ボクの奥さん

ボクの奥さんは、甲斐よしひろさんの大ファン。そんな彼女との生活をお話したいと思います。

機関紙BEATNIK(Vol.7)その3

2016-09-30 06:06:11 | 日記
甲斐さんいわく…ある時、ツアー先で
松藤が「小林よしのりさんっていう漫画家がいるんだけど
同級生じゃない?」って言い出して

「いやいや」と言ってたら、筆者の写真を持って来て
それが小林君だったの(笑)
「東大一直線」が始まって1年も経ってなかったと思う

一方、小林さんは「ワシも甲斐がデビューしたのはもちろん知ってたし
【バス通り】を最初に聴いた時に、すぐ福商を思い出してね(笑)」
…と話されると「あなたは僕の彼女も知ってますしね(笑)」と甲斐さん(笑)

小林さんは「そうそう![福商だ、これ、いい歌だなあ〜
あの彼女のこと歌ってんだ]って思った(笑)」とおっしゃってるんだけど

アマチュア時代の甲斐さんの【バス通り】をご存知の方には
甲斐バンドの【バス通り】は馴染まなかったらしい(苦笑)

ともあれ…「それからほどなくして小林君の編集者に辿り着いて
小林君が上京するたびに会うようになったんですよ」と甲斐さん

「そのたびに、あまりに刺激的で幸せそうな顔をしてるので」

あるいは「東京に来る度に文句を言うんです
[福岡はつまらん、博多はつまらん
芝居もないし映画も観れんし]って(笑)
東京で盛り上がるほど寂しくなるみたいで(笑)」

「[東京進出するべきだ]って、しつこく勧めてた」ようですが
機関紙によると…「彼を決定的に福岡に押し留めた理由は
福岡の自主制作映画グループ[フリーアート]の存在だった」

「高校時代から大の映画ファン
プロになってからは年間100本の映画を観ていた
プロ4年目に[ズームイン朝]のレポーターと香港に取材に行き

レイモンド・チョウ、マイケル・ホイ等に
[会って話をしてたら、自分でも映画を作れるんじゃないかって気になって

たまたま出かけて行ったフリーアートの上映会で
ぜひ協力して欲しいと声をかけられたりもしまして…]映画作りに参加

ほんの軽い気持ちが、ふと気がつくと
いつの間にかプロデューサーに担ぎ上げられていた
ならばと本腰を入れ、正面から映画作りに取り組んだ

第一作8ミリは、ヤングジャンプが相乗りして、上映会をセッティング
[ますます真面目に取り組まなければならなくなって]ニ作目に突入
東京から16ミリのプロが助っ人に参上

[彼らのパワーは確かに凄い
ロックしているというか、妥協がないというか]
そうして更に奥深くフリーアートに介入して
2本目も8割を撮り終える」ことに…

「結果的に巻き込まれてしまった形だけど
漫画を描くっていうことには、何をやっても役に立つから」と小林さん
甲斐さんのおっしゃる「無駄なこと」と同じですね

上京されてからも「映画の脚本を頼まれて」いらしたらしく
甲斐さんが時々、小林さんのマンションに遊びに行かれていた頃

「[逆噴射家族]だと思うんだけど
その脚本を全部語ってくれて、物凄く構成力があった
カメラの位置まで見えて来るくらい語れるんですよ

例えば、コッポラやスピルバーグは
ちゃんと絵コンテを描いて監督する訳じゃないですか
小林君は、ちゃんと絵コンテが見えるような構成を出来るんだと思って
ちょっと悔しかったの(笑)」と明かされてます

もっとも、小林さんによれば
「あれは石井聰互に案を話したのよ
なるべくお金のかからない映画の撮り方を考えて(笑)

そうしたら石井が長谷川和彦に言って
長谷川が[会いたい]って言って来て
[脚本を書いてくれ]と言われたからやることになった」んだとか…(笑)

ちなみに、小林さんは「観る方は、コッポラや長谷川和彦といった
[ねばっこく][骨太な]監督」がお好きらしい

そうそう!この機関紙の4コマ漫画に…
〜甲斐が電話して来た〜「今EPができたよー、CMで流れるけん」
「ほんとォー?歌ってんしゃい!」
〜電話の向こうで甲斐さん【シーズン】熱唱(笑)〜

「良っかじゃなかね、ワシもお礼に原稿のセリフ読んじゃろーかね」
〜擬音まで忠実に読み上げ(笑)〜
「良っかーっ、小林ーィ」
「そうやろ?甲斐、2番歌ってんしゃい」
〜再び甲斐さん熱唱(笑)〜

そして最後に「後で、甲斐と俺とどっちの方がアホやったか(笑)
深く考えましたが、わかりませんでした」と書かれていて(笑)

