読書な日々

読書をはじめとする日々の雑感

ネットで見つけた面白い記事

2017年07月14日 | 日々の雑感
ネットで見つけた面白い記事

1.高学歴の低所得者たち>
大学院を出たのに、とくに文系の場合、就職先(つまり大学)がなくて、非常勤講師をしている人たちのこと。理系の場合には研究を続けるには、どこかの研究機関に所属しなければ研究を続けることができないので、そうした研究機関のアシスタントとして所属するにしても、結局目がでなければ早々に見切りをつけるしかないだろう。

文系の場合には、パソコン一つあれば研究できるから、生活のために非常勤講師をしながら、いつかは専任講師に就職するぞという思いで生きているが、低レベルながら生活に追われ、その生活に満足してしまい(大学で教えているというステータスに満足するのに違いない)、ずるずると60才すぎまで来てしまうということが最近は当たり前になっている。はたして本人たちにその自覚があるのかどうか。

2.「安倍改造内閣」で入閣が噂される「橋下徹」からの恥ずかしい伝言をスクープ
もうじき安倍内閣の改造が行われるらしくて、テレビでも盛んに次期閣僚の名前が取り沙汰されている。そんな中、次期内閣は、すでに安倍も表明しているように改憲である。そのために維新の会と手を組む必要があることから、橋下の名前が取り沙汰されている。大阪を引っ掻き回して無茶苦茶にしただけの男が、安倍の援軍となるべく、あれこれ恥ずかしいことをしているというのがこの記事だ。

3.青山繁晴が森友問題で晒した嘘と醜態!
本当にテレビというのをぼんやり見ているだけでは真実は見えてこないなと実感したのが、この青山という人の真実の姿。よく土曜日の午後にやっていた討論番組などを見ていたころは、すばすばとモノを言うしっかりした国際関係の感覚ももった人なのかなと思っていたが、選挙に自民党から出て、おまけにこの醜態である。こんな人を少しでも評価していた自分が恥ずかしい。ただそうした真実を見せてくれるのもやはりテレビなんだ。加計学園グループの獣医学部新設問題ではこんな醜態も晒しているという。こちら

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『身体の文学史』

2017年07月05日 | 作家ヤ行
養老孟司『身体の文学史』(新潮社、1997年)

ここで著者が言っていることは、人間の意識は自然の反映だということであり、なにか特別なことを言っているようには思えない。

反映というのは、あらゆる自然現象の土台にあるものである。例えば太陽光線によって石が温まり、夕日には石は赤みを帯びる、水は光線を反射したり屈折したりして事物を映し出し、葉っぱは光合成をして花を咲かせる。

将棋コンピューター・ホザンナについて、そのプログラム開発者が興味深いことを言っていた。もともと過去の譜例を教え込むだけのものだったが、少し前から自分で過去の譜例を学んでいくようなプログラムを組み込んだところ、自らどんどん学んで、いろんな攻め方を覚えるようになり、今ではプログラム開発者でさえ、このホザンナがどこまで強くなるのか分からないことに不安を感じると言う。石や水面や草花、さらに本能から出ることがない動植物、つまり意識を持たない自然と人間の意識の、反映論的違いを、この将棋コンピューターの初期と現在の違いに見ることができる。

人間の反映は自然にたいして反作用を及ぼすようになり、あたかも人間の意識が物を生み出しているように見えることになる。そのもとにあるのは、人間の意識というヴァーチャルリアリティーだ。この著者は、それを「脳化」ということばで表しているに過ぎない。
こうした現象の最たるものが「言語」だと思う。これはソシュールの構造言語学を勉強した者なら比較的分かりやい事柄である。言葉という本来はこうした反映から生じたはずのものがいったん体系化するとあたかも言葉が物を作り出すかのように機能する。

またこの著者がしばしば言うのは、意識と人間の身体が別々だということだ。これも簡単な話だ。上のように反映にはいろんなレベルがある。大雑把に分けても意識と生身の体は相当に違うレベルの反映の仕方をする。意識は自らが最初から存在したかのように振る舞うようになるが、人間の身体は太陽光線を受ければ石が温まるレベルの、反映論的に単純なレベルから、漢方で言うようないろんな要素が絡み合って、身体の変調が生じるというようなかなり複雑なレベルもある。

こうした反映の様々なレベルを一人の人間の意識がバランスよく保てれば、文学など生まれてこないのかもしれない。そうした病的なバランスの崩れを養老孟司は深沢七郎やきだ・みのるやそして三島由紀夫を題材に論じたのが本書だと言える。

