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大野林火の句碑について

2014-12-27 11:48:34 | 日記
 今日は、港の見える丘公園にいきました。この港の見える丘公園は、現在展望台になっている周辺に、幕末から明治にかけてイギリス軍兵舎がおかれ、山のすそのには、フランス軍が駐屯していた記録があるそうです。今でもその面影として、イギリス領事官邸が、イギリス館と命名し現存し、山側には、フランス領事館跡地としてはあります。このフランス領事館あとに、「大野林火の句碑」や、「愛の母子像」更に山を下りて行くと「ボーリングの発祥の碑」「クリーニングの発祥の碑」などがありました。
 今回は、「大野林火の句碑」について、投稿いたします。
 林火は、「神奈川横浜市人物・人材情報リスト」によると本名「大野正」、東京帝国大学経済学部商業科を昭和2年に卒業し、同時に、日本工機工業に入社しましたが、5年で退社して、神奈川県立商工実習校の教師として昭和23年まで務めていた。
 俳句は、横浜一中時代から始め、四高時代に臼田亜浪の門に入り、「石楠」に俳句、評論を発表し、早くから注目をあびており、昭14年第一句集「海門」を同16年「現代の秀句」を刊行し、30代にして作家としての声価を確立し、戦後は、俳句に専念し、昭和21年「浜」を創刊して主宰する一方、20年代に「俳句研究」などの総合誌の編集長をつとめ、大きな業績を残していました。
 これらの実績に対して、昭和44年「潺潺集」(せんせんしゅう)で蛇笏賞を受賞した他、横浜市文化賞、神奈川文化賞などを受賞されています。
 また、昭和53年から俳人協会会長に就任されました。句集には、「冬青集」「早桃」「冬雁」「白幡南町」「雪華」「方円集」「大野林火全集句」などがあり、「近代俳句の鑑賞と批評」や秀句鑑賞や研究書も多く論表されていました。
 一方、「つぶやく碑は」によれば、「浜」の女流俳人の集り(中心人物は野沢節子)に、この句(「白き巨船 きたれり春も 遠からず」)は、昭和61年8月21日の祥月命日に、菩提寺の境内に建碑し除幕式を行った。更に、林火の血族者の福福島在住の石橋林石氏は、これと同じものを手造し、港がみえる丘公園に運び、据えた句碑であると「横浜俳話会報(昭和63年№1)」に報じられている。とありました。
 林火は、横浜市日の出町に、明治37年3月25日に誕生されて、昭和57年8月21日に歿78歳となっておりました。
 人はみな、自分の好きな「大好きな」事は、何時か実行しなければ気が済まず、それが大勢するものなのですね。急がば回れと云うことは、このよう事なのでしょうか。

(港の見える丘公園入口)

(公園見取り図)

(港の見える丘展望台)

(大野林火の句碑への路)

(大野林火の句碑)

(句碑の後ろから)