歌はともかく「漫画を聴いて」内容が判るのかな?(笑)と思っていたけど
「カメラの位置まで見えて来るくらい」の構成力ならナットクです(笑)

それはさておき…
「漫画を描くというのは、日記をつけている訳じゃなくて
カンケリやってる10人の奴らを
どうやって俺の縄跳びに引き込むかだから」と小林さん

「そういうキャラクターを作り上げるために、あらゆる努力をする
漫画を描く合間の少ない時間に、莫大な量の本を読み
映画を観て、人に会い、貪欲に知識を摂取して行く」ことについて

「はじめは自分が生きて来た所で描ける
だけど、そのネタってのは、わりと早く尽きちゃうんですね
自分自身が一ヶ所に落ち着いてしまったらダメです
自分の中の問題意識まで見えなくなってしまう」と話されてますが

「ロックは問題意識」や「お笑いとロック、漫画と映画は
時代の一瞬一瞬を切り取るという点で同じ」という
甲斐さんの言葉を思い出しました

余談ですが、甲斐バンドのアルバム
「この夜にさよなら」に収録されている【氷のくちびる】に
小林さんが「ミュージシャン」としてクレジットされている件(笑)

「その時、小林君がスタジオに僕を迎えに来たんですよ
食事かなんかの約束をしてて…
レコーディングがズーッと伸びてて申し訳なくて
[ナンか手伝わない?]って言ったんです」と甲斐さん

【安奈】の時の浜田省吾さん状態だったみたいだけど
ただ「何かを手伝って貰った記憶があるんですよ
何かをやって貰ってボツにしたのかも知れない」らしい…(笑)

セイヤングの投稿で、小林さんが
【HERO】を弾き語りなさってるとお知りになり
その映像をご覧になって「ギター弾けるんだ?」と
ずいぶん驚いておられたくらいだから
ギター担当ではなかったんじゃないかと…?(笑)

小林さんは【ブルーレター】や【観覧車'82】など
「ストーリーテリング、ドラマツルギーがある」曲がお好きだそうで

「甲斐が歌っている凄くロマンチック曲の中の男と女の関係に憧れてしまう
素敵だなあとか、こんな恋愛いいなあとか空想に浸ったりしてる

でも、そげんことを人前に出て喋ったり、表現するのはダメなんたいね
いつも密かに聴いて憧れている」と記されてます

「ストレートに物事を見てしまうのはテレちゃって
恥ずかしい気分になってしまうとたい
男と女のことも皮肉って見てしまうとたいね」とおっしゃる小林さん

表現の仕方は違っていても、内に秘めておられるものは
甲斐さんと同じものなのかなあと…
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機関紙BEATNIK(Vol.7)その2

2016-09-29 14:33:00 | 日記
「自分も甲斐みたいになろうかね」とギターを手にされ
フォーク・グループを組まれた小林さん

「チューリップがレギュラーだった頃の[ヤング・パンチ]に出演
ウィッシュの次が小林よしのりグループという悲劇的めぐり合わせの中
ウィッシュのレベルの高さに、ただただ圧倒されて
自分にスポットライトが当たったら
歌詞を全部忘れて立ち尽くしていた

ここでフォーク・シンガーの道にザセツする
金にならん、ここは甲斐よしひろに任せておけばよいのだ
…と、ハッと我に返り、再び漫画の世界へ没頭する日々が始まった」そうです

「嵐の季節」の中の対談で
「ワシは漫画家になるために商業高校に行った
進学の勉強をしなくていいというので選んだから

そうは言いながら福岡大学に入学して…
担任の先生に[お前、漫画描くんだったら
大学に行って本を読め]って勧められたのよ」と小林さん

甲斐さんは「偉いね、その先生、その通りだもんね」とおっしゃってますが
同じ高校の同じ学年の先生ですよね?(笑)

ともあれ「大学紛争の挫折感が色濃く残っていた福大で本をムサボリ読む
ひたすら読みまくり、漫画を描き続けて、各誌に投稿
月1本のペースで入選か掲載かを繰り返し
大学時代は仕送りと賞金で食い繋いだ

卒業の年、初めてギャグ漫画を描いて[赤塚賞]に応募
最終候補まで選ばれるが[絵がヘタ]で受賞は逸する
しかし、それが[少年ジャンプ]編集長の目にとまった

その年の6月から新連載[東大一直線]が始まり
漫画家小林よしのりが誕生した」そうだけど

小林さんいわく…デビューするまで
漫画は下絵を描いてからペンを入れるということさえ知らなかった
いきなりペンを入れた原稿を肘で擦ったり…(苦笑)
それにしてもラッキーなデビューだった

