書に心入れたる親は、「口惜しう、男にて持たらぬこそ幸なかりけれ。」とぞ、つねに嘆かれ侍りし。それを、「男だに、才がりぬる人はいかにぞや。はなやかならずのみ侍るめるよ。」と、やうやう人のいふも聞きとめてのち、一といふ文字をだに書きわたし侍らず、いと手づつにあさましく侍り。
紫さんは文人・藤原為時の娘であった。この父親が息子に漢文を仕込んでいたら、傍で聞いていた紫さんがすっかり覚えてしまったのである。紫さんにとって漢文の教養は秘かに無理に勉強したとしても、むろんひけらかすものでもなかったから、たまたま自然に覚えてしまったんです、ということにしているのかもしれない。むろん、本当にそうだった可能性もあるとは思うが、――文脈的には、要するに紫さんが言いたいのは、私は「自然」にやってます、ということだ。漢文を覚えているのも自然なら、漢文なんか詠めないふりをしているのも、「男でさえ才をひけらかす人はぱっとしないようではありませんか」ということを聞いたから、自然にそうしているのです、ということである。この前で『源氏物語』を読んだ帝が、「紫は漢文をずいぶん読んでるな」と言ったことが紹介され、この後では、中宮に白氏文集の新楽府を教えているのも、中宮が興味を持ったからやっているんですと述べている。自分はすべて自然に従っているのだと言っているようなものである。
左衛門の内侍といふ人侍り。あやしうすずろによからず思ひけるも、え知り侍らぬ心憂きしりうごとの、おほう聞こえ侍りし。
紫さんが一番いやがっているのは、こういう嘘を振りまく輩であった。こういうものたちへの怒りが第一義であり、この後の上記の漢文に関するエピソードも、このいやな内侍が「紫式部は漢文が得意で「日本紀の御局」だねえ」とか言うてたことに対する反論に過ぎない。嘘の対義がシモベとしての自然の成り行きという紫さんの考え方は賛否両論あると思うが、我々の社会が、異様にこの現状の自然さに拘る癖があるのも、こんな苦労をし続けたせいかもしれないのだ。
それにしても、漢文に対するアンヴィヴァレンツは今日の英語と全く同じであって、我々はまったく変わっていない。
人類が、もし、失われたる幸福を取り返えさんためには、この物質主義的文明を拒否すればいいのだ。一言にすれば、虚飾を排することだ。しかも、これを拒否する自由は、誰にもある。
やはり、芸術に於てもそうだ。複雑なる主義に、たとえば、政治に、経済に、既成の哲学に、依拠し、隷属しなければならぬとするごときは迷蒙である。こうしたことによって何等か、感激を呼び起した場合がなかったと言わない。しかし、いまは、この重圧のために、空想を、想像を、拘束されているではないか。
――小川未明「単純化は唯一の武器だ」
これは昭和5年の文章で、こういう言い方が出てくるようになると危ない。確かに我々は自分を見失っているところはあるし、米国やイギリスのようにはやれない。しかし米作りだってなんだって研究熱心な賢い人々が成功させてきたのである。単純化なんていうのは劣等生の症状だ。戦後はまだ、素朴なふりをしながら裏で「自然」を組織するずる賢い輩ががんばっていた。しかしいまは、症状がなかなかおさまらないうちに失敗を恐れて行動が萎縮し、指示をあらゆるものに適応させる人間が増えてしまった。かくしてすべてが「不自然」の連続にみえるようになるわけである。
演技でなく、本当に「いと手づつにあさましく侍り」(本当に不調法であきれはてたものです)になってしまったのである。紫さんにだってそういう側面がなかったとはいえないのではなかろうか。単なる想像であるが……。