ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

歌え若者〜ラジオから生まれた音楽たち〜2

2016-10-28 10:14:00 | メディア
甲斐さんは、岸川さんから
「プロになるのか?ならないのか?」と訊ねられ
「[プロになる気があるのなら、もうすぐフォーク・コンテストがあるから
そのために俺の番組を利用しろ]と明快に口説かれた」そうで

そのハッピー・フォーク・コンテストの前夜に泊まられた四谷の旅館で
「楽しませようとしたんでしょうね
冷蔵庫の中の物、全部さらえていいって言われて…
いいんですか?って訊いたら[文化放送持ちだからいいんだ]って…(笑)」

でも、普通なら緊張して何もロクに喉を通らないんじゃないかと…?(笑)
ただ、甲斐さん達は博多でライブをなされば
かなりの動員数を誇っておられたこともあって「セミプロみたいな感じ(笑)
純真なフォークのアマチュアって感じじゃなかった」らしく(笑)

「ビール、日本酒、チーズ、ソーセージ、缶詰…全てさらったら(笑)
次の日の朝、岸川さんがフロントと言い合ってる
[今年から地方局持ちになりました]って言われて
[俺は聞いとらん!]とか言ってるんですよ(笑)」と甲斐さん

「[俺たちが優勝すればいいんでしょ]って言って
本っ気で襟首つかまれました(笑)」と話され
さらに「優勝する気マンマンだったんで
賞金30万の分け方まで決まってて(笑)スレたアマチュアだった(笑)

運よく優勝することが出来て
中野サンプラザの一番上の広い楽屋に置いてあるグランドピアノの上で
話し合ってた通りに分配してるのが見つかって思いっきり怒られました(笑)
[プロになるならチャンとしような]ってことだったんでしょう(笑)」

…と振り返っておられたけど、この他にも
「決勝本番前のリハーサルで、モニターの音の回りがひどく
[これじゃあ本番が出来ない]とPAに怒鳴っていたら
ステージ袖に待ち受けていた岸川さんが
[お前って奴は…]と首を振りながら絶句した」とか(笑)

副賞の「カップヌードル」を全部サンプラザホテルのバスタブに入れて
まとめて作ろうとなさって(笑)
「お前たち、なんばしよっと!」と怒鳴られたとか(笑)
武勇伝には事欠きませんね(笑)

かつての甲斐報に「生意気でワイルドだったこの俺を
イヤな顔もせず盛り上げてくれたこの名ディレクターは熱血だけではなく
[アーティストが売れると何らかの権利を主張する]ということさえしない
清廉潔白の人でもあった」と記されてました

この番組の中でも、財津和夫さんが
「【魔法の黄色い靴】が出た時に喜んでくれて…
でも[手柄を立てた私]って感じは全くなかった」と話されてますが

岸川さんご本人も「私はたまたま連中の役に立つ場にいたんです
彼らの熱気を受けて、福岡にフォークが根づけばいいと思っただけで…
彼らは自分で躍り出たんですよ」とおっしゃってます

「ビッグ4の中でも、陽水は特にですね」というのは
この番組の中で紹介されていた野見山実さんのラジオ番組
「スマッシュ・イレブン」に陽水さんが
直接、持ち込まれたデモテープがきっかけで
デビューが決まったからでしょうし

海援隊は、TNCの藤井伊九蔵さんが手がけていらした
フォークの集い「レッツ・ゴー・フォーク」で
プロの前座を務められ「他流試合をさせて貰った」りする内に

野外イベントに出演なさっていた泉谷しげるさんが
「東京へ出て来い」と声をかけられ
強制的に(笑)デビューさせられたみたいだし…(笑)

その武田鉄矢さんが、番組の中で、福岡の恩人お三方について
「先輩風を吹かさない」「真面目に遊んでくれる大人たち」とおっしゃって

「野見山さんは、正面に回り込んで見る人
メモを取りながら聴いてくれる」

「藤井さんは、横に来て[出来がどうだった]と短くひとこと言う人」

「岸川さんは、後ろから見る、後ろに回り込んで考える人
[あそこで、あの歌を歌うあなたの背景は何なのだ]って文学的なんですね」

…と、皆さんそれぞれのアマチュア・ミュージシャンとの接し方の違いを
分析なさっていたのが面白かったです(笑)

そのビッグ4を支えたビッグなお三方の内のお一人
野見山さんがRKBを卒業されることになり
「鍋でも囲みながら…」という話が
いつの間にか「福岡ドームの柿落としライブ」に…(笑)

「呼びかけ人は井上陽水、本気出すと凄いイベントになった(笑)」と武田さん
「3人の先輩たちにライトを当てて、ステージから頭を下げる
いい時代、いい先輩に恵まれた
みんな思いは同じだったと思います」

…と、話されてるんだけど、当時の記事にも出ていたように
皆さん福岡から上京なさって20年前後という月日が流れていたからこそ
変なライバル意識もなくなり
共同でひとつの曲を作ることがお出来になったんじゃないかと…?

甲斐さんもインタビューで
「年齢的な部分で、今がちょうど良いタイミングなんだよ
それと、こういうことって、一生に一回しかないようなことだと思うね

誰かがポーンと肩を押したみたいな
そんなきっかけがないと、きっと集まる機会はなかったね
これが20代前半でギラギラしてる時だったら
なかなかそうもいかないだろうけど…

オフィスも自分で持って、レコードメーカーとの関係も良い感じになってて
酸いも甘いも判って来た、そういう時期にあるからじゃないでしょうか」
…と、おっしゃってます

ただ「イジメにあうんじゃないかなって思っててね(笑)
最初4人で集まった時、自分が一番年下だから(笑)」と甲斐さん(笑)

でも「集まってみたら、4人の事務所が近かったんだよね、これが
みんな半径2km以内にあるみたいな
だから、ナンで会わないのかな?歩いてて(笑)ってね、思いましたよ
フットワークというか、身のこなしがみんな似ている気がしてね」と話され

「平和台球場、西鉄ライオンズに対する思い入れが強いんですよ
だって、少年の頃に輝いたような目で見つめていた
そんな気分が甦るんだから
その平和台球場だったのが、今や福岡ドームに移って
感情移入しない訳がないでしょう!」と福岡愛を語られてますが

岸川さんも「福岡を出て行った人たちが
みんな博多を懐かしみ、大切にしている
福岡ドームのオープンフェスティバルも、ビッグ4の市民への感謝だったし

あまり喋らない陽水も[山笠があるけん博多ばい]と言ったりして
会場を沸かしている
武田は照和での旅立ちコンサートで
[海援隊は九州文化を作るために上京するのです]と宣言した

財津もよく帰って来ます
長谷川法世さん原作の[走らんか]のテーマソングも作ってる
甲斐よしひろも博多想いは一番で
本当に彼らは、博多っ子の心情がある嬉しい人たちですね」と話されてます

この福岡ドームでのドリーム・ライブについては
以前にご紹介した通りだけど
この番組の中で、そもそものきっかけになられた主賓の野見山さんいわく…
「みんな舞い上がっていた(笑)
フツーにやってたのはタモリだけだった(笑)」

ちなみに、このイベントが終わってから
武田さんがお倒れになってビックリされたそうです(汗)
ある意味、他の福岡出身の方々の誰よりも
一番「博多」を背負っておられる方だから(笑)
力が入っていらっしゃったのかも知れませんね(笑)
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