…というのは「普通、著名漫画家のアシスタントを数年やって
やっとデビューか転職…が、この世界の常識
尚且つ、一度漫画家という肩書きをおし戴いたから
それでズーッとメシが食えるかというとトンデモナイ話

毎週毎週、今週のベストテン投票があって
9位10位番外あたりが10週続くと、すぐ降ろされる

しかも、他の漫画誌もベストテン投票を敢行し
それはそれは厚い新人予備層を持っているから
一度切られて浮上するのは至難の技
毎年、50人の新人がデビューしては消えて行く」んだとか…(汗)

「凄いヤクザな商売や
これじゃ芸能界かビニ本のモデルと同じや」と小林さん

「要するに多数決バンザイの精神が、ベストテン投票な訳でしょ
それを気にしながら漫画を描くなんて冗談じゃない」と思われたらしく
ここにも「好きなことを職業にした」方の悩みが…

前の対談でも甲斐さんが「僕はロック第一世代だけど
それはロックをやった世代じゃなくて、ロックを売った世代

彼も同じで、手塚治虫先生は別にして
漫画が過小評価された時代から
ある種の大衆的なものにした世代は前にいますけど

彼らはエンターテイメントとして確立させた[ジャンプ第一世代]というか
そこは凄く相通ずるものがあるんですよね

やっただけじゃダメなんだ
売らないと、というのが僕らの考え方
僕らだったらチャートに入れるとか
彼らは発行部数が100万部以上の中で、どう足掻いて描いて行くかとか

[ジャンプ]といえば、毎週人気投票が熾烈ですよね
でも、人気投票で語ったことは一度もないもんね

[どういうものを描くんだ]ってことですよ
秋本治君も同じでした
みんなそこはハッキリと言ってましたね」と話されてます

その豪華な漫画家陣との飲み会は
小林さんが打合せのために上京された際に催されていたようで
「デビューから6年、小林よしのりは
出身地である福岡で漫画を描き続けた」

「最初に声をかけてくれたジャンプの編集長が
[わざわざ東京に出て来る必要など全くない]と言ってくれて

今から考えると、いつ人気投票で落とされるか判らない新人を
東京に呼んでしまっても路頭に迷わせるだけだから…と思ったんでしょうね」とおっしゃってますが

それだけでなく「漫画界に根強くある専属制の問題があった」みたいで
「新人漫画家の9割9分までが、どこかの出版社の専属になっている

専属にならないと掲載のお声はかからない
新人予備軍の山を掻き分け、フリーで売り込む無頼漢の入る余地はないのである

すると、そこそこの専属料を与えられて
他の出版社に果敢に売り込む気力をもぎ取られ
編集者と人気投票にシッポを振る
軟弱サラリーマン的漫画家が量産されるのである

全ての専属漫画家がそうだとは言わないが
漫画家 = ハングリーな無頼漢のイメージは消失した」ようで

小林さんいわく…学校卒業したら即デビューだから
漫画家や出版界のそういったことって全然知らなかった

ただ、2〜3ヶ月に1度、東京に出て来て、漫画家を紹介されても
心底、面白い奴にめぐり会わないんですね

編集者とケンカもしきらんオジンみたいなのばっかりで
それより、福岡の映画仲間や甲斐たちと話してた方がよっぽど面白い

…という事情がおありだったそうですが
その仲間内の飲み会で、くらもち先生を泣かせちゃダメですよね(笑)

余談ですが…後の機関紙で
萩原健太さんが、漫画界に苦言を呈されていて

要約しますと「パワフルなギャグ漫画が少なくなった」
「今、少年漫画界でウケている
軟弱学園ラブコメほど閉塞的なものはない」

「二次元最強のポップカルチャーである漫画の可能性を大きく拡げた
[がきデカ]の攻撃と破壊と超越
そして、現実に対する切ない眼差しが失われようとしている」

「あのテの作品は今やほぼ絶滅状態だ
生き残っているのは小林よしのりと
あと、内崎まさとしが、まあ頑張ってるかなという程度
僕のような世代の漫画フリークにとっては、この上なく淋しい事態だ」

「軟弱に成り下がった少年漫画界に
キツーイ一発をかましてくれ」…と記されてますが
前述の「サラリーマン的漫画家」の増加がこの原因なんでしょうか?

