★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「いかにせむ」への依存

2020-04-29 23:02:51 | 文学


さらにせむかたなくわびしきことの、世の常の人にはまさりたり。あまたある中に、これは、おくれじおくれじと惑はるるもしるく、いかなるにかあらむ、足手など、ただすくみにすくみて、絶え入るやうにす。

「古代なる人」、蜻蛉さんの母親が亡くなった。ものすごい衝撃で、蜻蛉さんは、兄弟たちの中でも、母に死におくれまいと思う気持ちで動転し――、そのためもあってか、どうしたことか。手足が硬直して死んだように変容してしまった。このあと、幼い道綱を呼び寄せ、「後は頼みます。お婆さまの法事を頼みますと、お父様(あのボンクラです)に申し上げなさい」と言ったきり、「いかにせむ」を繰り返すのみ、失語してしまった。周りのものも、「いかにせむ、などかくは」(どうしましょう、どうしてこんなことに)と泣くばかり。

ボンクラとの結婚は波乱続きで慰めていたのは母上であったのであろうが、そもそも汚い字で書いてきた恋唄に返事を書けといったのもこの古代の人であって、――かかる母親が亡くなることは、蜻蛉さんにとって、母親以上に母親に関わる関係性を喪失することであったに違いない。それにしても、我々はちょいと他人に関係性を食い込ましすぎているのではないかと思うこともある。依存というと主体間の関係にみえるが、依存は主体の溶解でありそう簡単に分離出来ないのだ。

近所で赤ん坊が泣いているのがよく聞くが、彼らの叫び方はちょっと我々の依存症的な関係を示すようである。あれは、嘘泣きというレベルを超えている。

ユンガーは『言葉の秘密』で、言語と耳は、「剣と鞘、足とあぶみの如く一緒にあわさっている」と言っていた。ユンガーはその二つが理性への関係性をもつことを期待しているようでもあったようなきがするが、赤ん坊の泣き声のように、理性を麻痺させてしまう、言語を奪う耳の働きというものがあるように思うのである。我々は、妙なスローガンを好み、そこに信頼出来るものを捜そうとする癖があるが、これも、耳によって心が割れてしまっていると思うのである。

上の蜻蛉さんだと、いかにせむ、の泣き声みたいなものの連呼がますます体の機能さえも奪ってしまう。父がやってきて「親は母だけでない」と言いながら、薬を飲ましてやると次第に回復する。口を喋る以外のことに使っているうちになんとなく回復したのではなかろうか。シランけど。

要するに、人間は、いかなる職業にあっても、その心がけが、社会のためにつくすという一事に於て、全的生涯が完うされるものだということを感じているのであります。
 善良な理髪師の如く、善良な靴匠の如く、私は、また真実な一文筆者として使命を果たしたいと思っています。幸に、男子にとって、厄年である四十三も、無事に過ぎたことを祝福します。


――小川未明「机前に空しく過ぐ」


「人間」とか「男子」とかに頼るようになると、職業なども二次的な問題となる。こういう乗り越えかただってあるのだが――、これはこれで余りにも踏み倒す事柄が多いことも事実なのであった。