写楽爺の独り言

写真好き爺の撮った写真の
紹介をメインにしています

法明寺 No1

2019年03月29日 | 神社仏閣
24日墓参りの帰りに寄った東京都豊島区南池袋にある『法明寺』です.

法明寺は弘仁元年(810年)真言宗の威光寺として開創され、後の正和元年(1312年)
日蓮宗に改宗して、『威光山法明寺』と寺号を改め現在に至ります。
関東大震災で本堂が倒壊、昭和に入っ再興されるも戦災で焼失してしまい
昭和34年に本堂がさらに昭和37年客殿庫裡を竣工し昭和43年に鐘楼ならびに
山門が復興されました。

法明寺参道には桜があり江戸時代から桜の名所となっていたそうですが、
この日は東京で開花宣言が出て3日目ぐらいで満開にはまだまだでした。

 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10) 山門を入って参道側を見た構図


 (11) 


 (12) 法明寺本堂


 (13)


 (14)


 (15) 鐘楼 鐘楼は昭和に復興されましが、梵鐘は享保十七年(1732年)に再鋳されたものです


 (16) 


 (17)



雑司ヶ谷 鬼子母神

2019年03月27日 | 神社仏閣
3月24日にお墓参りで都内に出かけたので墓参り後にチョコッと散歩してきました。
池袋駅から徒歩十数分で行ける「法明寺」と「雑司ヶ谷 鬼子母神堂」です。
今日は「雑司ヶ谷 鬼子母神堂」を紹介します。

「雑司ヶ谷 鬼子母神堂」は室町時代(1561年)に地中より掘り出された像を清め、
東陽坊と言う寺(後に大行院と改称、その後法明寺に合併)に納めたと言われています。
信仰が盛んとなり安土桃山時代(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた現在地に堂が
建てられたのが始まりで江戸時代に現在の堂が建立され、昭和に解体復元の大修理が
行われて国指定重要文化財となりました。

鬼子母神はインドで訶梨帝母とよばれ、夜叉神の娘で多くの子供を産みましたが、
暴虐で近隣の幼児をとって食べるので人々から恐れ憎まれてました。
お釈迦様はその過ちから訶梨帝母を救おうとその末の子を隠して子を失う事の悲しみ教え、
帝母はこれまでの過ちを悟りお釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となりました。

ここの鬼子母神像は、鬼形ではなく吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しい姿をしている
そうで、ここの鬼子母神の『鬼』の字は、上部の角(ツノ)の無い字が使われています。

 (1) 鬼子母神堂 


 (2) 



 (3)  鬼の字には角のが無い字が使われている



 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 鬼子母神像


 (8) 神木の大イチョウ




 (11) 武芳稲荷堂(たけよしいなりどう)



 (12)



 (13) 妙見堂    鬼子母神堂と背中わせの様にあります


 (14) 





庭の椿 No2 【蕾から開花まで】

2019年03月25日 | 自宅での撮影(花等)
自宅庭の椿、2月に入ってから撮り始めました。
3月に入って数輪開花しましたが暫く開花は増えませんでした。
今週になってから花数が増えて来ましたが、いまだ満開になっていません。

 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 


 (12) 


 (13)


 (14)


 (15)


 (16) 


 (17)


 (18) 



庭の椿 No1 【蕾】 

2019年03月22日 | 自宅での撮影(花等)
例年撮り続けて来ている庭の八重の椿。
今年は2月初旬から撮り始め3月に入って数輪が開花しました。
現在は蕾の先が赤く膨らみ、もうじき開花すると思われるのが多い状態です。

雨の日に水滴を撮ろうとした時、椿の木にしか水滴が付いてなくて
水滴と椿の競演となりました。

 (1) 


 (2)



 (3) 


 (4) 


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10) 


 (11) 


 (12) 


 (13) 


         ※ 次回に蕾から開花までです。

智光山公園の花など

2019年03月20日 | 花写真
前回までの梅を撮りに行った時にその他の花などを撮ったものです。
 
                       撮影は3月2日

 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 


 (12)


 (13) 


 (14)


 (15)


 (16) 


 (17)


 (18) 