…にしても「こまわり君」が、そんなに偉大な功績を残していたなんて
考えてもみませんでした(苦笑)
「死刑」にならなくて良かったです(笑)
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機関紙BEATNIK(Vol.7)その1

2016-09-28 13:00:00 | 日記
「小学校、中学校、高校と甲斐よしひろと同期の同窓生」と言えば
そう、漫画家の小林よしのりさん

1982年6月号のインタビューは
後にこの機関紙に4コマ漫画を描かれることになる小林さんの特集です

「生家は法照寺という[今でも猿が出る]お寺で、オヤジは公務員
で、毎日同じのサラリーマンにだけはなりたくなくて…」と小林さん

ご実家が理髪店で「日銭を稼ぐ大変さを知っていたし、彼女もいたんで
将来を見据えサラリーマンになろうとした」甲斐さんとは正反対ですね(笑)

でも「福岡商業高校」を選ばれた理由は
「商業高校だと、珠算何級、簿記何級というのさえ取ってしまうと
後は暇なんで(笑)漫画に没頭できると思った」小林さんと

「入るのは少々大変だが、入りさえすれば遊べる」とお聞きになって
「高校でバンドをやろうと決めていたので
即座にそこに照準を定め、まんまと入学に成功した(笑)」甲斐さん

もっとも、甲斐さんは「そろばんは右手で」と言われて
「感覚としては、脳がフリーズする感じ」
「無理に右手を動かそうとすると、大量の脂汗が出て来る」という
「パニックに襲われ」て大変な思いをなさったみたいだけど…(汗)

ともあれ、甲斐さんによれば…
「その学校はクラブに入るのが義務付けられていて
そこにちょいワル仲間のTが
無線部に入ると何もしなくていいという耳よりな情報を持って来た

ある昼下がり、わざとらしいヤル気風な顔つきでクラブのドアを叩くと
ぬるい空間の中に見知った顔の男が立っている[小林よしのり]だった

彼はもともと同じ小学校で
中学の後半はMという男を挟んで、よく3人でつるんでいた
僕は思いがけない場所に知り合いの男がいたのをいいことに
意を強くし、何もせずギターばかり弾いていた」そうですが

この機関紙で小林さんは
「入学と同時に何故かひょっこり入部してしまった無線部に行ってみると
無線どころか、ギター片手に吉田拓郎の歌を年がら年中歌ってる奴がいる

時はあたかもフォーク・ブーム
ギターを弾けない奴は男じゃない、女にモテない、人間じゃない(笑)
無線部の実態は、そのギターを隠しておくための場所であった

その中で、率先してギターを弾いていたのが甲斐よしひろである
それがまたカッコイイ
漫画をシコシコ書いているより断然カッコイイ

で、自分も甲斐みたいになろうかねと思って
福商で3年間、ギターを弾いてしまった
フォークの方が女にモテたからね(笑)漫画は地味でしょ?
描いてるところを見せたってカッコよくも何ともない

だけど、シンガーはライブがあるし、それがまたカッコイイ
で、絵の描き方も3年間ですっかりヘタになって
それが大学1年まで尾をひく訳です」と話されてます(苦笑)

インタビューの前半には
「手塚治虫に夢中になっていた小学生の時から
将来の仕事は漫画家と固く決めていた

加えて小児ぜんそくである
飛んだり跳ねたり、動いたり、はしゃいだり
喋ったりの度が少しでも過ぎると咳き込んで
布団の中での生活を余儀なくされる
季節の変わり目は、いつも20本の注射

病弱な子供は、苛められてイジけるか
苛められないような特殊技能を持つしかない
小林少年の漫画熱も布団の中で加熱して行った」

「たまにヒョコヒョコと出かけて行っても
そう簡単には自分の方に向いてくれない
それをどうやって自分のペースに巻き込むか、寝ている間に必死に考えた」

…と、小林さんにとって漫画は
「自分の身を守るための唯一の切り札だった」ことが明かされてます

それが「日本一、ヘタな絵を描いて
デビューした自信はありますね(笑)」とおっしゃるほど
音楽に夢中になられたようですね

「高校の3年間、脳の右半球ばかり伸ばそうと無駄な努力をしていた訳で
甲斐は抽象的な右半球に神経細胞がしっかり伸びているだろうけど
漫画家に必要なのは左半球なんですね
ストーリーの展開のさせ方、コマ割り、知識量…」と小林さん

…って、甲斐さんは左ききでいらっしゃるし
そろばんパニックに陥られた反面
自然と右半球の細胞は活性化されていたんじゃないかと…?(笑)

それはともかく、石田伸也さんの「嵐の季節」の巻末に掲載されていた
甲斐さんと小林さんの対談でも

「小学校からの知り合いで
高校は小林君の家の前を通って行ってました(笑)」とか
「彼と僕の間にある友達がいて…」とか
「無線部は籍を置くだけで何もしなくていいと聞いて」には
「全くワシも同じ動機(笑)」と話されてますが

「僕、小学校の頃かな?
小林君が一番に描いた漫画を見てるんですよ」と甲斐さん

「小林君から見せられた訳じゃなくて
彼は何人かで漫画を描いていて、回り回って僕のところに来た
それが一番最初に小林君に興味を持ったきっかけで」とおっしゃると

小林さんは「ワシは甲斐が音楽やってたのは高校になって知ったよね
小中学校の時は[本当に生意気で元気な奴]みたいな感覚でいたけど(笑)
才能そのものを知って興味を持ったのは高校だよね

