さぶりんブログ

音楽が大好きなさぶりんが、自作イラストや怪しい楽器、本や映画の感想、花と電車の追っかけ記録などをランダムに載せています。

古道散歩:深大寺城跡

2017-11-11 23:51:32 | ただの日記
いよいよ待ちに待った深大寺城跡だ。

深大寺城は、扇谷上杉氏の家臣だった難波田弾正(なんばだだんじょう)が築いたお城。扇谷朝興(おうぎがやつともおき)は居城であった江戸城を北条氏綱に奪われてしまい、河越城を起点に巻き返しを図ろうとするが、志半ばで没する。跡をついだ朝定はまだ少年。扇谷家中は、家臣の難波田弾正を派遣して、この地に江戸城を奪回のための基地を作ることにしたのだ。

このあたりは、多摩川によって削られた河岸段丘:国分寺崖線が走っており、低地部には湧水スポットが多い。さっき見学してきた厳島神社もそうであるし、これから行く予定の深大寺もそうだ。この豊かな湧水のおかげで、扇谷軍をそっくり深大寺城に収容した場合も飲み水に困らない。

しかし実際には、北条はこの城には目もくれず、河越城を直接攻めたため(河越夜戦)、難波田弾正も主君の扇谷朝定も討ち死にしてしまう。深大寺城は一度も戦に使われることなく、廃城になってしまった。

しかし、それゆえに後世の手が入らず、当時の築城技術を知ることが出来る、貴重な遺跡になっているのだ。


ということで、実にいい天気。スマホの電池もなんとか持ちこたえそうだ。深大寺参道を通らずに、脇にある神代植物公園へ。


深大寺城跡はこの公演を通って入っていくのである。


まるで尾瀬ヶ原のような湿地帯だ。この湿地帯が、深大寺城にとっては逆に強力な守りになっていたのだ。


あ~、なんか絵になる光景。ここでぼーっと浸っていたい気分もするが、そういうわけにもいかず、みんなについて行く。


講師の先生がいつも使っている橋が壊れていて、別の入口を探して城へ上る。


湿地帯からしばらく登ったところが第一郭(くるわ/曲輪、後世の本丸に当たる)。

普通、本丸は一番大事なところだから奥まったところにあるが、我々が登ったルートは湿地帯から登るルートなため、昔はまず来ないルートなのである。


第一郭のあるところは、現在はかなり草深い。


写真だけ見ると、ただの山の中にしか見えないよね。


でもちゃんと土塁と、


空堀がある。


第二郭(二ノ曲輪)との境目の空堀は下草を刈ってあってきれいになっている。当時はもっと鋭く薬研堀にしていたはずだ。一般的にこういう空堀を見る時は、長い年月で、人間の身長ぐらいは底が埋まってしまっていることを考慮した方がよいと聞く。


うん、確かにこの空堀や、今自分が立っている土橋は復元されたものであることが書かれている。


ということはこの土塁も手が入っていそうだな。でもきれいになっているので、ちょっと登ってみよう。

う~ん、階段を上り下りするのとは違う筋肉を必要とするようである。特に足首やふくらはぎの両脇の筋肉に刺激を感じるなぁ。

こういう地形を上り下りしていると、足首がきゅっと締まった足になるのではなかろうか。今から考えれば、いったん空堀に入ってから土塁に上がってみればよかったが、いままでさんざん歩いてきたので、そんな元気はなかった。


でも遠くにパンパスグラスを見つけて、そこに飛んでいく元気はあったんだよな~。(そんなことやってんの私だけだったけど。)


これは当ブログに既出のパンパスグラス。お城よりワクワクしてしまったのは事実。


色々石が置いてあるのが、発掘された柱の跡を示しているそうだ。


それにしても、深大寺も、その周りの蕎麦屋もものすごく混んでいるのに、深大寺城には我々のパーティ以外はいないのであった。

見学できるのは第一郭と第二郭だけ。第三郭はテニスコートになってしまっている。

リア充の人達がテニスしてますよ・・・などと鼻で笑いながら城址を降りてたところに、そのテニスコートで行われているテニススクールの案内板があり、テニスなんか興味のないはずのオタク集団がなぜかそれを見て大いに沸いたのである。


