愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題241 句題和歌 3  僧正遍照/白楽天

2021-12-13 09:04:54 | 漢詩を読む
蓮葉の にごりに染まぬ 心もて
  なにかは露を 玉とあざむく  僧正遍照 (古今集 巻三夏歌165 )
 <大意>蓮葉は濁った泥水に染まらぬ心で以て、どうして人目を欺いて、露を玉と見せ 
    るのか。 
 
oooooooooooo 
蓮は泥水の中に生えていながら、清浄な大きな葉や濁りのない美しい花を咲かせることから、仏性を表現するものとされる。しかしその葉が、人の目を欺いて、葉表に置く露滴を玉(ギョク)に見せているのはどういうことだ! と。

作者・遍照は、第50代桓武天皇(在位781~806)の孫という高貴な生まれでありながら、出家して天台宗の僧侶となり、“僧正”の職位まで昇った僧侶である。また歌僧の先駆者とされる歌人であり、六歌仙および三十六歌仙の中の一人である。

この歌は、白楽天の七言律詩「放言五首 其一」中、第6句「荷露雖團……」(下記参照)に想いを得た“句題和歌”とされています。“放言”とは、「言いたい放題、他への影響など無視した無責任な発言」と言うこと。和歌、漢詩共に興味を惹かれる作品と言えようか。

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<白楽天の詩> 
 放言五首 其一  白楽天 『白氏文集』卷十五   [上平声七虞韻]
朝真暮偽何人弁、  朝真(チョウシン)暮偽 (ボギ)何人(ナンビト)か弁(ベン)ぜん
古往今来底事無。  古往(コオウ)今来(コンライ) 底事(ナニゴト)か無からん
但愛臧生能詐聖、  但(タ)だ愛す 臧生(ゾウセイ)が能く聖を詐(イツワ)るを
可知甯子解佯愚。  知る可し 甯子(ネイシ)が解(ヨ)く愚(グ)を佯(イツワ)るを
草蛍有耀終非火、  草蛍(ソウケイ)耀(ヒカ)り有れども終(ツイ)に火に非(アラ)ず
荷露雖團豈是珠。  荷露(カロ)團(マドカ)なりと雖(イエド)も豈に是(コ)れ珠(タマ)ならんや 
不取燔柴兼照乗、  取らず 燔柴(ハンサイ)と照乗(ショウジョウ)と 
可憐光彩亦何殊。  憐(アワレ)む可し 光彩(コウサイ) 亦た何ぞ殊(コト)ならん
 註] 弁:識別する; 古往今来:(成)古今を通じて; 底事:なにごと、“底”は(書)なに; 臧・甯子:ともに人名で臧武仲(ゾウブチュウ)および甯武子(ネイブシ)、詳細は解説の部参照; 燔柴:生贄を柴で焼く儀式; 照乗:前後十二台の車を明るく照らしたという珠玉。

<現代語訳 大意>
朝には真実とされたことが暮れには虚偽とされる、何が真(マコト)か誰も判別などできない、
古来 このようなことは尽きることなく見聞きしていることだ。
ただ、臧武仲が聖王を煙に巻いたのは愛すべきことであるし、
また甯武子が非道の世に愚者を装ったのも納得できる。
草むらの蛍は光り輝いたとて、結局本当の火ではないし、
蓮の葉に置かれた露滴は丸いからと言っても、本当の珠ではあり得ない。
生贄を焼く炎や、照乗の珠が放つ光についても、私は取らない、
それらの輝きも、蛍の火や蓮の葉の露と何の異なるところがあろうか。
            
