読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

「大江健三郎の人生」

2006年02月15日 | 評論
本多勝一『大江健三郎の人生』(毎日新聞社、1995年)

じつに面白いものを読んだ。もっと早くにこのような著書があるのを知っていればよかったのにと思ったくらい、面白かった。

本多勝一は若い世代ではあまり知られていないかもしれないが、私のような40代から50代の人間には、朝日新聞のジャーナリストとして、ジャーナリズムとはかくあらんというモデルと言ってもいいような人である。ベトナム戦争のルポを始めとして「殺される側の論理」とか、アメリカは合衆国ではなくて合州国であるという『アメリカ合州国』など、われわれの常識を打ちのめすような強烈なルポには、今回読んだこの著書にもできるだけ執筆者の感情を入れないようにしたとは書いてあるが、まさに執筆者の強烈な個性があればこそと思わせる衝撃力があった。

本題に戻ると、大江健三郎である。この著作は、本多が60年代の終わり頃、ベトナム反戦運動の高まっていた時期に、大江健三郎が見せた不可解な対応に本多がちょっとした疑問を感じたことに始まる。小田実で有名な「ペ平連」をはじめとする反戦平和の運動が盛り上がるなか、当然戦後民主主義者を自認する大江もそうした運動を支持する発言をしていたが、同時にこうした反戦平和運動を敵視し、様々な形で運動つぶしの急先鋒に立っていた新潮社にたいしてなんの対応もしないで新潮社から本を出しつづけていた。これが本多が最初に感じた疑問であったが、それはその十数年後の1982年の反核運動の盛り上がりのなかで増幅されることになる。その頃の反核運動に冷笑を浴びせるキャンペーンを張ったり、南京虐殺を全否定するキャンペーンを張っていた文芸春秋社の主催する芥川賞の選考委員を大江が長期にわたっていすわり、それを降りてからも、三島賞の選考委員に江藤淳とともになった頃には、大江にたいする本多の疑いは決定的となって、この本に収録されているような公のものとなっていく。本多が大江の生き方についていだく疑念は、大江が文化勲章を拒否しながらもノーベル賞文学賞は拒否しなかったことではっきりとする。大江は本当に戦後日本の民主的な発展を願っていたのではなく、そうした運動を利用することによって、小説家としての自分を売り込んでいたにすぎないというものだ。だから平和運動を敵視して、運動潰しのために様々なキャンペーンを張り、また出版というかたちで文芸家たちを骨抜きにしてきた反動的出版社にたいしても決してきちんとした対応をしてこなかっただけでなく、ある意味で左翼の運動の中で上手い汁を吸うことで、左翼の運動をだめにした張本人である、というのが本多の指摘である。

私はきちんとした形では言えないけれども、大江の小説には、どこか胡散臭いものがあるというのを以前から感じていたので、この本を読んで快哉を叫んだ。こういう胡散臭さは初期の作品や、一般に彼の転機になったといわれる『新しい人めざめよ』あたりにも感じていた。だからそれ以降はまともに彼の小説など読まなかった。彼は障害を持った息子が生まれることで、またそれを小説の題材とすることで、絶対にサヨクから批判されない担保のようなものを手に入れたと思っているのではないか、そんなふしが見られた。ノーベル賞受賞のときだって、キッシンジャーや佐藤栄作がもらうようなものをもらって、他方では文化勲章は拒否する、要するに金と世界的な名誉が欲しいだけではないか、と思ったものだ。私のは、それこそきちんとした跡付けのない、印象程度のものに過ぎなかったが、この本を読んで、確信が得られた。

こういう大江のような人間って、よくいるんだよね。ある種の職場ではそういう運動をしていると、有利になることをよく知っているだな。昇級しやすいとかそういうことではなくて、幹部といわれるような立場にいると、使用者側もへたなことはできない、結局下っ端がいじめられることになるのに、そういう人たちの救済はしない。なにも個人だけではない。使用者側が自由と民主主義を標榜しつつ、裏では非正規雇用いじめをやっているところだってある。全国的には、民主的な○○だと思われているらしいけど。

こういうことに目くじらをたてるほどのことではないかという人もいるだろうが、こういうことをきちんとしていかないと、いずれは分かることだし、それで運動は先細りするばかりだと思う。

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