私とこの著者の違いは、こうした原理論をもってさらに文明論とか文学論とか歴史論とかに敷衍することができるか・できないかにある。ソシュールの構造言語学の原理からさらに複雑な構造主義的…へと敷衍していった多くの思想家と凡人の私の違いも同じことだろう。


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またまた箸休め

2017年07月04日 | 日々の雑感
またまた箸休め

またまた箸休め的記事、っていうか、非常に面白いネット記事を見つけたので、ここで紹介。

一つ目はあの江川紹子さんが、都議選最終日に安倍首相が唯一街頭演説をした時に「安倍帰れ」「安倍やめろ」のコールが湧き上がったのに対して、安倍が「私たちはあんなことはしない」と言った言葉について、その深層を暴き出している記事。

こちら

あれはテレビでも何度も放送されていて、「安倍やめろ」コールの中には、あの森友学園の理事長夫妻もいて、「安倍嘘つくな」とか、嫁にいたっては「金かえせ、私の携帯かえせ」とか叫んでいて、周りの参加者が思わず失笑していた。

私は森友頑張れと思っている。冷や飯を食うのは自分たちだけじゃないぞ、安倍も道連れにしてやるぞ、というところを見せてほしい。それだけのものをまだ隠しているのでしょうからね。

この記事で安倍とは正反対の政治家のあるべき姿として提示されているオバマ大統領とかムン・ジェイン韓国大統領は、いろいろ批判はあるにしても国家のトップとしての最低限の姿を示している。

それともう一つは少し古い記事だが、集団的自衛権が議論されていた数年前に、国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官が、集団的自衛権とは何かを火事現場の消火活動に喩えて、10代の若者たちからコテンパンに論破されたという記事。

こちら

集団的自衛権もそう、このあいだの共謀罪もそう、そしてまた憲法改正の自衛隊明記もそう。こいつらの主張に道理はまったくないから、真剣に議論したら、すぐに化けの皮が剥がれてしまう。だからまともな議論は一つもしないで、数の力で強行採決することしか能がない。


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最近聴いているジャズ

2017年07月02日 | 日々の雑感
最近聴いているジャズ

本読みがなかなか進まない。一冊読了するのに時間がかかってしかたがない。それで箸休めに(って意味が分からないけど)、最近よく聴いているジャズのCDについて書くことにした。

2014年にジャズを聴き始めて、その数ヶ月後に「最近よく聴いているJAZZ」という記事を書いた。今となってみれば、恥ずかしいほど、超初心者向けの曲ばかり並べている。こちら

まぁジャズを聴き始めて数ヶ月後のことだから、まぁ仕方がない。あれから3年たった。ほとんどジャズしか聴かないようになってみると、この間朝日新聞に載っていた岡田暁生さんの言葉じゃないが、ジャズってすごいと思うようになった。

まずウィントン・マルサリスのLive at the house of tribes。ウィントン・マルサリスって技巧派だけど、心がこもっていないとかいって、どこかで批判的に書いてあるのを読んだけど、そうかなと、これを聞きながら思う。これほどの技巧を自然に鳴らすにはそれなりのハートがないとできないことではないだろうか。とくに一曲目のgreen chimneysなんか、聴くたびに驚愕する。

つぎがカーティス・フラーのBlues ette。これも一曲目のFive spot after darkがいい。カーティス・フラーのトロンボーンの低音で始まる部分になんだかゾクゾクっとする。トロンボーンって中低音楽器だから、素早い音符でしっかり音程を取るのは難しいだろうに、私にはこれくらいの音が心身ともに気持ちよく感じられる。

さらにアート・ペッパーのModern art。アート・ペッパーはアート・ペッパー・クインテットのSmack up、La cuevas des Mario、A bit of Basieも好きだけど、こういうハデハデの曲ばかりでなく、このアルバムに収録されたしっとりとした曲もだんだん好みになってきた。出勤前とか、仕事帰りとかに気持ちを鎮めたい時に、ぴったりの曲だ。

ソニー・クラークのCool struttin'は、最初なんだかなーって思いながら聴いていたのだけど、やっぱり初心者だね、火曜日のBS7チャンネルでやっている「あの時あの曲」のなかで流れるこの曲の冒頭部分がきっかけでよく聴くようになった。

とにかく手探りで新しい曲を開拓していくのだけど、Youtubeがあって便利。まずアマゾンでレビューの好評なアルバムを探して、Youtubeで実際に聴いてみて、気に入ったら購入することにしている。もっといろんなジャズを聴いていきたいね。

