さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

花山院菩提寺

2016-12-07 23:23:05 | ただの日記
播州清水寺を後にし、同じタクシーで西国番外札所となっている花山院菩提寺へ向かう。

花山院というと、当ブログをご覧になるほとんどの方があまりよいイメージを持っていないのではないかと思うし、私も実はそうで、ありがたがる存在としては???なところがあったであるが、ここに来ることでそのイメージを払拭できた。

大鏡に書かれている、藤原兼家の陰謀により、だまされて出家・退位するエピソードは、古典学習の格好の教材になっている他、退位・出家した後も、恋人のところに通っている時に、藤原伊周が同じ屋敷に住んでいる伊周の恋人のところに来たと勘違いされて矢を射かけられる事件は、藤原伊周が失脚し、藤原道長が権力を盤石のものとした事件として、日本史などで習う話である。政治家としての資質もなく、出家したのに女と遊んでいるなど、正直ロクでもない印象しか持っていなかった。

しかし花山法皇はこの事件の後、本当にまじめに仏道に励むことになるのである。西国三十三所の観音霊場は奈良時代に長谷寺の開基である徳道上人が62歳で一旦亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、巡礼によって人々を救うようにと三十三の宝印を授かり現世に戻され、霊場を定めたことに始まると伝えられる。しかし徳道上人の頃は霊場として定着せず、法院も摂津国の中山寺の石櫃に納めたまま上人は亡くなってしまう。その約270年後に花山法皇が那智山で参籠していた折、熊野権現より徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を受け、三十三所を再興して回ったというのである。

実際には花山院が崩御された後に出来た札所(善峯寺)もあることから、院政期の観音信仰の隆盛や熊野詣などを経て、三十三所が固定化し、東国からの俗人も交えて民衆化するのは15世紀半ばを下る時期ではないかと言われている。

ただ、花山院が観音霊場中興の祖と仰がれているのも事実であり、霊場再興を成し遂げた後もこの地で仏道修行に励み、41歳の若さで崩御されたとのこと。


この花山院菩提寺も阿弥陀が峰という山の上にあり、タクシーはかなりキツイ勾配の坂道を登っていく。運転手さんによると、ここは霧がよく出るんだそうで、でも霧の出る日は晴れるんだ・・なんて言う話をしていた。


タクシーから出た私を待っていたのは、今回の旅行で最大級ともいえる絶景だった。


それこそ、霧の朝なんかに見たら、有馬富士が海に漂う島のように見え、その幽玄の景色がこの世の疲れをいやし、誰の心にも仏心を呼び起こすであろうと思われる。


ここはもともと花山院が来られる前からあったお寺で、例の伝説のスーパーインド僧法道仙人の開かれた地でもある。三十三所めぐりもあと1カ所残すのみであるが、ここでもう一度巡礼の意味を考え直すのもよいことだと思う。


花山院の供養塔を拝しつつ、いままで悪いイメージを持っていてごめんなさいと頭を下げる。


絶景に心洗われてタクシーに戻り、新三田へ向かう途中にちょっとした事件が起こった。

話に夢中になっている間に、運転手さんがスピードを出し過ぎてしまったのである。

真後ろでワ~とパトカーの音が聞こえて、慌てて運転手さんが車を止めると、警官が2名やってきて「お兄さん・・スピード出しすぎですよ」と。言葉は丁寧だが、語調は厳しい。

車を運転しない私は、スピード違反で捕まるってこういうことなのかと初めて知る。

いまお客さんを乗せてるから新三田駅前まで行かせてくれ・・・ということで、ずっとパトカーについてきてもらった。


私は駅前で降ろしてもらったが、運転手さんはあのロータリーで尋問を受けてるんだろうなぁ。私が払ったお金の何倍かの罰金を取られてるんだろうか・・、色々教えてくれた優しい運転手さんだったのに・・・と心が痛む。
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1 コメント

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花山院は (リンデ)
2016-12-26 11:24:48
 退位の事情が「大鏡」で有名ですし、歌人、歌壇の庇護者としても、古典の世界では大物です。
 勅撰和歌集の3つめ、拾遺和歌集には拾遺抄という異本関係にある2つの版があるのですが、拾遺和歌集は「親撰」(天皇自ら選んだ)のではないかと言われています。
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