 (19) 梅から駐車場に戻る時、レンズの前を手で隠すような木がありました



智光山公園の枝垂れ梅

2019年03月18日 | 
    前回の紅梅に続き、智光山公園の枝垂れ梅です。

                     撮影は3月2日

 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 


 (12)


 (13) 


 (14)


 (15)


 (16) 


 (17)


 (18) 


 (19)



智光山公園の紅梅

2019年03月15日 | 
  いつもの埼玉県狭山市「智光山公園」の紅梅です。
  神社仏閣などでの梅は建物などを入れてのるが多くなりますが、
  行き慣れた場所では「梅」に的を絞って撮る事が出来ます。
  ここの梅の木は数本ですが結構時間をかけて撮りました。
                      撮影は3月2日

 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4)


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 


 (12)


 (13) 


 (14)



芝公園の梅

2019年03月13日 | 公園庭園など
   この日の都内散歩最後は「芝公園」です。

   「芝公園」は、東京港区にある都立公園です。
   もともとは伊勢神宮の荘園であったり
   その後は増上寺の境内であったりとで都内で
   上野恩賜公園に並び歴史のある公園です。

   また「芝公園」の名称は港区の町名になっていて
   芝公園一丁目から芝公園四丁目まであり増上寺・
   東京タワー・ホテル等の他にも「芝丸山古墳」と言う
   古墳もあります。
                 撮影は2月21日


 (1) 


 (2) 


 (3)


 (4) 


 (5) 


 (6) 


 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 


 (12)


 (13)


 (14)


 (15) 


 (16) 


 (17)


 (18) 


 (19)


 (20)


 (21)


 (22) 


 (23) 



台徳院霊廟惣門と芝東照宮

2019年03月11日 | 神社仏閣
現在の増上寺のすぐ隣に「台徳院霊廟惣門」があります。
かつては増上寺の敷地だったと思いますが現在は、「ザ・プリンスパークタワー東京」の
中なる様です。

「台徳院霊廟惣門」は江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門として建設されました。
このほかの建物の多くは焼失してしまい、勅額門・御成門・丁字門は埼玉所沢「狭山不動寺」に
移築されこの惣門だけがここに残されたそうです。。

 (1) 


 (2) 


 (3) 仁王像 
      元は現在の川口市にあるの西福寺の仁王門にあったものが浅草寺に移された後
      この惣門に安置されたそうです。




「芝東照宮」は家康の法名「安国院殿徳蓮社崇誉道和大居士」より「安国殿」と呼ばれ増上寺内にありましたが、明治の神仏分離令により増上寺から切り離されて「芝東照宮」となりました。

日光東照宮・久能山東照宮・上野東照宮と並ぶ四大東照宮の一つとされています。
社殿は東京大空襲により焼失し昭和44年に再建されたものです。

 (4)


 (5) 


 (6) 



 (7) 


 (8) 


 (9) 


 (10)


 (11) 



増上寺 No2 【境内散歩】

2019年03月08日 | 神社仏閣
「増上寺」No2は頭上寺の境内にある施設です。
かつては二十五万坪の境内に坊中寺院四十八・学寮百数十軒があったと言う事です。
現在はそれほど広くはありませんが幾つかある施設などを紹介します。

日比谷通りに面した東日本最大級を誇る「三解脱門(山門)」は残念ながら
耐震対策工事中で撮る事が出来ませんでした。


 (1) 西向き観音  


 (2)  


 (3) 鎌倉時代北条時頼が観音山(現:東京タワー)に辻堂を建て鎌倉街道(現:六本木方面)に向けて、
      西向聖観世音菩薩像を安置したのが始まりの様です




 (4) 


 (5) 


 (6) 



 (7)  


 (8)



 (9) 徳川将軍家墓所の「鋳抜門」
      拝観冥加料大人500円で中に入る事が出来ますが今回は入りませんでした


 (10) 


 (11) 


 (12) 


 (13) 






 (14) 


 (15) 

 

 (16) 熊野(ゆや)神社  (クマノと呼ぶのが多いですが増上寺ではユヤと読むそうです)
       元和10(1624)年、熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したものです


 (17) 


 (18) 


 (19) 神武東征の際、道案内をしたと言われる八咫烏の図が入っていました


 (20)