たかはしけいのにっき

理系研究者の日記。

同じものをじっと観つめることの意義

2017-01-19 01:20:53 | Weblog
 思考力を高める目的が、視点を高くしてあらゆる情景を俯瞰することで周囲を先導するためだとしたら、それに多くの時間を費やすような人生は私には虚しく感じる。

 確かに、思考力があれば、どんな木にも登ることができるかもしれない。どんな頂きがあっても、そこまで行って、座りこんで、そこから見える景色を楽しむことができるだろう。
 だけどそれは、小さい事柄の中にとても楽しいことが存在するかもしれない可能性を忘れてしまっている。ずっと同じものを観ていなければ気がつかないことは案外多いのだ。そう、、学部の物理学を理解していれば、化学や生物学、そして世界史なども、きっと簡単に理解できてしまうのだろう。それは認める。重要なところだけを把握するのには困らないのかもね。でも、それで他の分野もマスターするのは余裕だと決めつけて、そこに興味を失ってしまうのは、いささか勿体無いんじゃない?
 だって、それって、小説の冒頭だけを読んで、すべてがわかった気になっているのと、何が違うの?別に10年くらい同じものをじっと観ていることの意義は、あるんじゃない??

 当たり前だと思っている事柄のなかに価値観の限界がある。
 この言葉は、格言として、常に心に刻むべきなのかもしれない。

 たとえ全体が間違った方向に進んでしまうのだとしても、そこで得られることって、絶対にあると思うの。それに対して、視点の高い人間が勝手に俯瞰した結果としての価値観を、"そんな無駄なことをして"って押し付けてしまうのは、果たして本当に聡明なのかしら?
 そもそも、思考力が高ければ高所に行けるからそこから見下ろすことで正しい価値観を生むことができるはず、なんて少年ジャンプの価値観で小学生男子の発想。莫迦と煙は高いところが好き、ってね。どんなに思考力を高めても、幸せになれなかったら意味が無いし、、だいいち、高いところから情景を見下ろすという目的だけに立ったとしても、それは滑稽。だって、ずっとリンゴの木(と月)を観ていなかったら、運動方程式は発見できない。運動方程式を知らなかったら、宇宙から地球を見下ろすことはできないんだから。

 そもそも、思考力を高めるという行為も、自己目的化された行為なのだ。理由は無い。
 日々研究。日々勉強。いつまでも満足しないで、あくなき探究を続けるのって、楽しい!

 でも、、満足しないことを"これでいいんだ"って後天的に理解してるから、いつまでも幸せになれないのかも。
 そして、多くの研究者も、幸せにはなりにくいのかもしれないね。
コメント
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