★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水鶏的恋

2020-04-09 23:23:25 | 文学


渡殿に寝たる夜、戸をたたく人ありと聞けど、恐しさに音もせで明かしたるつとめて
 夜もすがら くひなよりけに なくなくぞ 真木の戸口に たたきわびつる
返し
 ただならじ とばかりたたく くひなゆゑ あけてばいかに くやしからまし


道長かどうか分からんが、紫さんのところに訪ねてきた男ありけり。戸を叩く音がする。恐くて一睡も出来ずに明かした。すると「夜通し水鶏よりすごく戸口をこんこんと泣きながら叩いてたんですよ」ときた。紫さんは「ただ事じゃない叩き方でしたわね、ホントは「とばかり」(ちょっとだけの)あれなんでしょう?そんな水鶏なんですからね、戸を開けたら後悔しちゃうワ」と即答。

水鶏(くひな)がどういう声として捉えられていたのかわからないが、いま調べてみた限りでは、案外ノックの音とは違うようだ。いわばおきゃんな若い女房が喋っているようなリズムがある。わたくしは、このやりとりは別に女が男をフッたものでも一度はフルものという習慣のものとはおもえない。水鶏のような音=恋のさえずりだと思うのである。

我々の世界の恋愛が痩せこけてきたのも、我々が動物たちを模倣しなくなったことが大きい。いつから「動物」が概念となってしまったのか?

母親に会いたいというグレゴールの願いは、まもなくかなえられた。昼のあいだは両親のことを考えて窓ぎわにはいくまい、とグレゴールは考えていたが、一、二メートル四方の床の上ではたいしてはい廻るわけにいかなかったし、床の上にじっとしていることは夜なかであっても我慢することがむずかしく、食べものもやがてもう少しも楽しみではなくなっていたので、気ばらしのために壁の上や天井を縦横十文字にはい廻る習慣を身につけていた。とくに上の天井にぶら下がっているのが好きだった。床の上にじっとしているのとはまったくちがう。息がいっそう自由につけるし、軽い振動が身体のなかを伝わっていく。そして、グレゴールが天井にぶら下がってほとんど幸福な放心状態にあるとき、脚を放して床の上へどすんと落ちて自分でも驚くことがあった。

――カフカ「変身」(原田義人訳)


この作品の恐ろしい場面の一つで、グレゴールにおいては常に体の変化が意識よりも先なのだ。勝手に体が虫になって行く。彼はおそらく病気なのである。家族から嫌われていても我々は虫になることはないが、虫になる病がこれから流行るかも分からない。我々は紫さんの時代と違って、我々が本当に目に見えないレベルでは大きなシステムの中の交換や組み替えの結果に過ぎないことを知っており、目に見える部分を本当には信じていないのである。我々が植物や昆虫に対して急速に興味を失ってしまったのも、目に見えないものに対して注意を向けすぎたせいでもある。