ギターを左で弾き始めて[なんて弾き方をしてるんだ!]みたいな感じとか
[とんでもなく上手いな]とか
ワシもギター弾いてたんだけどね
学園祭なんかで甲斐よしひろはソロでやって
ちょっとレベルが違ってた」と話され

甲斐さんが、当時組まれていたバンド
「ノーマン・ホイットフィールド」のメンバーのお名前を挙げられると
「その3人、全部無線部じゃ」と小林さん(笑)

甲斐さんは「あ、そう?(笑)そうなんだ
そこで知り合って繋がったんだね(笑)」と全く覚えておられないご様子

でも、小林さんは「だから無線部から生まれてるんだよ
今のミュージック・シーンの重要なバンドは(笑)」と…(笑)

お互いに年齢を重ねられ、忌憚なく語られておられるんだけど
奥さんによれば、甲斐さんは小林さんとの関係を
学生時代ずっと反目…というか、目障りな奴というか(笑)
お互いに意識していらしたものの
友好的ではないような口ぶりで話されていたらしい

実際、後日のこの機関紙に小林さんが
「甲斐とボクの不思議な関係」というコラムを書かれていて…

「甲斐と僕は、ずっと同級生やった
ばってん同級生だからといって、仲良く話したりするほどの仲ではなかった
反対に何かナマイキな奴だなあと互いに思っとったろうや

とても目立ちたがり屋だったけん
自分より目立つ奴は敵視する感じで、互いを見とったと思う
僕は小学校からマンガを描くことで目立っていたし
甲斐は音楽をやっていて目立った

甲斐の場合、目立つというよりは、物凄く自己顕示欲が強かったい(笑)
だけん、僕が何かする時は、甲斐は自分より目立ってるんではないかと
いつも気にしよったごたる(笑)

甲斐は忘れとろんばってん、高校の体育祭の時
バカデカイ看板を僕が描くことになったったい
入場門なんかに「巨人の星」とか当時流行っていた
マンガの主人公を描くっちゃけど
その絵を描いてる時の僕は物凄く目立った、立派な姿やった(笑)

描いてた場所が、校庭のそばにあった大きな広場やったけん
生徒がそこを通り過ぎる時
[ワァーすごい]とか言って見よったい、尊敬して(笑)
それが甲斐にとって気に食わんかったらしいったいね、これが…

ある日、僕が絵を描いていると、全然何の意味もなく
そばに置いてあった絵の具を入れたバケツを
[なんな、こげんこと描くさ!へへーん!]とか言って
蹴ったくって行ったんだ(笑)

だから、高校くらいまでの頃って
仲良かった訳じゃなかった」みたいです(笑)

「バケツを蹴ったくって行った」話は
甲斐さんが何も触れていらっしゃらないので
ホントのことかどうかは判りませんが
ご自身のバンドメンバーが「無線部員」だったことを
忘れておられたくらいですからねぇ…(笑)
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機関紙BEATNIK(Vol.6)その6

2016-09-27 08:19:00 | 日記
甲斐バンドをメインに据えたとはいえ、設立されたばかりの「Big 1」は
「大喧騒の12月が過ぎ、明けて1月〜2月、ステージの農閑期がやって来た
借りた事務所に落ち着いてみると、ガスはないし、電気も引いてない状態

昼間は、せっせと機材作り、機材直しに励み
夜は1本のローソクを囲んで、200円で買えるだけのツマミを買い込み
酒を唯一の暖房にしながら、深夜までミーティング

[それを笑って話せるようになるか
やっぱりあの時、酒なんか飲んでたからダメになったと思っているか
二つに一つだな、という話をよくしましたね]

やがて3月、以前に何回か手掛けたことのあるアリスから
[ぜひ全面的に]のお声
甲斐バンドとアリスを2本の柱に、単発の仕事も色々と入って来た

[会社を辞めた途端に上手く行っちゃって
むしろ、今が一番気をつける時だと思う]
[褌を締め直せ]は、まず自分への戒めだった」…と書かれてますが

当時の甲斐バンドとアリスって
年間の観客動員数No.1の座を争っていたほど
ライブ本数の多い2組ですよね(笑)

ともあれ「楽譜は音楽をステージでやる人間が見るもの
俺は音楽をやる人間じゃないから見ない」と前島さん

「甲斐バンドをやり始めた頃に【ポップコーンを…】の
ストロボのカットアウトのタイミングが判らず
甲斐よしひろは何度もギターを弾きながら
[ハイ、ここ]と繰り返し歌ってみせる

