★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

なまひがひがしきことども

2020-04-03 23:58:07 | 文学


げにものの折など、なかなかなることし出でたる、後れたるには劣りたるわざなりかし。ことに深き用意なき人の、所につけてわれは顔なるが、なまひがひがしきことども、ものの折に言ひ出だしたりけるを、まだいと幼きほどにおはしまして、世になうかたはなりと聞こしめし、おぼほししみにければ、ただことなる咎なくて過ぐすを、ただめやすきことにおぼしたる御けしきに、うち児めいたる人のむすめどもは、みないとようかなひきこえさせたるほどに、かくならひにけるとぞ心得てはべる。

彰子後宮の消極的なかんじが、彰子の幼い頃の体験に起因していることを指摘する場面。「深き用意なき人の、所につけてわれは顔なるが、なまひがひがしきことども、ものの折に言ひ出だしたりける」(わきまえもないのに、いつも我が物顔に振る舞っている女房がいて、僻みっぽいことを、大切な折に言い出した)のを、彰子さまは大変幼いながら「これほどの見苦しいことがあろうか」と骨身に染みてお思いになったのだという。で、彰子さまはとにかく出しゃばっていろいろ言うよりは大過なく過ごすことが見苦しくないと思っていて、お嬢さん軍団の女房がたはそれに合っていたというかなんというか、そんなかんじで、おとなしい気風になってしまったのだ、という。

それを男どもが「なんか昔に比べてつまんないね」と言っている声が聞こえる。むろん、彼らは定子・清少納言の『枕草子』の時代と比べているのであった。

こういう風景は、いまでもよくある。わたくしは、才気煥発でござるみたいな集団がいかに自己崩壊を起こして行くかみてきたので、三十代以降は、引っ込み思案でみんなの調子に合わせられないうじうじした若者の味方であろうと試みてきたが、「めやす」くゆくときもあればそうでないときもあるのだった。

わたくしがいるところは香川で、大阪的なものとの相克がある。

たしかに京都の言葉は美しい。京都は冬は底冷えし、夏は堪えられぬくらい暑くおまけに人間が薄情で、けちで、歯がゆいくらい引っ込み思案で、陰険で、頑固で結局景色と言葉の美しさだけと言った人があるくらい京都の、ことに女の言葉は音楽的でうっとりさせられてしまう。しかし、私は京都の言葉を美しいとは思ったが、魅力があると思ったことは一度もなかった。私にはやはり京都よりも大阪弁の方が魅力があるのだ。優美で柔い京都弁よりも、下品でどぎつい大阪弁の方が、私には魅力があるのだ。

――織田作之助「大阪の可能性」


まだよく分かっていないのだが、学生のなかにもこんな心持ちがどこかにあって、わたくしはよくわからない。