★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

時鳥と変身

2020-04-12 23:29:36 | 文学


「誰」など言はするには、おぼつかなからず騒いだれば、もてわづらひ、取り入れて持て騒ぐ。見れば、紙なども例のやうにもあらず、いたらぬ所なしと聞きふるしたる手も、あらじとおぼゆるまで悪しければいとぞあやしき。


兼家がやってきた。兼家の父は右大臣、蜻蛉さんの父は受領。県庁の娘にいきなり麻生太郎の息子が求婚しに来たようなものだ。――と考えると大したことはないのだが、カネのことを考えるともうそうはいってられない。もはや金家(カネイエ)としか思われない。蜻蛉の実家は大騒ぎである。で、求婚みたいなしゃれた感じでもなくすごく達者な字だと噂されていた筆跡も「これ違うんじゃねえかしら?」と思われるほどゴミクズみたいな字だったので「あやしい」と思うのであった。書いてあったのは、

 音にのみ聞けば悲しなほととぎす こと語らはむと思ふ心あり

可愛らしいという噂ばかり聞いてるので僕は悲しいです時鳥ちゃん、是非じっくりお話ししたいと思ってるんです

悲しいとか嘘ついてんじゃないぞこの金持ちがっ


それはともかく、かような事態には慣れておらぬ田舎の家であるので、「いかに。返りごとはすべくやある」と慌てふためていると

古代なる人ありて、「なほ」とかしこまりて書かすれば、
 語らはむ人なき里にほととぎす かひなかるべき声な古しそ


古めかしい母親が「ちゃんとしなきゃだめです」と言うので恐縮して書いたものが、上の歌である「そんなお話相手はここにはおりませんことよ時鳥さん、無駄に鳴いて聞き飽きられないようになさいませ」と。思うに、通い婚というのは、時鳥に喩えられるのではなく、時鳥を真似ているのではなかろうか。我々はこういう擬態をしているから活き活き出来るのである。

さっき、NHKで、ネット上に集積されたデータがリアルな個人を模倣出来るかみたいな番組をやっていたが、およそくだらない。自分の情報が自分に似ているのは当たり前であり、自画像が自分に似ているといって驚いているのはお馬鹿ちゃんである。自撮りとかなんというのも貴族趣味に過ぎず、そんなもんは十九世紀に乗り越えられているのだ。問題は、どう我々が常に何かを模倣し変身しているのかである。プライバシーというのはこういう変身の過程のことであると思うのである。

ある朝、グレゴール・ザムザが気がかりな夢から目ざめたとき、自分がベッドの上で一匹の巨大な毒虫に変ってしまっているのに気づいた。彼は甲殻のように固い背中を下にして横たわり、頭を少し上げると、何本もの弓形のすじにわかれてこんもりと盛り上がっている自分の茶色の腹が見えた。腹の盛り上がりの上には、かけぶとんがすっかりずり落ちそうになって、まだやっともちこたえていた。ふだんの大きさに比べると情けないくらいかぼそいたくさんの足が自分の眼の前にしょんぼりと光っていた。

――「変身」(原田義人訳)


我々はしばしばこういう朝を迎えている。兼家も蜻蛉さんもまだ時鳥のふりをしますよ、というレッスンをしている段階であり、変身はお互いに対面で向き合ったときに訪れる。これは長大な過程である。