愉しむ漢詩

漢詩をあるテーマ、例えば、”お酒”で切って読んでいく。又は作るのに挑戦する。”愉しむ漢詩”を目指します。

閑話休題242 句題和歌 4  懐円法師/白楽天「王昭君」

2021-12-20 09:11:21 | 漢詩を読む
見るからに 鏡の影の つらきかな  
  かからざりせば かからましやは  懐円法師 (後拾遺集 雑三・1018 ) 
 <大意> 鏡を見るにつけ、鏡に映る私の姿の辛いことよ、
    このようでなかったなら、このようにはならなかっただろうに。 
 
oooooooooooo 
言い換えれば、“このような醜い姿でなかったなら、このような醜い姿にはならなかったろうに”、禅問答のような歌です。作者・懐円法師は、生没年不詳、またその生涯についても不明な点が多い。平安中期の叡山法師である。

この歌は、白居易(楽天)の詩「王昭君二首 其一」(下記)に題材を得た歌とされています。王昭君は、伝説的な古代中国四大美女の一人とされ、その美貌に飛ぶ雁も落ちる“落雁の美女”と称されている。詩・歌ともに王昭君の数奇な運命を詠ったものである。

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<白楽天の詩> 
 王昭君二首 其一  白楽天 『白氏文集』卷十四   [上平声一東韻] 
满面胡沙满鬢風, 面(オモテ)に满つる胡沙(コサ) 鬢(ビン)に满つる風, 
眉銷残黛臉銷红。 眉(マユ)は残黛(ザンタイ)銷(キ)え 臉(カオ)は红(ベニ)銷ゆ。 
愁苦辛勤憔悴尽, 愁苦(シュウク)辛勤(シンギン)して憔悴(ショウスイ)し尽し , 
如今却似画図中。 如今(ジョコン) 却(カエ)って画図(ガト)の中(ウチ)に似たり。 
 註] 胡沙:砂漠の砂; 黛:眉墨、 愁苦:思い悩んでくるしむこと; 辛勤: 
 つらく苦しいさま; 憔悴:心配や疲労などでやせ衰えること; 如今:いまごろ。   
<現代語訳 大意> 
 王昭君  
顔一面に吹き付ける砂漠の砂、鬢に吹き付ける異国の風、
美しかった黛も消え、頬の紅も色褪せた。
思い悩み、苦しみのため すっかりやつれ果てて、
いまや却って絵の中の醜い肖像画にそっくりになってしまっている。

<簡体字およびピンイン> 
 王昭君      Wáng Zhāojūn   
满面胡沙满鬓风, Mǎn miàn hú shā mǎn bìn fēng,
眉销残黛脸销红。 méi xiāo cán dài liǎn xiāo hóng.
愁苦辛勤憔悴尽, Chóukǔ xīnqín qiáocuì jǐn,
如今却似画图中。 rújīn què shì huà tú zhōng.
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まず王昭君について虚実、今に語られる伝説に触れます。姓は王、諱(イミナ)は檣(ショウ)、字を昭君。荊州南郡秭帰(シキ)(現・湖北省興山県)出身。前漢時代・第11代元帝(在位BC48~BC33)に仕えた美人の女官。後宮には大勢の女官がおり、王昭君は、終ぞ帝の寵愛を受ける機会はなかったようである。

前漢時代、匈奴が統一され、漢-匈奴間の関係を強固なものにするために、婚姻関係を結ぶ話があったのでしょう。元帝は、絵師に女官たちの肖像画を用意させた。いよいよ匈奴の呼韓邪単于(コカンヤゼンウ)が来朝、漢の婿となることを求めた。

元帝は、兼ねて用意していた絵をつぶさに検討して、最も醜い女官を選び、単于に嫁として送ることにし、王昭君が撰ばれた。王昭君は、出立に当たって、暇乞いの挨拶のため元帝を訪ねた。帝は驚いた:「…貌は後宮第一たり、善く応対し、挙止閑雅なり……。」

帝は後悔したが、後の祭り。外交を大事に思い、今更人を替えることはできなかった。事の次第を調べると、絵師たちの要求に応じて、女官たちは、大枚の賄賂を贈って美しく描くよう工作していた。王昭君は賄賂を断ったため、醜く描かれていたのであった。結果、絵師たちは全員、斬首の上、さらし首に処された と。 

匈奴に嫁いだ王昭君は、単于との間に1男、また単于の没後、義理の息子との間に2女を設けた。王昭君の陵墓は、現・内モンゴル自治区・フフホト市にある。陵墓の周囲には王昭君の郷里の家を再現した建物や庭園が整備されており、敷地内には匈奴博物館がある と。

後の世に、「一面に白い胡沙白い草の胡地にあって、この塚(陵墓)のみ青々としている」ことから、李白、杜甫等の詩中で“青塚(セイチョウ、青冢とも)“と称されるようになり、これが王昭君墓を表現する固有名詞となっていった と。

上掲の白居易の詩では、王昭君を、砂塵が吹きすさぶ胡地での生活に疲れ果てた悲劇のヒロインとして描いています。今や黛も消え、頬の紅も色褪せてしまい、結局、かつて絵師たちが描いた肖像画の醜い姿になってしまっているではないか と。 

掲題の歌では、懐円法師は、王昭君が鏡に映る自らの醜い姿に慨嘆している情況を詠っています。すなわち、美人であると自負心の強かった王昭君の、見た通りに描いて貰えばそれで好し(?)との思いに違い、醜く描かれたばかりに、今になって真の醜い姿になってしまったのだなあ と。

今日、市中、王昭君の絵と言えば、馬に跨って琵琶を抱えた、匈奴に赴く際と思しき姿が定番である。王昭君が琵琶を奏でると、その美貌と音色に魅せられて、飛んでいる雁も落ちて来たとのことで、“落雁の美女”と称されている。

掲題の歌の作者・懐円法師の生涯についてはほとんど不明である。親しく交流のあった歌人や、遺された勅撰集の歌、逸話などから推して、970年頃の生まれではないかと推察されている。歌は、後拾遺集のみに3首入集されており、掲題歌はその一首である。

[蛇足]
blog「閑話休題」は、現在、“漢詩-和歌の交流”の場として「句題和歌」シリーズ、および自作の漢詩を紹介する研鑽の場として「飛蓬」シリーズの2本立てで、交互に進めております。なお“飛蓬”とは、“行く先定まらぬ、風任せに彷徨う、根なしの蓬草”を意味します。
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