Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

調整能力の低下

2014年12月07日 12時04分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 Nさんの件で朝から携帯電話が手放せないが、午後から団地の管理組合の諮問機関の会議が入っている。月に一度の会議で私が座長役、先月は所用で参加できなかったので本日はどうしても欠席するわけにはいかない。
 病院に行けるのはこの会議が終わってからとならざるを得ない。

 いろいろとスケジュールが立て込んで、融通の利かない状態が込み合っているときに限って突発的なことが飛び込んでくる。現役の時もそうだった。予定が予定どおり順調に回っているときはいいのだが、突如として何かが割り込んだり、予定外の事態が起きると行き詰ってしまう。スケジュールにゆとりがないときは本当に立ち往生してしまう。
 こんな時に調整が整わないとどうしていいかわからず途方に暮れるときもある。この調整能力がある意味とても重要な能力なのだ。このような突発的な事態が繰り返されると主体的に調整をすることが出来なくなって、些細なイレギュラーな事態にすら対応できなくなる。何らかの予期しない事態が発生した途端に調整することならできなくなってパニックになってしまう。へたをすると心的な症状が発現してしまう。こうなる前に立ち止って自分を客観的に見つめ、そして頭の整理、休養、息抜きが必要である。

 スケジュールの調整が無理になった段階では、あとは素直に関係者に事態の説明をして理解を仰ぎ、静かに事態の推移を見守るしかない場合というものがある。それまでの人間関係の作りかたや仕事の処理の誠実さがこのような時に生きてくるということに、行くたびも遭遇してきた。
 人は得てしてこのような事態に立ち至ると、誰かを悪者にして事態をすり抜けようとする。責任もフォローも放り出してしまう。私はこれだけはいつもしないように生きいきたいと思っている。そのとおりにはなかなかならないが。いろいろな仲間に結果として多くの迷惑をかけながらなんとか生きてきた。今はただ感謝のひとことである。

 今回も講座ならば欠席することは可能なのだが‥。現役時代よりも少ないスケジュールだが、いざというときの対応能力、調整能力は多分低下していると思う。


燃えつきてほしくないが‥

2014年12月07日 02時35分56秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 友人たちとの忘年会で、共通の友人Nさんの病状について報告し、今後のことなどを相談した。そして都合のつく人は早目に見舞いに行くのがいいのではないかということでみんなの了解を取ったところであった。すでに月曜日に見舞いに行くという人が何人かいて、私も合流することは決まっていた。そのような話のあとは、お酒を楽しく飲んでいた。
 3時間も経って終わりになる間際に、いつも見舞いに行っている病院から携帯に電話が入った。入院をしているNさんの具合がかなり悪くなったという。友人たちに慌ててそのことを伝え、私一人で急いで病院に向かった。すでに22時半を過ぎていた。裏口の救急外来の受付で了解を得て、病室に赴いた。
 これまでの部屋からナースステーションから目が届く病室に案内された。夜から意識が時々混濁するようになり、今は寝ているという。起しても構わないから、ということで看護師が去って行った。しかし私がゆすっても起きずに少し大きめの寝息をたてて気持ちよさそうに寝ている。
 起すのをあきらめてナースステーションに戻ると、看護師から危険な状態なのでいつどうなるかわからない状態だという。とりあえずその時点で、二次会に繰り出している仲間にできるだけ日曜日中に病院まで顔出しをするよう伝えた。
 あとは徹夜で病室にいてもしようがないので、今晩は看護師にお礼を言ってから帰宅した。

 Nさんは私よりも5歳上。私が横浜市に採用されたとき、横浜港の貨物の検数業務に従事していた。検数は、港湾荷役における積荷・揚荷の数量を調べる仕事である。一般社団法人日本貨物検数協会がその業務を行い、Nさんは横浜港でその業務に従事していた。給与等は公務員に準ずる扱いにはなっていたようだが、港の業務だけになかなか厳しいものがあったようだ。
 Nさんの所属する労働組合も、私の職場の労働組合もともに共産党色が強く、二人とも組合からは嫌がられ、排除される対象になっていた。二人でよく桜木町の駅の傍のビルの地下にある立ち飲み屋でお酒を飲みながら、愚痴をこぼし合っていた。
 そのような職場で組合活動で執行部とせめぎ合いながらの活動について、いろいろとアドバイスをしてくれた。お酒を飲むととめどもなく話が尽きないけれど、憎めない性格の先輩であった。あまり理論的にどうのこうのという性格でもなく、また実務にたけた活動をしていたわけではない。しかし労働組合のイロハもしらない私によく付き合ってくれた。
 私が末端の役員になんとかなって、一緒に活動する仲間を得てからはしょっちゅうは飲むことはなかったが、それでも共通の友人たちと年に数回は大久保駅のそばの飲み屋で一緒にワイワイと呑むことを40年続けてきた。
 私が自治労系の組合の支部を立ち上げたときなどもいろいろアドバイスをしてくれた。また労働組合の再編の中でNさんの組合もいろいろ流動的になって裁判沙汰になった時は、私も裁判所に幾度も傍聴に行ったりした。私が定年となり、大久保での飲み会に毎月出席するようになって、常連のNさんとの会話も多くなっていた。
 昨年大腸癌が見つかり切除はうまくいったが、腫瘍マーカーの数値が下がらない。咽喉癌が見つかり切除したのちも、こんどは食道癌がみつかり、さらに腰の痛みが増し骨髄への転移が見つかった。
 いろいろな検査を受けたにもかかわらず病巣がわからず、とうとうここまで悪化させてしまった。
 本人は抗癌治療については最後まで受けるという前向きな姿勢で、闘病していた。「今の病院にすべて任せて、それで治らなければしょうがない」といつも私に語っていた。そんなことをいいながらつい先月まで元気にしていたのだが、急に命の炎が弱くなってしまった。
 医師からはこれ以上の抗癌治療に耐えられない事態と私は告げられており、友人たちとの窓口をしてきた私は、その状態の報告も昨晩の忘年会でしたばかりであった。家族関係はもうないに等しいので、友人たちと相談しながら私が病院との窓口となっている。

 これからどうなるかわからないが、当面は病院にかかりきりになるしかなさそうである。