いよいよ待ちに待った深大寺城跡だ。
深大寺城は、扇谷上杉氏の家臣だった難波田弾正(なんばだだんじょう)が築いたお城。扇谷朝興(おうぎがやつともおき)は居城であった江戸城を北条氏綱に奪われてしまい、河越城を起点に巻き返しを図ろうとするが、志半ばで没する。跡をついだ朝定はまだ少年。扇谷家中は、家臣の難波田弾正を派遣して、この地に江戸城を奪回のための基地を作ることにしたのだ。
このあたりは、多摩川によって削られた河岸段丘:国分寺崖線が走っており、低地部には湧水スポットが多い。さっき見学してきた厳島神社もそうであるし、これから行く予定の深大寺もそうだ。この豊かな湧水のおかげで、扇谷軍をそっくり深大寺城に収容した場合も飲み水に困らない。
しかし実際には、北条はこの城には目もくれず、河越城を直接攻めたため(河越夜戦)、難波田弾正も主君の扇谷朝定も討ち死にしてしまう。深大寺城は一度も戦に使われることなく、廃城になってしまった。
しかし、それゆえに後世の手が入らず、当時の築城技術を知ることが出来る、貴重な遺跡になっているのだ。
ということで、実にいい天気。スマホの電池もなんとか持ちこたえそうだ。深大寺参道を通らずに、脇にある神代植物公園へ。
深大寺城跡はこの公演を通って入っていくのである。
まるで尾瀬ヶ原のような湿地帯だ。この湿地帯が、深大寺城にとっては逆に強力な守りになっていたのだ。
あ~、なんか絵になる光景。ここでぼーっと浸っていたい気分もするが、そういうわけにもいかず、みんなについて行く。
講師の先生がいつも使っている橋が壊れていて、別の入口を探して城へ上る。
湿地帯からしばらく登ったところが第一郭(くるわ/曲輪、後世の本丸に当たる)。
普通、本丸は一番大事なところだから奥まったところにあるが、我々が登ったルートは湿地帯から登るルートなため、昔はまず来ないルートなのである。
第一郭のあるところは、現在はかなり草深い。
写真だけ見ると、ただの山の中にしか見えないよね。
でもちゃんと土塁と、
空堀がある。
第二郭(二ノ曲輪)との境目の空堀は下草を刈ってあってきれいになっている。当時はもっと鋭く薬研堀にしていたはずだ。一般的にこういう空堀を見る時は、長い年月で、人間の身長ぐらいは底が埋まってしまっていることを考慮した方がよいと聞く。
うん、確かにこの空堀や、今自分が立っている土橋は復元されたものであることが書かれている。
ということはこの土塁も手が入っていそうだな。でもきれいになっているので、ちょっと登ってみよう。
う~ん、階段を上り下りするのとは違う筋肉を必要とするようである。特に足首やふくらはぎの両脇の筋肉に刺激を感じるなぁ。
こういう地形を上り下りしていると、足首がきゅっと締まった足になるのではなかろうか。今から考えれば、いったん空堀に入ってから土塁に上がってみればよかったが、いままでさんざん歩いてきたので、そんな元気はなかった。
でも遠くにパンパスグラスを見つけて、そこに飛んでいく元気はあったんだよな~。(そんなことやってんの私だけだったけど。)
これは当ブログに既出のパンパスグラス。お城よりワクワクしてしまったのは事実。
色々石が置いてあるのが、発掘された柱の跡を示しているそうだ。
それにしても、深大寺も、その周りの蕎麦屋もものすごく混んでいるのに、深大寺城には我々のパーティ以外はいないのであった。
見学できるのは第一郭と第二郭だけ。第三郭はテニスコートになってしまっている。
リア充の人達がテニスしてますよ・・・などと鼻で笑いながら城址を降りてたところに、そのテニスコートで行われているテニススクールの案内板があり、テニスなんか興味のないはずのオタク集団がなぜかそれを見て大いに沸いたのである。
最近はテニスの話題よりも、気象現象との絡みでとかく話題になる松岡修造氏がここのテニススクールの出身だということである。