<簡体字およびピンイン>
 放言       Fàngyán 
朝真暮偽何人弁、 Zhāo zhēn mù wěi hé rén biàn, 
古往今来底事无。 Gǔwǎng jīnlái dǐ shì . 
但爱臧生能诈圣、 Dàn ài Zāngshēng néng zhà shèng, 
可知宁子解佯愚。 kězhī Níngzi jiě yáng . 
草蛍有耀终非火、 Cǎo yíng yǒu yào zhōng fēi huǒ, 
荷露虽团岂是珠。 hé lù suī tuán qǐ shì zhū. 
不取燔柴兼照乗、 Bù qǔ fán chái jiān zhào chéng, 
可怜光彩亦何殊。 Kě lián guāngcǎi yì hé shū. 
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白楽天/元稹の交流の続きでもある。白楽天の「放言五首」が書かれた背景、経緯を簡単に触れます。元稹は、810年、宦官・仇士元と争いを興し、江陵に士曹参軍として左遷されます。その折、思いの丈を詩に書いて白楽天に送っていたことは先に触れました。その中に「放言五首」の詩も含まれていた。

5年後、白楽天は、武元衡の反乱事件に絡み、越権行為の廉で江州に左遷されます。楽天は、自ら左遷された身柄、“風吹浪激、感慨万千”(風吹き、浪荒(スサ)み、思い千々)に胸が騒ぎ、元稹の詩に和して、上掲の「放言五首」を書き、元稹に贈った と。両者ともに、余程政・官界の“真(マコト)”の有りように我慢がならなかったのだ。

3,4句の臧生(臧武仲)および甯子(甯武子)について:臧武仲は、当時聖人と称されていたが、罪を得て自領の防を去る時、後嗣を立ててくれたなら去ると条件を提示して聞き入れられた。君主を威嚇したのではないと主張したが信じられないことだ と。

一方、甯武子は、国に正道が行われていれば知者として存分に活躍し、国に道が無ければその知を封印して愚者を装い、平気であった。その知者ぶりは真似出来るが、その愚か者ぶりは真似することが出来ない と。いずれも論語に拠る「子曰く、……」に続く句文である。

楽天の漢詩「放言」は、内容が多岐に渡り、かなり難解なため、<現代語訳>では、読み砕いて“大意”として記しました。但し筆者の理解不足による勘違い、思い過ごし等、あると思われます。その点斟酌してお読み頂きたく。

僧正遍照(816~890)の和歌に戻ります。濁りに染まぬ心と見做される蓮の葉が、どうして人目を欺いて、葉面に置いた露を珠玉にみせるのか と戯れている風にも見える。作者が“僧正”であるだけに、その真意を糺したくなるのは自然であろう。 

一方、遍照には次のような歌がある。平安京羅城門の西にあった寺・西大寺のほとりの柳をよんだ歌である。春雨の後であろう。掲題の歌に矛盾するようにも思える。

浅みどり 糸よりかけて 白露を 
   玉にもぬける 春の柳か(古今集 春27) 
  [浅緑の糸をより合わせて、白露を数珠に見立てて貫いている春の柳だよ]   

また僧正遍照には、出家前の作に、百人一首(12番)にも採られた、次のような情感溢れる歌がある(閑話休題128)。その評で筆者は、“生臭坊主”(?)に近い風情が感じられる歌であると記した。

天つ風 雲の通い路 吹き閉じよ 
   をとめの姿 しばしとどめむ  僧正遍照 (古今集 雑上・872;百人一首12番) 

掲題の歌で“蓮葉”を“遍照”に置き換えてみたらどうであろう。僧侶とて、泥と濁りのある俗世間を経験またそこに住み、一方、濁りを払い落すべく山に籠り、修行を積んできた身である。すなわち、遍照は、“わが身”と“蓮葉”を同体と考えているように推察する。

美しいものを美しいと見ることもあり、人を欺かねばならないこともある。世の諸々の濁りを眼にし、また諸々の欲に駆られることもある。 “人の目を欺いて、葉表に置く露滴を玉に見せているのはどういうことだ!”と自分に対して問うているのでは?このような僧侶としての“葛藤”を詠っているように思えるがどうであろう。
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