Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

決断と無謀ということ

2016年06月03日 22時55分13秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 人間というのは時々とんでもないことをしでかす。私のような取り立てて人に誇れるようなものの無い人生であっても思い切った決断などをする時もある。あと先を考えずにしゃにむに決断することもあるし、いろいろ悩んで決めたこともある。

 今回のウォーキング、私は時々自分の体力の限界を超えて突っ走ることも多々あったので、それほど深刻には考えていなかった。ただ思ったよりはキツイ運動量であった。頭脳よりも体力を頼みに決断することも昔は多かったと思う。このようなとんでもないこと、これが出来るというのは実に楽しい。大げさに言えばこれがあるから人生は楽しいのかもしれない。
 決断というと岐路に立たされた時の難しいことを考えるが、私が思うに、いづれの道を選んだにしても、フォローするのは本人である。どのような決断であってもその決断を最上のものにすることが出来るのが、大人の決断だと私は思う。どちらを選択しても、それをいい方向にもっていくことが大事なのである。そう思えば気分はずいぶん楽になるものである。

 30代の頃、南アルプスなどを縦走していて、少し迂回してもうひとつの山に登るかどうか、よく悩んだものだ。しかしどのような決断をしたとしても、またそれによって当初予定していた山小屋にたどり着けなくとも、緊急のビバークをしたり、それなりに楽しむことが出来た。それができないならば、それは決断ではなく無謀というものである。
 決断というものはどちらの選択をしても処理できる見通しと不即不離ではないか。どちらを選択したとしても傷が最小限になるまでじっくりと時期を待つことも決断の必要な要素ではないか。

 さて今回当初の予定よりも時間もかかり、そして距離も長かった。当初は5万歩で十分橋下にたどり着けると考えていた。それが困難だと判断したのは16時過ぎ。20時まで歩いてその時点でバスに乗るかタクシーに乗るか決断しようと思っていた。

 予定外だったのは突然の雨と旧道の暗さ。地図を見ることもままならなくなり、雨で地図が濡れて余計見にくくなってしまった。そして迷い込んだ新道にはバスが走っていなかった。タクシーもまったく見つからなかった。
 ここに至って今回の計画がずさん過ぎたことを悔いたがもう遅かった。途中でリタイヤするにもバスは通っていない路線に入り込み、雨に降られ、タクシーもつかまらず、ガソリンスタンド以外の見せもない幹線道路でひたすら歩くしかなくなった。これは予想外だったが、ウォーキングである以上これを想定していなかったのはまずかった。反省点である。次回はもう少しキチンとした予定をたてたいものである。

ブラームスのヴァイオリンソナタ全3曲外

2016年06月03日 20時56分15秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 NHKFM放送で竹澤恭子のヴァイオリンでブラームスのヴァイオリンソナタ全3曲を放送していた。ピアノはエドアルド・ストラッビオリ。ヴァイオリニストの竹澤恭子は名前だけは聴いたことがある。しかしピアニストの名は初めて聞いた。演奏そのものはなかなか優れた演奏だと感じた。
 ただし私の好みから言えば少し印影が強すぎるような気がする。しかしあくまでも好みの問題。ヴァイオリンの音色も豊かで音が掠れることがないことに好感を持った。
 アンコール曲の「ピアノとバイオリンのための3つのロマンス作品22から第1曲アンダンテモルト」(クララ・シューマン)は初めて聴いた曲だが、これはなかなかいい。再度聴く機会があると嬉しい。2016年3月19日の録音。
 残りはCDから。ピアノが江口玲に変わって、グラズノフの「瞑想曲」など4曲。グラズノフの「瞑想曲」もいい響きであった。

エネルギー準位なんていう言葉があった

2016年06月03日 10時40分48秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はたまっている退職者会のブログの更新をすることに。記事にしなくてはいけない行事がいくつかが写真とともに手元にある。明日・明後日と行事と行動が二つあるので、その前に更新しておきたい。
 すぐにその場でやるべきことをしてしまえばいいのだが、ちょっと時期を逸してしまうと間際にならないと片付けられないものである。現役の頃も仕事でも組合の行事でも同じことが云えた。
 もっとさかのぼれば中学生の頃から宿題でも同じであった。嫌いな科目だからというのではなく、好き嫌いにかかわらずすぐに片付ける時を逸するとなかなか手がつかない。大人や教師は「嫌いな科目から先に片付けろ」などとすぐに云うが、そんなことでは解決しない。先にする・しないは、好き嫌いとは別物であった。なぜだろうと悩んだこともある。しかしこれを幾ら悩んでも、理屈をつけてもあまり意味がない、ということが分かったのはもういいかげん歳をくってからだ。人間は、後から考えるとつまらないことに悩むものでもある。
 偶々しなくてはいけない事項が発生した時に、そのことよりも興味のあること、本人にとって重要なこと、どうしても心に引っ掛る悩みごとなどがあっただけのことである。そして時期を逸するとそのことをし始めるの大層なエネルギーが必要で「面倒くさい」という意識が先にたってしまう、ということでしかない。エネルギー準位がどんどん高くなる。
 ということで先延ばしにすればするほど、そのことを片付けるために気持ちを高めるのにエネルギーがより必要になる。本日の内に完了してしまった方が楽である、という結論に達した。私はどうも屁理屈をこねないと気分が乗らない偏屈な年寄りにはまり込んでいくようだ。

火星・土星・木星‥

2016年06月03日 00時57分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりに火星・土星・木星を順に眺めることが出来た。南東の空に火星・土星はアンタレス(さそり座)と不等辺三角形に、西の空にに木星。その間にスピカ(おとめ座)、天頂付近にアルクトゥールス(うしかい座)がそろい踏み。
 本日は横浜は開港記念日で学校は休み。港では花火が打ち上げられていた。花火が終わってようやくこれらの星を眺める時間がやってきた。といってもわずか10分ほどしか見上げなかったのだが‥。このごろは10代の頃に比べると星を見ても感激することはなくなった。昔は星を結んで形ができるだけで嬉しかったが。今はもうすっかりその形も記憶から失せてしまった。不思議だ。
 10代に覚えることに喜びをおぼえていた事柄というのは意外と覚えているものだと今でも思っているが、星座のことは覚えていない。自分に封印をしたのかもしれないことは、記憶の棚の鍵は錆びて固いのかもしれない。思い出したくないものに変化しているのかもしれない。今は、「そういえばこういう形だった」と星座早見表を見て一瞬思い出しても、すぐに頭の記憶から消えてなくなる。記憶にとどめようという気力も湧いてこない。思い出したくないという気持ちの方がまだまだ強い。約半世紀たっても‥。
 ここら辺のことはいつか文章にすることがあるのだろうか。