自分にはこれと云うほどの悩みはないが、かと言ってないというのもなんだかおかしく想う。そもそももう自分には悩む力そのものがパワーダウンしており、以前はあった例えば悩む場面も今やそれさえ感じることができなくなったということが正しいのかもしれない。そこで改めて読み比べることにした。
と
の本。
この2冊ともに自分に少なからず自分の考え方に影響を与えてくれた本であり経験させられた本だと思う。
「ベテルの家」は北海道・日高振興局管内にある浦河町にある。人口は1,2603人(30年1月)の太平洋に面した小さな町である。私がお伺いしたきっかけは、元浦河教会の牧師として赴任されてたので尋ねて行ったのが始まり。町名の浦河は霧深き川の意味のアイヌ語のウララベツに由来するという。北海道にはアイヌ語からくる地名が多い。
夕方浦河町荻伏にあるT牧師宅にお邪魔をして奥様のF夫人の焼いた美味しいクッキー目当てに(松山に居られた時によく頂いてそのうまさを知っているがゆえ)世間話をした後3人で少し肌寒い外を歩いた。元浦川にかかる橋の下はところどころ氷が張っていた。
上流の方を見やれば日高山脈が夕日に照らされ光り輝いていた。歩きながら牧師が理事を務める浦河ベテルの話をお聞きし、国道から坂道を上がった場所にあるベテルの家に案内していただいた。
ここはいかなる人に対しても排除しない、統失の障害を持つ人もそっくりそのまんま受け入れてくれてる、そして日高昆布の加工販売までやっていられて自立することが感じられた場所である。
当事者と一緒に話し合いを持った。幻視幻聴を持つ人と世間話をしながらコーヒ-を飲み茶菓子を食べた。特別に変わった場所ではないと思ってたが、旅を終え自宅に戻り本を読むとすごい場所であったことが記されていた。そこは人間的な絆を強く捉えるところであると・・・そうであった大上段に構えて宣伝するものではなくごく普通の人と人とのつながりが当たり前のことであると知らされた。
姜尚中さんの本から自分にも光を与えられたことがある。3.11の被災地に出向いた姜尚中さんが放つ言葉は、やれ可哀そうだとか、支援の手を・・だとかありきたりの言葉ではなかった。「ヨシ、一緒に地獄に落ちろう」であったことは壮絶であった。その作家が「悩み」を必要なもの、力を与えてくれるものとして肯定的に語ってくれてるのが嬉しい。
この中にある「私は何者か」については興味あるところ。在日朝鮮人である筆者が青年期に多くの人が陥るアイデンティティの壁につきあたり両親の母国韓国に渡って感じたことに「私が人生に対して問いかける」という態度から、「人生が私に問いかけている」という視点がある。自分の壁をより高くより堅強にすればするほどに自分の悩みも解消できる・・に対してヤスパースの言葉より「自分の城を築こうとする者は必ず破滅する」と。自我というものは他者との関係せのなかでしか成立しない。つまり自分の殻の中だけでは解決しない問題だと云ってる。他者との関係性の中で自分を見ている。だからなんだろう、家族であろうと家族でなかろうと「絆」について、繋がることの自分の姿勢を、一緒に地獄に落ちろう・・と。
常に時代は新しく変化する。ものであったり考えであったり。変化のスピードが速く追い付いていけないもどかしさがある反面、不変、不動の価値を求めるように矛盾することがある。変化への欲求とひとたりとも変わらない真理の欲求とでも云おうか。
でもなぁ・・今年の冬は猛烈に寒く、今も寒いけど日増しに昼間の外気は温かくなり太陽も軟らかな光に変化し、一昨日まで固かった椿の蕾も今日花開いたように時間軸の上ではどうすることもできず変化し、悩みなどのこともふわふわと漂っているような感覚さえする。