月曜日のこと。連盟で棋譜をコピーしていたら、ある棋譜が目に留まりました。その将棋は最近流行している戦型だったのですが、何と投了図が前例のある局面でした。
詳しくはいずれ専門誌に取り上げられるかと思いますが、いずれ起きるべくして起きる事故だった、とは言えそうです。
たまたま公式戦だったので目に留まりましたが、研究会との符合はすでに起こっていたかもしれません。たまたま投了図だったのでより大きな話題になりそうですが、「実質的な決着」という意味であればすでに何度も起きています。
「ありえない」と思われたことがいつかは起きるのは、大げさに言えば歴史の必然でもあります。僕は子どもの頃「将棋は奥が深いから絶対に同じ将棋にはならない」と習ったものですが、そんな自明に思われたことも決して絶対ではない、ということなのでしょう。
そんな中での竜王戦第3局は角換わり同型。最も研究が必要と言われるこの戦型で、1日目は82手目まで進んでいまだ前例通り。有体に言えば、どちらが新手を出すのか、注目です。
僕の感覚で言えば、自分の指した将棋が「コピー将棋」になってしまうことは、ものすごく怖いです。ましてやそれがタイトル戦の舞台であれば、なおさらだろうと思います。にも関わらずそれに果敢に挑むトッププロが二人いて、しかもその思うところが真逆だというのが、本当にすごいところです。こうやって定跡は進歩してきた、とは言え安易な気持ちでできることではありません。
いまの将棋界の流れを見ていると、どんどん戦法の自由度がなくなって、どんどん世界が狭くなっていくのではないかという恐怖にかられます。でもその一方で、そういう流れは十数年は前からあるにも関わらず、実際にはすごい勢いで拡散してきたという事実には、勇気づけられるものがあります。その相反する流れの中で、これからも定跡は進歩を続けるのだろうと思います。
自分がその進歩についていけているかと言うと、正直なところあまり自信はありません。ついていく努力はしているつもりですし、これからも続けていきたいとは思っています。それと同時に、プロとして将棋を指す価値も、問い続けていかないといけません。一生懸命やっていても「コピー」のレッテルを貼られてしまう懸念は常にあります。
昨日の将棋はコピーとはほど遠い、非常に独創的な将棋になりました。良い手も悪い手もあったと思いますが、結果としては快勝でした。ただ独創も、一度盤上に現れてしまうと厳しく吟味され、良いと思われればマネされ、悪いと思われれば淘汰されます。それが特定の戦型でなくして起こりうるのが、現代将棋の大きな特徴と言えるでしょう。
昨日の将棋はどうだったのか?一局指すたびに、そうやって思いを馳せることができれば良いのですが。
詳しくはいずれ専門誌に取り上げられるかと思いますが、いずれ起きるべくして起きる事故だった、とは言えそうです。
たまたま公式戦だったので目に留まりましたが、研究会との符合はすでに起こっていたかもしれません。たまたま投了図だったのでより大きな話題になりそうですが、「実質的な決着」という意味であればすでに何度も起きています。
「ありえない」と思われたことがいつかは起きるのは、大げさに言えば歴史の必然でもあります。僕は子どもの頃「将棋は奥が深いから絶対に同じ将棋にはならない」と習ったものですが、そんな自明に思われたことも決して絶対ではない、ということなのでしょう。
そんな中での竜王戦第3局は角換わり同型。最も研究が必要と言われるこの戦型で、1日目は82手目まで進んでいまだ前例通り。有体に言えば、どちらが新手を出すのか、注目です。
僕の感覚で言えば、自分の指した将棋が「コピー将棋」になってしまうことは、ものすごく怖いです。ましてやそれがタイトル戦の舞台であれば、なおさらだろうと思います。にも関わらずそれに果敢に挑むトッププロが二人いて、しかもその思うところが真逆だというのが、本当にすごいところです。こうやって定跡は進歩してきた、とは言え安易な気持ちでできることではありません。
いまの将棋界の流れを見ていると、どんどん戦法の自由度がなくなって、どんどん世界が狭くなっていくのではないかという恐怖にかられます。でもその一方で、そういう流れは十数年は前からあるにも関わらず、実際にはすごい勢いで拡散してきたという事実には、勇気づけられるものがあります。その相反する流れの中で、これからも定跡は進歩を続けるのだろうと思います。
自分がその進歩についていけているかと言うと、正直なところあまり自信はありません。ついていく努力はしているつもりですし、これからも続けていきたいとは思っています。それと同時に、プロとして将棋を指す価値も、問い続けていかないといけません。一生懸命やっていても「コピー」のレッテルを貼られてしまう懸念は常にあります。
昨日の将棋はコピーとはほど遠い、非常に独創的な将棋になりました。良い手も悪い手もあったと思いますが、結果としては快勝でした。ただ独創も、一度盤上に現れてしまうと厳しく吟味され、良いと思われればマネされ、悪いと思われれば淘汰されます。それが特定の戦型でなくして起こりうるのが、現代将棋の大きな特徴と言えるでしょう。
昨日の将棋はどうだったのか?一局指すたびに、そうやって思いを馳せることができれば良いのですが。
また逆に模倣してるうちは一流ではないとも言えますかね
研究済みだからとか、定跡だからと準えるだけの棋士ばかりになればファンはそこに楽しみを見出せないかもしれません
既視感がある局面には食傷気味になってると思います
そういう意味からも、今局の竜王戦の両対局者の頭の中はファン不在なような気がして残念です
人間がやってることである以上、そんな事故は当然起こり得る。トピックとして興味はあるけど、さほど問題があるとも思えません。
まして研究会との符合なんて。研究会がある程度秘密の状態で行われているのなら、避ける方法はありませんよね。
コピー将棋発生の確率を減らす具体的な方法としては、棋士の数を減らすしかないような気がします。でも、それによって将棋界全体での「研究量」が減るとしたら、一概にいいとも言えない気がします。
ファンの視点も大切なのでしょうけど。ただ、ファンったっていろんな人がいて、全員が満足することなんてあり得ない。
また、「棋士の個性」を重視するあまり、将棋そのものの質が落ちるのだとしたら本末転倒に思えます。この場合、質が落ちたことに気付くファンは少ないでしょうけど、そういう問題ではないかと。
今だって、定跡形の将棋もあれば力戦型の将棋もある。それはただ、各棋士がベストを尽くしている結果でしかないのでしょう。だから、それでいいと思います。
どんな形であれ、各棋士が将棋への情熱を持ち続け、各自が信じる最高の将棋を指すべく努力を続けて欲しい。それだけです。そのなかに「棋士の個性」を見い出す人もいれば、見い出せない人もいるでしょうけど。ファンにも個性がある以上、それは仕方ないことのような気がします。
今日の将棋もそうですが竜王の趣味の競馬も最近は後半まで淡々と進み、よーいドンになりますね。将棋も競馬も味気なくなった気がします。(と、言うか30年前から棋力の止まっているオッサンには付いていけないだけですが。。。)
▲7六歩△3四歩▲6八銀△8八角成
>ファンにも個性がある
というのは、なるほどその通りだなあと思いました。忘れがちな視点です。
歴史や積み重ねがあっての「定跡」なのでそれを調べるのは面白いのですが、それを伝える人が将棋界にいないことのほうが問題じゃないでしょうか。(勝又さん以外はいないと言ってもいいでしょう)
角換わり腰掛け銀や横歩取りみたいなわずかな違いが大きな差になるケースも多い戦型は、体系的に説明されたものがあればまたファンの見方が違ってくると思います。