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『フランス史V(18世紀ヴェルサイユの時代)』

2017年06月26日 | 人文科学系
ミシュレ『フランス史V(18世紀ヴェルサイユの時代)』(藤原書店、2011年)

歴史の記述というのは、フランス語では単純過去形といって、事実が自らをそのまま語っているかのような「客観的」な叙述の形式がある。ミシュレの『フランス史』はまさにその対極にあるような、語り手の個性むき出しの叙述だ。

こういう叙述が好きな人には大いに受けるのだろうが、客観的な記述を好む私としては、なんとも読みにくいことこの上ない。とは言ってもこの時期を扱った日本語の本があまりないので、大雑把な感じにせよ、概略をつかみたいと思って、読んでみたのだが、意外と面白かった。

ただ登場人物が多すぎて(もちろん翻訳なので、適宜注の形で簡単な説明が付いているとはいえ)、訳がわからない。ダルジャンソンなんて、親のダルジャンソンから、けっこう悪い長男のダルジャンソンから、わりと良い奴の次男のダルジャンソンまで三人も登場してくる。

ローのシステム崩壊の過程について、そこはやはりたぶん素人だし、19世紀の本だから、現在の研究の到達ということから見たら、不十分な記述が多い。

私が知りたいのは時代の雰囲気のようなものだが、それはなんだかつかめたような気がする。

それにしても、いったい誰がこんな本を読むんだろう。

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『ホフマン物語』

2017年06月12日 | 舞台芸術
オッフェンバック『ホフマン物語』(河内長野マイタウンオペラvol.15)

河内長野のマイタウンオペラを鑑賞するようになってかなりの年月がたつが、初めてのフランス語オペラだと思う。以前、感想を書く用紙に、フランス語オペラもやってほしいと書いたのが反映されたのだろうか。(そんなことはないだろうけど)

しかもオペレッタの申し子ともいうべきオッフェンバックの唯一の正統オペラである。第一幕と第五幕は枠組みみたいなもので、主人公の詩人ホフマンが人生の三人の恋物語を語ると言って酒場の人々を引き込み、最後にじつは三人の恋人はひとりの女性、ステッラのことだったという話しで終わる。

第二幕、第三幕、第四幕はその三人の恋人が一人ずつ取り上げられる。いわばこれが本編みたいなものだ。第二幕は、自動人形のオランピア。オランピアを演じた古瀬まきをが、パンフレットによれば、伊豆のミュージアムまで自動人形を見に行って、その動きを研究したと書いているほど、じつに上手に演技していたし、声もかなりの点まで行っていた。

さらにこれは書いておきたいが、このオランピアと連動しているような機械人形を演じていた久保尚子も、まったく歌がなかったけれども、じつに愛らしい機械人形を演じていた。注目される役ではなかったが、心を込めて演じていたので、大拍手。

第三幕は、母譲りの美声をもつアントニアの話しだが、悪魔のようなミラクル博士という医者の薬にかかって死んだ母親の美声がアントニアに乗り移り、彼女もまた歌を歌いながら死んでしまう、という話だが、いったい何から着想を受けたのだろうか。

第四幕は、ヴェネチアの高級娼婦ジュリエッタの話で、ホフマンの影を手に入れようとしてホフマンを誘惑するが、ホフマンがシュレーミルという、同じように影を奪われた男と決闘になって、殺してしまう。ついに友人のニクラウスとともに逃げ去るのだが、これもいったい何を言おうとしているのかよく分からない話だ。

私はオペラを見る前にできるだけ、パンフレットを見ないようにしている。オペラそのもを鑑賞することで話を理解したいし、歌手たちにも先入観を持ちたくないからだ。それで面白かったのが、一昨年のヨハン・シュトラウスⅡ『こうもり』だった。あれは日本語上演だったから言葉の問題はなかった。

いつもはイタリア語のオペラが多い。イタリア語は分からないから、なんともコメントできない。みなさんよく歌っているのだから、正確に発音されているのだろう。で、今年はフランス語だ。冒頭から、何を歌っているのかよく分からない。あれ、でもホフマンだけはよく分かる。この人だけ違うぞ、と思い、2幕と3幕の間の休憩時間にパンフレットを見たら、この人はヨーロッパに長く住んでいて、ホフマン役は十八番と言ってもいいような役のようだ。道理で…と納得。

