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かもめの水兵さんの歌碑について

2014-12-13 08:33:41 | 日記
 今日は、山下公園にある「かもめの水兵さん」の歌碑について、投稿いたします。歌のヨコハマ70年「市民クフヨコハマ」によれば、竹内俊子さんが、かもめの水兵さんを作った情景は、叔父がハワイへ旅立つため、横浜の波止場まで見送に訪れ、その際に見た情景を詩にしたのが、このかもめの水兵さんである。と書いてありました。時は、1933年(昭和8年)であります。彼女は、数多く童話・童謡を書き残しているそうです。
 カモメの水兵さんの作曲者は、当時NHKで童謡を作り、指揮をしてきた河村陽光氏となっていました。氏は、福岡出身で菩提寺のある東京文京区に、記念碑が建っているそうであります。
 一方、「かもめの水兵さん 竹内俊子伝記作品集」には、次のような事柄を書いてありました。
 竹内俊子さんは、明治38年9月10日広島県三原西町川西で、父、渡部俊哲、母、渡辺ツナのもとに生を受け、小学校時代は、広島に軍人の子弟が多く通った済美小学校で、男子の帽子緑に赤線の入った一見して分かる服装をしていた学校に、本人の意志でその学校に転校して、卒業後は、広島県立広島高等女学校を大正13年に卒業し、引き続き女子専門学校に入学したが、翌年には三原に一家ともに帰ることになる。
 父親の職業は、旧姓中学を卒業して、三原の浄念寺に僧侶で婿入りし、屈指の名布教師であることから、西日本・東日本を中心に法話をして歩き、1年半もの予約を持つ状態であったという。
 竹内俊子は、上京し恵まれた特典を活かし、東京、世田谷三軒茶屋に園芸を家業とする伊藤岩蔵氏の母が広島生まれと云うこともあり、お花の教室「安達式挿入花」に入門するが、書くことが好きでボツボツ作詞活動に身を入れ、同人雑誌の同志となり、市販の幼年雑誌に活字なって載るようになるが、それだけでは満足できず、自分の作品を集め自費出版する計画を立てました。
 しかし、出版には相当の費用が掛るのは勿論のことであります。多くの支援者に恵まれ出版漕ぎ着け、記念式典の当日には、クラスメート達も駆け付け受付を手伝など大助かり、その「風」が世に出るきっかけとなった。時は、大正8年11月でありました。
 この時代は、官僚万能の時代であったが、何故か、文部省から、竹内俊子さんに唱歌の作詞の依頼を受けるという、この上ない名誉であった。作品には、「太平洋」「手まり歌」「ブラームスの子守歌」「真珠」などがあります。
 また、昭和7・8年頃から童謡の外に、童話を書き、しかもこの両者は、ほとんど並行して書いていたようです。とありました。作品には、「幼年娯楽部」「コドモノクニ」に掲載されるようになり、童話作家としての仲間入りをして、昭和12年、与田準一、佐藤義美、巽制歌、奈街三郎氏等と一緒に、児童文芸サークルを結成して、皆との活動拠点にしたようであります。 その作品は、「赤い帽子・白い帽子」「木の葉のくびかざり」外16編、国民新童話「一年生」(ミナミノマ キタノシマ外29編)であります。また、単行本の童話集も2,3あるようです。
 さて、かもめの水兵さんの歌碑の建設は、昭和40年に神奈川県の鳥に「かもめ」が指定され、これがきっかけで、昭和54年の秋に、この山下公園の氷川丸の近くの沈床花壇の一角に、五線譜にかかれたメロディーとともに、歌詞を刻んだ碑が建てられました。
 なお、縦書きの歌詞には、何故か、「かもめのすいへいさい」となっている。竹内俊子さんは、「かものめ水兵さん」と書いてあるにもかかわらず、その相違をネットで調べて見ると、当時の「横浜市長」さんが、ひらがなにしたとありました。
 世の中何時の時代も鶴の一声で、白が黒に、意味もなく折角の詩が変えれ。?・・・・・・

(山下公園見取り図)

(背景にある船が氷川丸です)

(カモメの水兵さんの歌碑です)

(公園に入る手前で、カモメの水兵さんならぬ,すずめの並んだ水兵さんに迎えられました。)