[でも、俺はシロートだからさ
とにかく演奏終わったら消すよって(笑)
大将もガックリ来てたみたいだったけどね(笑)]」
もちろん、甲斐さんは「大丈夫か?」と不安になられたそうです(苦笑)

この機関紙以外の資料によると…
「[稽古場で聞かされた時に、大体アカリのイメージは決まるんです]
自分の身体とカンで照明プランを作って行く前島の
[全体を見据えてのライティング]には定評がある

[1曲1曲で照明を組み立てて行くと
全体の起承転結が出来ないんだ
僕たちは、25曲を見ながら組み立てるようにしている
例えば【冷血】の照明はこうだから
その前の曲はこう終わった方が良い、という風にね]

そのため、同じ曲であっても
並びによってはブルーをオレンジに変える日もあるという
[でも、照明はステージの上にいる人を照らすためのものだから
大将が邪魔だと言えば、そのプランはダメなんだ]と
最終的には甲斐の判断にゆだねる

確認作業をやりながら、照明プランを作って行く
そんなやり方を今も残す数少ないアーティストは
甲斐よしひろ、そして矢沢永吉だと前島は言う」

「照明なんかが話題になること自体、そのコンサートは失敗だよね
[照明が良かったですね]なんて言われたら
[判りもしないのに偉そうなこと言うなよ]てなもんだよ(笑)

そんなことより[良いコンサートだったね]って言われた時の方が
自分が褒められたって思ってるよ」と前島さん

新国技館の柿落としライブの際
打合せでは、天井から照明を吊るせると言われていたプランにNGを出され
照明イメージが根底から覆った上に

急遽、櫓を組むことになり、そのスペース分と死角になるスペース分の
入場者数が減ったために、1日追加しなければならなくなったという
裏方のバタバタにも関わらず

かなりの人数の方が「照明が良かった」と話されていたらしく
まさか直前に照明プランが白紙になった
「苦肉の策」だと悟らせないほど素晴らしいものだったようだけど

当の前島さんは、某イベンター社長と
当時の甲斐バンドのマネージャー氏の方をご覧になって
「あんな非常識な小屋でやろうと言った奴の首を絞めてやりたい」
…と、おっしゃったんだとか…(笑)

甲斐さんは、ご自身のライブ体験から
照明にこだわって来られた方ですが「出発コンサート」の際すでに
当時、チューリップの照明を担当されていた方に
「絶対に他のアーティストと違うアカリをやって下さい」とおっしゃったらしい(笑)

デビュー当初から「いわゆる照明プランナーと
一緒に動いてたりとかはしてたんだけど
彼らはあまり情熱を感じさせてくれなかったのね
移動の列車や本番前に博打ばかりやってるとか
何だ、コイツらと思ったんですよ

でも、前島良彦と出会って、状況を変えて行った
要するに、欧米を凄く意識してたんです、彼も僕も
ライティング良くないと絶対ダメだよねって…

ステージセットでおどかすのは簡単だけど
あれは結果的に、視角的な世界観を限定するばかりで
自分で自分の首を絞めてるようなものだもん

そういうことを判ってる前島良彦との出会いっていうのは
本当に幸福なものでしたね、僕も色々教えられたし」と甲斐さん

「[100万$ナイト]の武道館の後からですかね
照明のためにイントレ組むことになって
その上に人がいて、ピンスポで僕を追う、みたいな…
そのピンスポを操作してるスタッフのシルエットも全部、客に見えてるんだよね

ライブが始まる時、会場にBGMが流れて
普通なら、僕らが出て行くんだけど
スタート時間になると、まずその照明スタッフ達がイントレを登り出す
彼らがスタンバイするところからショーが始まる
今考えれば、完全に格闘技系ですよね(笑)

でも、格闘技でさえ、当時はまだそんなことやってなかったんだから(笑)
[全部見せちゃえ]って、前島良彦の発想ですよ
そういう意味では、古いやり方を打破しようと
凄く意識的に変えようとしてましたね

BIGGIGの時、前島良彦が[建物を染めれば良いじゃん]って言ったんですよ
スタッフは大変だったと思う
でも、キレイでした!めちゃめちゃキレイ!