最近はテニスの話題よりも、気象現象との絡みでとかく話題になる松岡修造氏がここのテニススクールの出身だということである。

人気ありますなぁ~修造氏は。

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古道散歩:柴崎駅~青渭神社まで

2017-11-11 05:54:20 | ただの日記
先日行った、古道散歩セミナー。内容が濃すぎて、どっからどう書いていいかわかんないんだけど。。。

でも書かないでいるのはもったいないので、ほとんど備忘録的になるかもしれないけど、書いてみよう。


柴崎駅に集合して、深大寺城や深大寺まで歩くコース。私はもちろん深大寺城目当てだけどね。


朝10時に柴崎駅集合。休日の朝としては早起き。途中京王線が7分ほど遅れて焦る


各自イヤホンをもらって、オレンジ色の服を着た先生についていく。私は足が悪いので、置いて行かれないようになるべく先頭集団にいるようにした。


神代を冠したものが目に付く。

深大寺の名前は、中国の水神「深沙大王」(じんじゃだいおう)に由来すると言われるが、深大→神代と変化したものであろう。


サトイモ畑の向こうの敷地が急に斜めになっている。ここは昔、京王線が走っていたところの跡地らしく、その関係で、区画が斜めになっているとか。


深大寺の白鳳時代の仏像が国宝になったことを記念する展示があるようである。


引き続き鎌倉道を歩いていくと、向こうに「十王坂」の表示石がある。坂上の東側に以前十王堂があったことを示している。十王堂は義経一行が陸奥に落ちる時に立ち寄り、ここで前途の無事を祈ったと伝えられるところだが、現在は少し離れた金龍寺というところに移転されているとか。


柴崎稲荷に向かう途中、古いコンクリの壁があった。う~ん、なんか手前に傾いているようで危なっかしいですね・・という声にすかさず、この工法は今は使われていない・・・昭和中期あたりのものだろうと答える人がいる・・・。あ~猛烈にマニアックな集団だ。私はついて歩くので精一杯。


柴崎稲荷到着。柴崎氏の館址と伝わるが、江戸氏系の柴崎氏なのか、武蔵七党の柴崎氏なのか詳細不詳だという。


とはいえ、石段を登るとそれなりに雰囲気のあるところだ。


ちゃんとお参りもする。


榛名神社のお札もあり、古くより山岳信仰の拠点となっていたらしいとのこと。


こちらのアングルから見た社殿も風格がある。


鎌倉道の反対側には厳島神社がある。


ここは湧水ポイントで、古人が弁財天を祀った。義経と弁慶が訪れ、池の水で写経をしたという伝承がある。この上に前述の十王堂があったという。


神社の案内に、何故か義経の話は書いてない。


狛犬に何となく味がある。低い位置にあるので、ホントにワンちゃんみたいで。


目ざとく北条氏の家紋があることに気付く同行のメンバー。マニアックな人達だから、北条の家紋ぐらい知ってて当たり前なのだ。

ただこの家紋が古いものではなく、賽銭箱や手水場などの新しいものの上に描かれていることが個人的には気になるのだが。

あと、頭の中に描いている三角形より縦に長い三角形だなと思って調べてみると、縦長(つまり全体が正三角形)の家紋は執権北条氏。横に長いのは戦国時代の後北条氏だ。

う~ん、ますます分からなくなったぞ。ちなみにサイトで色々調べてみたが、この厳島神社と北条氏のつながりについて書いてあるものは見つけられなかった。
案外、明治屋かもしらんし・・などと書いたら怒られるかな。


大木の根元に江戸時代の庚申塚がある。


再び鎌倉道を歩いていると、途中、脇に暗渠道があった。

「暗渠好きな人は、どうぞ上を走って戻ってきてください」などと言われる。ううう~ん、世の中に「暗渠好き」というジャンルの人がいたことを初めて知る。


鎌倉道から深大寺道へ曲がるところに馬頭観音の石碑がある。


この馬頭観音は目の前の交差点の真ん中あたりに立っていたらしいが、昭和54年に道路の拡張とともにここに移され、馬頭観音の下に眠っていた馬の骨と一緒にこの石碑の下に埋めたとのこと。観音様を埋める・・という発想はないのだが、よほど傷んでいたんだろうか。馬頭観音そのものが、この場所で死んだ馬や馬捨場に多く祀られ、動物への供養塔としての意味合いが強いことから、ここの馬頭観音もそうだったのかね。何せ鎌倉道ですから、古来沢山の馬が通ったことであろう。

で、ここで調べてまたびっくりしたんだが、馬捨場のこと、「芝先」っていうんだね。


江戸時代の道しるべがあった。1792年造。左へ行くと深大寺道。右へ行くと、おおさわ道。

何と、ここで私のスマホのバッテリーが残り少なに。一番行きたい深大寺城で写真が撮れなかったら困るではないか・・となるべくOFFにして写真を撮らないようにセーブ。


ずっと歩いて青渭神社へ。延喜式に同名の神社が書かれているが、稲城市と青梅市にもあるため、それぞれが主張しているという。


境内の大ケヤキにはさすがに風格がある。


青渭社とちょっと離れたところにある虎狛社は江戸名所図会にも載っているというが、こちらも、青梅市にセットで同名社があるというからややこしい。色々あるだろうが、神社自体は大変素敵で、落ち着きのあるたたずまいに心を癒された。

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