★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

疑わし

2020-04-18 23:45:06 | 文学


さて、九月ばかりになりて、出でにたるほどに、箱のあるを、手まさぐりに開けて見れば、 人のもとに遣らむとしける文あり。あさましさに見てけりとだに知られむと思ひて、書きつく。
  疑はしほかに渡せる文見ればここやとだえにならむとすらむ
など思ふほどに、むべなう、十月つごもりがたに、三夜しきりて見えぬときあり。つれなうて、「しばしこころみるほどに。」など気色あり。


橋や踏みが掛けられていたとしても、もう和歌というより愚痴を五七でいった感じの歌がなかなかのもので、我々が失ったセンスの一つである。これから文によるコミュニケーションが発達するであろうから、もしかしたらこういうのも復活してくるかもしれないが、問題は、これに答える男の方である。「しばしこころみるほどに。」(ちょっとあなたの気持ちを試そうと思って)というのも案外絶妙である、相手の腹を立てさせる意味で。しかも明々白々なのにもかかわらず「気色あり」(そぶりがある)であるから、よほど演技じみていたと見える。

――かどうかはわからんが、三日空けたということは明らかに別の妻が出来たのは明らかなように思え、諍いがないことで心は果てしない感じに襲われるわけである。別の意味で何かは分からんが「しばしこころみられている」感じに蜻蛉さんはなってくるのであろう。

次郎は、耳を信じなかった。息苦しい官能の刺激も、一瞬の間に消えてしまう。――彼はただ、疑わしげに、むなしく女の顔を見返した。
「そんなに驚かなくたっていいわ。なんでもない事なのよ。」
 沙金は、やや声を低めて、あざわらうような調子を出した。


――芥川龍之介「偸盗」


芥川龍之介は、この果てしない嫉妬や疑わしさを知っていた男で、――昔、差別的にも「女の子みたいなやつ」だなあとわたくしは思った。

最近、家に籠もっているせいかいつも眠く、あるいは春眠かも知れないが、――むかしの女たちも外にはあまりでなかったはずであるから、体調管理との戦いもあったはずだ。ウイルスのようにやってくる男。そして自分は妊娠して死ぬこともあった。対して男の方は、自分の生き死にが自分でどうにかなると思っているところがある気がするのであった。芥川龍之介も結局そうだった。