歌いながら[キレイだなぁ…]って思ったもん
僕、見る方に回りたかった(笑)
あんなこと、いまだかつて一度もないですよ」と話されてます

その前島さんが「ミラーボール」にこだわっておられることは有名ですよね(笑)
初めて【100万$ナイト】を聴かれた時に
一言も口をきかずにスタジオを出て行かれたことや

「これはミラーボールの曲だよって、心底思ったのは
沢田研二の【ある青春】と甲斐バンドの【100万$ナイト】
この2曲だけですね」とおっしゃったこと

「反射した光が遠くまで届くようにしたい
動きだって、横だけじゃなくて縦にも回るようにしたい」と
オリジナルの「三尺玉」を作られたこと

「ミラーボールを照らすのは見送って欲しい」と言われたにも関わらず
箱根・芦ノ湖でのライブの「象徴」にしてしまわれたこと

「武道館ライブが終わって、観客が外に出た瞬間にミラーボールを回したい」
…という86年の解散時には許可が下りなかったプランを
甲斐さんの30周年でリベンジなさったこと…等々、枚挙に暇がありません

でも、甲斐バンドのライブで初めてミラーボールを使われたのは
WOWOWが「AGAIN」の生中継終了後に放送していたお宝映像にあった
シングル発売前の【LADY】みたいです

それまでずっと「もっと重たい感じに
ライブを締めくくれるような曲」を希望されていたそうですし
初めての野外ライブとあって、ミラーボールを使われたのかも知れませんね

「自分が感動した曲は、お客さんも感動させたいから
当然、思い入れの照明になる
ステージ上のスターの思い入れと、こちらの思い入れが合って

曲が終わったら、まず客席がシーンとなって
それからワーッと拍手が沸き起こった時、もうジーンと来ますね

意味のある仕事なんて大袈裟なものじゃないけど
少なくとも、その場に俺がいる何らかの意味を見つけられる仕事でなければ
続けられないし、やってる意味がないでしょ?

とにかく現場だけは離れたくない
機材もホールも刻々と変わっているから
机上だけ、手持ちの知識だけでは
どうしたって生きた照明は出来ない
現場を辞める時は俺が照明を辞める時だと思う」

…これは、1982年、38歳の前島さんの言葉ですが
1999年のインタビューでも
「仕事について思うのは、使える人間でありたいということだけ

求められたいとか、そんな偉そうなことじゃなくて、仕事を貰った時に
チャンと仕事をやってるなって思われる人間でありたい
現役の感覚を持ち続けたい」と話されてます

が、その後…「甲斐よしひろから[一緒に出来なくなった]って言われた時は
いよいよ、その日が来たかって感じだったね

でも、俺だけの都合で言えば、自分の将来のためにも
[お前はもうダメ!]ってだけは言われたくなかったし
甲斐よしひろはそうは言わなかったからね

その後よく2人で蕎麦屋で会うようになった
俺は初めて仕事としてじゃなく、友人として
甲斐よしひろと話が出来るようになったんだ」と前島さん

86年の甲斐バンド再結成の際に
甲斐さんから「またやってくれない」と持ちかけられた時
しばらく現場から離れていらしたものの
「リハビリやらせてくれたら」と快諾なさって今日に至っておられます

ずいぶん長く引っ張ってしまいましたが(苦笑)
1978年3月から、若干の期間を除いても
長きに渡って甲斐さんのステージを支えて来られた方とあって
これでも書き切れないくらいです(笑)

最後まで読んで下さった皆さま、ありがとうございました!m(__)m
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機関紙BEATNIK(Vol.6)その5

2016-09-26 06:55:00 | 日記
前島さんが、甲斐バンドのステージ照明を手がけるようになられたのは
当時のマネージャーでいらした武石さんが

舘ひろしさんのコンサート会場で、偶然お会いになった
沢田研二さんのマネージャーMさんに前島さんを紹介されたことがきっかけだったそうです

Mさんが、ピーナッツのマネージャーでいらした頃
前島さんがツアーに同行され「悲喜こもごもの珍道中を続けた仲」らしく

たまたまピンチヒッターとして
沢田さんのステージを担当なさった時にMさんと再会
沢田さんご本人も前島さんのライティングを気に入られたことから

「8年間、ジュリーのステージをじっくりとメインに据え
[沢田の前島]は、業界の高い評価を得る」ようになられたんだとか…

ともあれ、その初対面の際に武石さんから
「[甲斐バンドをやっています、今度お願いします]って
突然言われた時は、てっきり社交辞令だと思ってたんです」と前島さん

「ところが、数日後、本当に電話がかかって来て
正直、よく知らなかったから(笑)
急いで四国までステージを見に行きました」とおっしゃってるんですが

以前にご紹介しました通り
「イモなバンドだと思ったんです(笑)悪いけど…
でも、逆に俺ならこうするっていうのが沢山あった
それがやりがいになりそうな感じだったんです」
…という第一印象も語っておられました(笑)

ちなみに、甲斐さんの25周年のインタビューでは
「四国に行った時、それまでずっと照明をしてた人に会っちゃって
凄くバツが悪かったのと
ずいぶん威勢のいい連中だなと思ったのを覚えてる」と答えていらっしゃいます

それにしても、その高松でのライブの僅か1週間後
もう甲斐バンドの照明を担当されてるって
やっぱり何か引き合うものがおありだったんでしょうね?