人気ありますなぁ~修造氏は。
深大寺城は、扇谷上杉氏の家臣だった難波田弾正(なんばだだんじょう)が築いたお城。扇谷朝興(おうぎがやつともおき)は居城であった江戸城を北条氏綱に奪われてしまい、河越城を起点に巻き返しを図ろうとするが、志半ばで没する。跡をついだ朝定はまだ少年。扇谷家中は、家臣の難波田弾正を派遣して、この地に江戸城を奪回のための基地を作ることにしたのだ。
このあたりは、多摩川によって削られた河岸段丘:国分寺崖線が走っており、低地部には湧水スポットが多い。さっき見学してきた厳島神社もそうであるし、これから行く予定の深大寺もそうだ。この豊かな湧水のおかげで、扇谷軍をそっくり深大寺城に収容した場合も飲み水に困らない。
しかし実際には、北条はこの城には目もくれず、河越城を直接攻めたため(河越夜戦)、難波田弾正も主君の扇谷朝定も討ち死にしてしまう。深大寺城は一度も戦に使われることなく、廃城になってしまった。
しかし、それゆえに後世の手が入らず、当時の築城技術を知ることが出来る、貴重な遺跡になっているのだ。
ということで、実にいい天気。スマホの電池もなんとか持ちこたえそうだ。深大寺参道を通らずに、脇にある神代植物公園へ。
深大寺城跡はこの公演を通って入っていくのである。
まるで尾瀬ヶ原のような湿地帯だ。この湿地帯が、深大寺城にとっては逆に強力な守りになっていたのだ。
あ~、なんか絵になる光景。ここでぼーっと浸っていたい気分もするが、そういうわけにもいかず、みんなについて行く。
講師の先生がいつも使っている橋が壊れていて、別の入口を探して城へ上る。
湿地帯からしばらく登ったところが第一郭(くるわ/曲輪、後世の本丸に当たる)。
普通、本丸は一番大事なところだから奥まったところにあるが、我々が登ったルートは湿地帯から登るルートなため、昔はまず来ないルートなのである。
第一郭のあるところは、現在はかなり草深い。
写真だけ見ると、ただの山の中にしか見えないよね。
でもちゃんと土塁と、
空堀がある。
第二郭(二ノ曲輪)との境目の空堀は下草を刈ってあってきれいになっている。当時はもっと鋭く薬研堀にしていたはずだ。一般的にこういう空堀を見る時は、長い年月で、人間の身長ぐらいは底が埋まってしまっていることを考慮した方がよいと聞く。
うん、確かにこの空堀や、今自分が立っている土橋は復元されたものであることが書かれている。
ということはこの土塁も手が入っていそうだな。でもきれいになっているので、ちょっと登ってみよう。
う~ん、階段を上り下りするのとは違う筋肉を必要とするようである。特に足首やふくらはぎの両脇の筋肉に刺激を感じるなぁ。
こういう地形を上り下りしていると、足首がきゅっと締まった足になるのではなかろうか。今から考えれば、いったん空堀に入ってから土塁に上がってみればよかったが、いままでさんざん歩いてきたので、そんな元気はなかった。
でも遠くにパンパスグラスを見つけて、そこに飛んでいく元気はあったんだよな~。(そんなことやってんの私だけだったけど。)
これは当ブログに既出のパンパスグラス。お城よりワクワクしてしまったのは事実。
色々石が置いてあるのが、発掘された柱の跡を示しているそうだ。
それにしても、深大寺も、その周りの蕎麦屋もものすごく混んでいるのに、深大寺城には我々のパーティ以外はいないのであった。
見学できるのは第一郭と第二郭だけ。第三郭はテニスコートになってしまっている。
リア充の人達がテニスしてますよ・・・などと鼻で笑いながら城址を降りてたところに、そのテニスコートで行われているテニススクールの案内板があり、テニスなんか興味のないはずのオタク集団がなぜかそれを見て大いに沸いたのである。
最近はテニスの話題よりも、気象現象との絡みでとかく話題になる松岡修造氏がここのテニススクールの出身だということである。
人気ありますなぁ~修造氏は。