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『未完の天才 南方熊楠』

2023年08月06日 | 評論
志村真幸『未完の天才 南方熊楠』(講談社現代新書、2023年)

南方熊楠という凄い人が日本人にいたということを知ったのはいつ頃だろうか?この本を見ると1971年から75年にかけて『南方熊楠全集』全12巻が平凡社から出版されているから、かなり前から知られていたのだろうが、私が南方熊楠を知ったのはわりと最近のことだ。

生まれは1767年で、68年の夏目漱石とほぼ同い年だし、共立学校とか東京大学予備門とかにいたのもほぼ同じ時期(そのことも簡単に書かれている)だし、アメリカ滞在ののちに、ロンドンに8年間滞在した時期も、夏目漱石が政府の給費留学生としてロンドンにいた1901年から2年と重なっている。

だが、漱石が南方熊楠という人のことに触れたという話は聴いたことがないし、その逆もまたしかりだ。漱石も人付き合いが苦手で、もっぱらシェイクスピア研究者のスコットランド人に家庭教師をしてもらっていた以外は大学には通っていないかったというが、大英図書館にはあまり行かなかったのだろうか?

まぁそういうことはどうでもいいが、この本の一番の主張は、膨大なインプットに比べてアウトプットが少なすぎるという話である。一冊も完成した著書がないという。しかし天才的な人にそういう事例がたまにあるのも事実だ。例えば、構造言語学の祖とされるフェルディナン・ド・ソシュールもそういう人だ。構造主義の祖と言われながらも、著書は一冊もない。彼の講義ノート(生徒が書いたもの)がまとめられて、弟子が勝手に作ったものが流布したために、構造主義そのものの理解に誤解がつきまとったという曰く付きのものである。

インプットの膨大さということでいえば、南方熊楠の場合には抜粋や写しが大量に残されていることからそれが言えるのだが、少し前に亡くなった立花隆だってインプットに比べたらそのアウトプットはわずかなものだろう。こういう私だって相当のインプットはあるが、記憶力が悪いので、、同じ本を二度もインプットしようとして、あれこれ読んだことあるぞと気がつくなんて場合もあるのだ。

問題はそこからどのようなアウトプットをするかで、ソシュールの場合には、ものの見方を変えるような視点を提示するような話を学生たちにしたからこそ、後世にまで残ることになったのが、そういう意味で言ったら、南方熊楠にはそういうものはあるのだろうか?夏目漱石は苦しみながらあれだけのアウトプットをしたからこそ、国民的作家として現代でも生きている。やはり人間、アウトプットしてなんぼのもんだろうと思う。

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