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開港150記念碑について

2015-11-14 08:55:23 | 日記
 横浜港大桟橋から、赤煉瓦倉庫のある桜木町方向に歩いていくと、横浜港開港150の碑がありましたので、「横浜もののはじめ考」により調べてみると、次のように掲載されていたので、投稿いたします。
 最初に日米修好通商条約では、神奈川、長崎、函館を安政6年(1859)7月4日に開港することになっていた。この日アメリカの独立記念日にあたる。次の日蘭条約もこれを踏襲したが、続く日露条約で7月1日とされ、日英条約もそれに従った。日仏条約では8月15日になっているが、これは当時のフランス皇帝、ナポレオン三世の誕生日にあたる。結局、最恵国条款にり、5カ国すべてに対して、7月1日(陰暦の6月2日)に開港されることになったのである。
 条約では、神奈川が開港場に定められていたが、神奈川の一部だという口実で、実際には横浜が開港された。東海道に沿う神奈川では、外国人との間にトラブルが予測され、辺鄙(へんぴ)な横浜の方が取り締まり易いと考えたからである。水深の深い横浜地先は港として優れており、背後地に市街地として開発しうる新田地域が広がっていたので、開港後横浜は急速に発展していく。
 「村垣淡路守公務日記」をみると、開港当日の7月1日、これを記念するような行事は何もなかった。「アメリカ彦蔵自伝」によると、7月4日、湾内に停泊する船に旗が掲げられ、米領事館に当てられた神奈川の本覚寺では、墓地の大木に星条旗が掲げられ、公使ハリスを始め、領事ドーア、領事館員のヒコやヴァン・リードらは、シャンパンを抜いて合衆国国家を合唱した。「事物起源」は、これを「横浜開港記念日の始」としているが、開港を祝したのか、合衆国の独立を祝ったのかはっきりしない。いずれにしてもアメリカ人だけの祝賀行事であった。
 「沿革誌」によると、万永元年6月2日開港一周年を記念するため、洲干弁財天で祭礼が挙行され、「外国人に示サンカ為メ男女美麗ヲ尽シ」山車・手踊りで市街を練り歩いた。本来8月15日であった洲干弁財天の例祭は、以後この日の淵源である。明治42年には、開港50年祭が全市挙げて盛大に行われ、浜菱の市章と市歌もこの時に定められた。これ以降陽歴を採って7月1日が記念日となる。
 大正7年から小学校と市役所が休日となった。昭和3年、市会の議決を経て陰暦の6月2日に戻され、現在に至っている。昭和33年(1958)には開港100年祭が挙行された。この年は99年目にあたるが、100年という意味で実施されたらしい。
 さて、外国商船の入港第1号は、「アメリカ彦蔵自伝」によると、開港前日の6月30日、公使ハリス、領事ドーア、それにヒコ自身が搭乗する軍艦ミシシッピー号とともに、ハード商会の派遣した、ワンダラー1号が入港した。これには、領事館員兼ハード商会代理人のヴァン・リードが乗っていた。ただし、条約発効前なので、翌7月1日には、シームセン商会が派遣したと思われるオランダ船シラー1号が入港している。
 一方、外国商人の開業第1号は、幕府は開港に備えて、運上所(現在の税関)続きの地所に外国人向けの貸長屋と呼ばれる収容施設を用意していた。横浜開港に反対して神奈川を主張し続ける外国人代表団に対抗して、外国商人を横浜に誘致する目的もあったからだ。
 「村垣淡路守公務日誌」によると、7月3日にオランダ人が借用を申し入れている。シラー1号で来航したクニラーであろう。2日後には、交渉がまとまり、16日に「店開き」をした。これが外国人の開業第1号である。
 ルイス・クニフラーはハンブルクの商人で、オナンダの保護の下、バタビァから来日、後に、長崎クニフラー商会、横浜にその支店を開設する。後継商社のイギリス商会は、現在も健在である。
 かつては、イギリスのジャーディン・マセソン商会が出店第1号と考えられていたが、現在は誤りであることが明らかとなっている。彼らは、オランダ船アタランテ号に搭乗して入港したのは7月5日、彼らはしばらく船上で生活しており、7月中には貸長屋に移るがクニフラーより先にしたとは考えられない。と掲載されていました。
 また、地番の始めについては、居留地の地番はあったが、文久元年の末頃、神奈川奉行所は居留地の図面を作成し、これに番号を付した。ジャーディン・マセソン商会が英一番館と呼ばれるのは、これに基づいている。
 これが横浜における地番の始まりである。長崎の大浦居留地ではこれより早く、万延元年(1860)には地番が付され9月29日に調印された長崎地所規則に基づくものと思われる。第4条に「境界を確定すために、その地所の番号を明確に彫付けた境界石を設置する」と云う規定がある。
 その一カ月程前の8月中、これとほとんど同文の神奈川規則が、英米蘭三国領事の間で締結されているが、これは日本側の承認を経ておらず、したがって拘束力を持たなかった。横浜で地番の設定が遅れたのは、このような事情によるのであろう。「事物起源」によると、東京における地番の初見は、明治2年12月、同4年の戸籍編成法で地番の設定が義務付けられた。横浜でそれが実施されたのは、「沿革誌」によると明治7年のことであった。

(開港150年記念碑)

(建てた年・団体等)

(記念碑裏面)

(港にかかわる偉人達の功績塔)


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