、文久3年より慶応4年の5年間の動向についての記録は、容易に見当たらない。
 しかしながら、そのように日本との深い関係の奇跡を歩みながらフェントン教師は本格的吹奏楽導入期に大きく貢献し、惜しまれつつ去った。フェントン教師に薩摩海軍史では賛辞の文をおくっている。と記述されている。

 次回は、君が代発祥の地を投稿いたします。

(山手風致地区見取り図)

(日本の吹奏楽発祥の碑)

(妙香寺への階段)

(経緯)