今日は、山下公園にいきました。ここには、赤い靴の銅像、カモメの水兵さんの歌碑、サンデイエゴとの姉妹都市の碑等がありましたが、今日は、赤い靴について例によって図書館で調べてみましたことを投稿いたします。
この公園は、横浜港に添って東西に細長く広がっている山下公園のホボ中央部に「赤い靴」の銅像あります。情景としては、船が港から煙を吐いてゆっくり出航して行く黒船の後に、船波が広がり段々と小さく、小さくなって行く船の姿を見送っている様に、「赤い靴」の女の子のが鎮座しているようでありました。
「赤い靴物語ヨコハマヤ・ロマンチック・ガイド」を読むと、赤い靴の童謡は、皆さんご承知のとおり、大正10年(1932)当時、野口雨情は29歳で、作曲は、本居長世の手によって、小学女性の12月号の雑誌に初めて発表された作品となっていました。
その頃、野口雨情には、アメリカへ渡った2人のいとこがいて、横浜の港から旅立つ2人を見送りに行き、悲しい別れを経験したことだろう。
また、野口雨情は「赤い靴」を発表する前の年に「人買い船」という詩を作っており、貧しい人たちが人買船に乗せられて去っていく悲しい場面を描いた作品もあり、この歌が「赤い靴」とどこか通しているのではないかと想われたそうであります。
明治から大正の時代のアメリカは、当時の日本人にとって、今とは比べものにならない遠くの未知の国だった。
昭和54年11月11日に「赤い靴をはいた女の子銅像」は、山下公園に建てられた。これは、横浜で生まれ育った「松永春」氏が中心となって、”童謡赤い靴を愛する市民の会”がデンマークのコペンハーゲンにある「人魚姫」やベルギーのブリュッセルにある「小便小僧」の象のように、みんなに愛される象を横浜に欲しいと人々に呼びかけてできたのがきっかけで、資金は、ミニチュアの象やペンダントを売って資金を集め、市民の協力によってようやく実現したとありました。
なお、彫刻家は、「山本正道」氏で、女の子がピット(船を繋ぎ止める杭のような物)に腰かけて膝で手を組み海を見ている姿。除幕式には、作詞者の野口雨情氏の長女である三島香穂子さん、作曲者の本居長世氏の三女若葉さんも列席されたそうであります。また、若葉さんは、かつて父や姉と一緒に「赤い靴」の詩を歌って日本中を演奏旅行したという。
一方、この詩の題材となったのではないかと云う話も書いてありました。それは、「かよ」が生んだ私生児の女の子を育てていたが、その子が二歳の時函館で知り合った人と結婚することになり、泣く泣くその女の子「きみ」を牧師さんに預け、かよは、牧師さんとアメリカに渡ったものと思っていた。
このことを結婚後に生まれた子「その」にお前には姉がいたが、実は、に養女して預けたと小さい時に母親から聞いた。それが赤い靴ではないかと北海道新聞に投稿された。
これを見た北海道テレビのプロデューサの菊池寛氏の追跡調査結果、アメリカに渡ったはずの「きみ」は、病気でアメリカに渡る前に亡くなり、同じ日本の地で牧師さん達の共同墓地に静かに眠っていたと云う。話であります。
さすが、”赤い靴物語 ヨコハマ・ロマンチック・ガイド”発行人 榎木史郎”と私は感じました
(公園看取り図)
(山下公園通り)
(公園のイチョウの木)
(同じ)
(赤い靴の女の子の銅像)
(赤い靴の女の子が見ている情景)
(客船氷川丸)
(園内の花畑)
(当時はなかったベーブリッチ高速道路橋)
この公園は、横浜港に添って東西に細長く広がっている山下公園のホボ中央部に「赤い靴」の銅像あります。情景としては、船が港から煙を吐いてゆっくり出航して行く黒船の後に、船波が広がり段々と小さく、小さくなって行く船の姿を見送っている様に、「赤い靴」の女の子のが鎮座しているようでありました。
「赤い靴物語ヨコハマヤ・ロマンチック・ガイド」を読むと、赤い靴の童謡は、皆さんご承知のとおり、大正10年(1932)当時、野口雨情は29歳で、作曲は、本居長世の手によって、小学女性の12月号の雑誌に初めて発表された作品となっていました。
その頃、野口雨情には、アメリカへ渡った2人のいとこがいて、横浜の港から旅立つ2人を見送りに行き、悲しい別れを経験したことだろう。
また、野口雨情は「赤い靴」を発表する前の年に「人買い船」という詩を作っており、貧しい人たちが人買船に乗せられて去っていく悲しい場面を描いた作品もあり、この歌が「赤い靴」とどこか通しているのではないかと想われたそうであります。
明治から大正の時代のアメリカは、当時の日本人にとって、今とは比べものにならない遠くの未知の国だった。
昭和54年11月11日に「赤い靴をはいた女の子銅像」は、山下公園に建てられた。これは、横浜で生まれ育った「松永春」氏が中心となって、”童謡赤い靴を愛する市民の会”がデンマークのコペンハーゲンにある「人魚姫」やベルギーのブリュッセルにある「小便小僧」の象のように、みんなに愛される象を横浜に欲しいと人々に呼びかけてできたのがきっかけで、資金は、ミニチュアの象やペンダントを売って資金を集め、市民の協力によってようやく実現したとありました。
なお、彫刻家は、「山本正道」氏で、女の子がピット(船を繋ぎ止める杭のような物)に腰かけて膝で手を組み海を見ている姿。除幕式には、作詞者の野口雨情氏の長女である三島香穂子さん、作曲者の本居長世氏の三女若葉さんも列席されたそうであります。また、若葉さんは、かつて父や姉と一緒に「赤い靴」の詩を歌って日本中を演奏旅行したという。
一方、この詩の題材となったのではないかと云う話も書いてありました。それは、「かよ」が生んだ私生児の女の子を育てていたが、その子が二歳の時函館で知り合った人と結婚することになり、泣く泣くその女の子「きみ」を牧師さんに預け、かよは、牧師さんとアメリカに渡ったものと思っていた。
このことを結婚後に生まれた子「その」にお前には姉がいたが、実は、に養女して預けたと小さい時に母親から聞いた。それが赤い靴ではないかと北海道新聞に投稿された。
これを見た北海道テレビのプロデューサの菊池寛氏の追跡調査結果、アメリカに渡ったはずの「きみ」は、病気でアメリカに渡る前に亡くなり、同じ日本の地で牧師さん達の共同墓地に静かに眠っていたと云う。話であります。
さすが、”赤い靴物語 ヨコハマ・ロマンチック・ガイド”発行人 榎木史郎”と私は感じました
(公園看取り図)
(山下公園通り)
(公園のイチョウの木)
(同じ)
(赤い靴の女の子の銅像)
(赤い靴の女の子が見ている情景)
(客船氷川丸)
(園内の花畑)
(当時はなかったベーブリッチ高速道路橋)