後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

間違いなく面白くない内容の記事

2018年02月21日 | 日記・エッセイ・コラム
来る日も、来る日も、私はつまらない記事を書いています。読んで下さる方々へ感謝しながら書いています。読んで面白いと感じ、少しばかり幸せな気分になるようなものを書く努力をしています。
毎日、毎日、このような苦心をしていると疲れてしまいます。
そこで今日は皆様が面白がるか否かという心配を忘れ、自分、個人の興味で書きたいことを書いてみたいと思います。私の個人的な思い出を書いてみたいと思います。間違いなく面白くない内容の記事になると思います。

私の父方の祖父は兵庫県の宝塚から能勢電鉄で入った山の村落のお寺の住職をしていました。
それは曹洞宗の正林寺というお寺でした。その祖父は戦前に亡くなり、父の弟が後を継ぎました。その祖父の戒名は高天秀嶽大和尚といいます。
昭和11年生まれの私は毎年、夏になると一家でそのお寺に帰省し、お寺の暮らしを体験しました。

1番目の写真がそのお寺の鐘楼を見上げた光景の写真です。正林寺のHPからお借りした写真です。
お寺の暮らしが珍しい上に、お盆には施餓鬼供養という一大イベントを毎年見ました。
近隣のお寺から多くのお坊さんが集まって、本堂でお経を唱和し、そして銅鑼を鳴らしながら輪になって歩き回るのです。
そして叔父の住職さんと一緒に小坊主の法衣を来て、村落の一軒、一軒を回り、お盆のお経を詠んだのです。
この体験は私の少年の頃の重要な宗教的体験でした。
その後成長していろいろな本を読みました。
そして日本の隠れキリシタンの歴史に感動し、35歳の時カトリックになったのです。この洗礼の決心をした時、少年の頃の私の重要な宗教的体験が非常に役に立ったと思っています。不思議ですが、私は仏教的な宗教体験のお陰で洗礼を受けることに抵抗感が無かったのです。
それ以来47年、毎週のように日曜日にはミサに参加しています。

私のカトリック信仰の内容を考えてみると、仏教の影響を深く受けていることに気がついています。
そもそも1549年にザビエルがカトリックを持ち込んで以来、数々の宣教師が日本の文化的土壌を重視し、現地順応主義をとりました。戦国時代末期に長く日本で活躍したヴァリアーノ神父も順応主義でした。
当然のことながら日本のカトリックの信仰の内容はヨーロッパや南米のものとは違います。
教理や教義は世界共通ですが、信じる人々の心の動きが違うのです。国々によって文化的な土壌が違うので自然にそのようになります。
宗教を信じる人の心の動きは時代によっても変化します。

そこで一例として、日本が中国から道教の庚申塔信仰を受け入れた場合の変化をいろいろ調べてみました。そして以下の連載記事を書いてきました。

日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(1)信仰の種類や宗派には優劣が無い(2013年12月18日 )
日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(2)日本にあるキリスト教には排他性が無い
日本のキリスト教と庚申塔信仰の間(3)日本にある中国の道教起源の信仰
そして上の連載内容の補足として以下の記事も書きました。
「庚申信仰の時代による変遷」(2013年12月21日 )
「今よみがえる70年前の懐かしい光景・・・そしてあなたの幼少時の光景は?」(2013年12月21日)

以上の考察によって明らかになったことは道教が日本に入るとその信仰内容が時代の経過とともに変化し、仏教的になることです。そして神道とも混淆します。
異なった宗教の習合や混淆はどこの国でも起きますが、日本のそれは程度が激しいように思われます。そして大乗仏教的になるのです。神仏混淆も普通です。

このような文化的土壌のある日本ではキリスト教も例外ではありません。
教理や教義は変更しませんがその信仰内容が以下のように変化しています。
(1)先祖崇拝を否定しない。
(2)仏教的文化土壌に根着くためにはキリスト教の排他性を弱める。
しばしば欧米人を非難するために、多くの日本人は、「キリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言います。
しかしこの言い方は雑過ぎます。「十字軍が活躍した中世のヨーロッパのキリスト教は排他的で、戦争の原因になっている!」と言い直すべきです。
そして判ったような顔をして、「そもそも一神教は排他的だ。だから戦争の原因になる!」と断言する日本人もいます。
これも比較文化人類学的に考えると雑過ぎます。「そもそも民族というものは排他的なのです。だから他民族と戦争をする」と言い直すべきです。
イエス様の教えたことは愛と平和の重要性でした。

ついでに書きたいことがもう一つあります。よく受ける質問です。
「私だけが洗礼を受けると先祖はみな地獄に行くのですか?子供が洗礼を受けたがりませんが、やはり地獄へ落ちるのですか?」
私は確信して答えます。「神様の愛は人間が想像出来ないくらい大きいのです。先祖様のことも子供のこともすべて神様に任せなさい。神様やイエス様は絶対に悪いようにはしない筈です。」
そして、こんな質問も受けます。「洗礼を受けたら仏式のお葬式や法事には出られなくなりますか?」
私の答えは簡単です。「従来通り出て下さい。欠席して親類や友人、知人の心を傷つけてはいけません」。
イエス様の教えたことは愛と平和なのです。
ここまでこの詰まらない記事をお読み下さった方々へ深く、深く感謝します。

挿絵代わりに写真として私の好きな鎌倉の円覚寺の風景写真を3枚お送りします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

3枚の写真は鎌倉の円覚寺の風景です。出典は、http://www.engakuji.or.jp/gallery/です。




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