そして「入社当時と何ら変わることのない[ケンカっ早さ]と
一度言い出したらガンとしてキカナイ一本気で
入社20年目、中堅幹部の座を目前に控えた12月
[社内の卑屈なやり方が気に入らない]と、遂に退社を決意

前島氏を慕っていた後輩たち15名も[それなら俺も]と言い出した」
会社側から[お前、引っ張ったな]と15名共々、懲戒免職を言い渡される羽目になる

その時は課長で、会社側について必死に引き留めようとしていた兄貴が
15人がバラバラに仕事をやろうとしても潰されるに決まっている
それならいっそ、懲戒免職スタッフで会社を作ってしまえと
自分も退社し、まとめ役を買って出て[Big 1]設立の運びとなった

しかし、時は12月…1年中で一番コンサートが多い時期であり
おのずと照明屋も一番忙しい時(汗)
既に引き受けている仕事を[東京舞台照明]がやるのか
[Big 1]がやるのか、の丁々発止の中

それでも受けた仕事はとにかくこなさなければならない
兄貴が家を担保に金策し、機材を購入
その新しい照明機材を持って、ステージの仕込みをハシゴして
懲戒免職1週間後には、Big 1として横浜体育館で仕事をしていた」そうです

「その時[東京舞台照明]という会社にではなく
前島良彦という個人に仕事を頼んでいたのだから
前島が辞めたのなら、辞めた前島に仕事を頼むと

最初に言ってくれたのが、甲斐バンドと沢田のチームで…
だけど、沢田の方は色々なシガラミがあったりして
この頃から、俺のメインの仕事は、沢田から甲斐になった訳です」と前島さん

後の甲斐報によると…
「音楽の仕事で、これが一番最初の仕事だと思うのは
佐良直美がレコード大賞を取った年のツアーで
転機になったのは、沢田研二の仕事かなあ」と振り返っておられましたが

甲斐バンドをメインになさった経緯について、田家秀樹さんは
「既成組織を選ばざるを得なかった沢田研二側と
前島良彦という個人と、個人が作る集団を選んだ甲斐バンド
言ってみれば[セッション・ミュージシャン]と[バンド]の違いだろう

それは、ゼロから始めようとする者への共感だったのかも知れない
そして、一緒に仕事をして来た者への[バンド的な]
スジの通し方だったのかも知れない」と記されてます

ともあれ、それ以来ずっと「手を抜かないバンドですからね
アカリ屋としての俺たちも、そうやって育って来たと思います」とか

「甲斐さんって人は、必死にやんないとついて行けない人だね
こんなに長くつき合ってて、イヤになってないんだから
やっぱり凄いと思うよ」と話されていて
仕事だけではない繋がりがおありなんだなあと…

余談ですが…前島さんが「初めて音楽の照明チーフ」となられた
佐良直美さんのツアーは、レコード大賞受賞の翌日から始まったそうですが

「四屯トラックの楽器車などあるはずもなく
列車の乗り換えともなると、大慌てでバスドラムを運んで歩いた

ホールに着いて、バイトにポジションの指示をして、ホッとひと息
楽屋でお茶を飲んでいたら、ステージが終わっていたりして…
運び屋の方がむしろ本業みたいなツアーだった」らしい(笑)

その佐良直美さんの【いいじゃないの幸せならば】についての記事によれば…

「あの子」という恋人がいながら「あなた」との恋愛に溺れる女性
「冷たい女」「悪い女」「浮気な女」と人から言われても
「いいじゃないの幸せならば」という「とんでもない歌詞」は

「恋愛を歌っていながら、どこか投げやりな退廃的とも言える匂いを漂わせ
曲名にしても、幸せを肯定しているのか、否定しているのか
単純な解釈を許さなかった」ようです

そもそもは、当時の佐良さんが司会を務めておられた
深夜のバラエティ番組の中で歌う「今月の歌」として作られ
レコード化されるかどうかは未定だったのが
大変な反響を呼んで、急遽リリース決定

「全国に飛び火した学園紛争が収束に向かいつつあり
社会が変わるという希望もしぼんで行った
[時代の空気をスポンジのように吸収したのが
この曲だったのかも知れません]と佐良さんは語る

作曲のいずみたくさんは
[結果的にレコード大賞を受賞したが
これほど賛否両論が伯仲した例は他にない]と記している」

…と書かれているんだけど、1969年10月には
ランドセルを背負っていた奥さん(笑)
曲の内容よりも「いいじゃないの幸せならば」というタイトルが
流行語として学校中で使われていたことしか覚えてないらしい(笑)
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