後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「パリの寸描、その哀歓(12)規則に反して給食を申し込む」

2017年02月18日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
この欄ではいろいろな方々に原稿をお願いして記事を書いて頂いています。
今回はフランスやドイツに長く住んで子育てを経験したEsu Keiさんに寄稿を頼みました。ご主人の仕事のため1974年から1984年の間滞在しました。日常の生活で感じたことを飾らず素直な、そして読みやすい文章で綴ったものです。
第12回は小学生の息子の給食を申し込んだ時の話です。
共働きでないので規則では給食は許されません。しかしその時の校長と市役所の担当者の対応が面白いのです。
何というか、いかにもフランスらしい融通無碍なやり方で給食が許可になりました。子供が喜んで給食を食べられるようになりました。
これが、規則を厳守するドイツではこうは行かなかったと思います。フランス文化がドイツや他の国の文化と非常に違うことを暗示している興味深い随筆です。
挿し絵のポール・ゴーギャンの油彩と共にフランス文化の一端をお楽しみ下さい。
===「パリの寸描、その哀歓(12)給食を申し込む」Esu Kei著======
 長男は1年生から3年生に進級した時に、学校で給食を食べられるようにと考えた。それは一年生の担任だったアリワット先生の言葉がきっかけだった。「外国語が母国の場合、高学年になるにつれてフランス語のハンディは大きくなります。」という言葉だった。長男が家で昼食を食べなくても、幼稚園に行っている次男も夫も家で昼食をとるので、主婦としての手間は同じことなのだ。ただ、勉強のレベルがだんだん上がってくると、フランス語の語彙の貧しさは勉強のハンディになる。子どもの頭には日本語が第一の言葉として刷り込まれている。家では家族で日本語で話している。読む本はほとんど日本語である。私たちは敢えて日本語を重視してきた。日本人として、子ども達の文化の源に日本語が揺るぎなく入ることが大事だと思われた。それでも、3年生になって、もう日本語がしっかり入っているということ、しばらくはフランスの学校でやっていかなければならないということから考えてフランス語の理解をと思ったのだ。勉強のできる子である必要はないが、勉強についていけなければ子どももつらいだろう。
私が働いていないので、給食は食べられないのかどうか、もう一度確認しようと校長先生に面会を申し込んだ。昼食に帰って日本語の時間が割り込むことで、フランス語の進歩が阻害されると思うという私の考えに、校長先生も同感だと言われた。「私が許すことはできないので、市の教育課に行って相談してごらんなさい。校長の考えも同じだと言っていいですよ。」と言ってくださった。早速市役所に行って相談した。女性職員の「そういうことなら、給食を食べられるようにしましょう。」の一言であっさり許可になった、と思ったらそのあとの画策があった。「給食は両親共働きの家庭の子どものためのものと決められているのです。あなたがご主人の会社で働いていることにしてはどうでしょう。それが一番簡単で早いやり方です。」「私は労働許可証を持っていないけれど、そういう届けを出して大丈夫でしょうか?夫にも影響したりしませんか?」「これは教育課だけの問題ですから、ほかに漏れる心配はありません。子どもの教育を真面目に考えてすることです。それに実際悪いことをするわけでもないし、フランス人の労働市場を奪う訳でもないのですから心配は無用です。」ということで、私が夫の会社で通訳として働き、2000フランの給料を稼いでいるという筋書きを彼女は提案し、私がそれでいいと言うと書類に書き入れてくれた。給食費は家庭の収入によって7段階に分かれているが、日本人は満額払うので、税金に負担をかけることもない。これで解決。夫に話すと「フランスらしくいい加減だなぁ。日仏の通訳なら、日本人にしかできないからということで闇労働にはならないよ。英仏の通訳なんかはバレるとまずい」と笑っている。「私が英語のえの字もできないの知ってるでしょ」それにしてもイイ加減はいい(良い)加減だなぁと思う。
ただ、ずっと後になってちょっと気になることもあった。たとえば我が家の収入が最低の給食費しか(最低とは無償と言うことだろうか)払えなかったら同じ解決方法を提案されただろうかとちょっと疑問が残る。というのは4年生で同級だったカルロス君は昼に両親も誰もいない家に一人で帰ってパンを食べて戻ってくるという。昼の送り迎えもないようだ。おそらくはお母さんが働いているという証明を提出できない事情があるのだろう。こういう子どもにこそ給食が出されなければいけないと思うのだが…(続く)


今日の挿し絵代わりの写真はポール・ゴーギャンの油彩です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン( Eugène Henri Paul Gauguin 1848年 - 1903年)は、フランスのポスト印象派の画家。
1888年、ゴーギャンは、南仏アルルに移っていたゴッホの「黄色い家」で、9週間にわたる共同生活を送った。しかし、2人の関係は次第に悪化し、ゴーギャンはここを去ることとした。
12月23日の夜、ゴッホが耳を切る事件が発生した。ゴーギャンの後年の回想によると、ゴッホがゴーギャンに対しカミソリを持って向かってくるという出来事があり、翌日、ゴッホはアルルの病院に送られ、ゴーギャンはアルルを去った。
2人はその後二度と会うことはなかったが、手紙のやり取りは続け、ゴーギャンは、1890年、アントウェルペンにアトリエを設けようという提案までしている。
1890年までには、ゴーギャンは、次の旅行先としてタヒチを思い描いていた。1891年2月にパリのオテル・ドゥルオーで行った売立てが成功し、旅行資金ができた。
コペンハーゲンの妻と子どもたちのもとを訪れてから(これが最後に会う機会となった)、その年の4月1日、出航した。
その目的は、ヨーロッパ文明と「人工的・因習的な何もかも」からの脱出であった。とはいえ、彼は、これまで集めた写真や素描や版画を携えることは忘れなかった。
タヒチでの最初の3週間は、植民地の首都で西欧化の進んだパペーテで過ごした。パペーテでレジャーを楽しむ金もなかったので、およそ45キロメートル離れたパプアーリにアトリエを構えることにして、自分で竹の小屋を建てた。ここで、タヒチ時代で最も評価の高い作品を描いている。
ゴーギャンは、タヒチの古い習俗に関する本を読み、アリオイという独自の共同体やオロ (神)についての解説に惹きつけられた。そして、想像に基づいて、絵や木彫りの彫刻を制作した。・・・・
以下は、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 にあります。

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