そこで思ったのは、ただフランス語を正確に発音して歌っているというだけでは、オペラの場合には聞き取れないのではないか。それプラス、自分でもよく分からないけど、オペラ固有の発声法のようなものが身についていないと、聞き取れるような歌にならないのではないかと思った。

これは、岡村喬生さんが、毎年の夏にイタリアで行われるプッチーニ音楽祭に、日本人の歌手を出演させるべく、日本でオーディションを行って、優れた日本人歌手を連れて行ったが、たったひとりスズキ役の女性だけが、出演させてもらえたが、何度も何度も現地で練習を重ね、やっと一日だけの出演だったという結果をNHKでやっていた。こちら。これが教えてくれるのも、上のことと同じことだと思う。どんなにイタリア語を正確に歌う、上手な日本人歌手でも、オペラで歌うということは、それだけでは足りない発声法があるのだ。

それは今回ホフマンを歌った千代崎元昭さんのように、ヨーロッパで歌う経験を積まなければ決して身につかないものなのではないだろうか。


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『旅・戦争・サロン―啓蒙思潮の底流と源泉』

2017年06月07日 | 人文科学系
高橋安光『旅・戦争・サロン―啓蒙思潮の底流と源泉』(法政大学出版局、1991年)

17世紀・18世紀のフランスの啓蒙思想に関する逸話とか著者の雑学などを、旅、戦争、サロンという三つの主題を中心に披露したもの。

ヴォルテール関係の翻訳や著書がある著者の該博ぶりを披露するためのもの、要するに自分の雑学・知識を書き綴ったというようなもので、とくに上のテーマにそって一つの問題設定があって、それに基づいて書かれているというような類のものではない。

ただそれだけに意味がないかといえば、必ずしもそういうわけでもなく、随所に面白い知識の披瀝がある。要するに、読む側が「おや」「なるほど」「こんなものがあったのか」と感心しながら読めるなら価値があるが、そうでないならあまり読む価値はない。

私にとってはサロンの主題の部分が興味深く読めた。17・18世紀のフランスの啓蒙思想はサロン抜きには語れないだろうし、18世紀になると徴税請負人やその妻が開いていたサロンが重要な芸術家や文人と交流があったり、育てたりしたことがあるからだ。

例えば、ヴォルテールとラモーが知り合うきっかけになったラ・ププリニエールという徴税請負人はイタリア音楽の支持者であり、彼が持っていた常設のオーケストラの音楽監督にラモーを雇い入れていた。ラモーの後は、ドイツ古典派の走りとなるシュターミッツを雇い入れていた。

またルソーが一時期秘書をしていたデュパン夫人の夫も徴税請負人で、二人はモンテスキューの『法の精神』に対する反論書を書いたりしている。デュパン夫人の秘書時代にルソーの反文明的思想が形成されたことを考えても、思想家ルソーの形成に大きな意味を持っていた。

徴税請負人という制度そのものが実に面白い。政府から税金徴収を請負い、例えば1億リーヴルの税金徴収を請け負う契約をして、決まった時期に1億リーヴルを政府に支払うが、実際に国民からどれだけの税金を徴収するかは自由なのだ。だから、政府に収めたのと同じ額ほどの差額が自分の懐に入ることになる、というような信じられない制度である。

啓蒙思想家と経済についてだれか研究してくれないかな。きっと面白いものができると思うけど。


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『walk in closet』

2017年06月04日 | 舞台芸術
横山拓也『walk in closet』(劇団大阪定期公演、2017年)

同性愛を家族にカミングアウトするという問題を主題にした作品。

冒頭から、記録的な豪雨で河が反乱し、道路が通行止めになってしまい、登場人物たちがみんな主役の政次の家に缶詰状態になって、逃げ場がないという設定が作り出されるのだが、これなんか実に上手い作りである。

登場人物は、政次、母・清美、隣人の椿本、政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良と店員の梓のぶ代、さらに父・利弘とかつて政次が告発したことで体操教室を首になり父・利弘が就職などの世話をしてきた小西である。

政次がアルバイトをしているカフェの店長の平良がゲイだという噂があるという話から、政次のクローゼットにゲイのDVDがあったという母・清美の話から、さらに政次を好いている梓が政次に振られたと言ったり、そして平良に小西が政次をゲイの世界に引きずり込むなという発言などなどがあって、梓が勝手に政次はゲイだと口にしてしまう。

そのテンポの良い、大阪弁のやり取りは、小気味よい。一人ひとりの特徴が際立っていて、その特徴的な発言や会話のやり取りの結果、大団円に突っ込んでいく。普通は家族のあいだではこういう問題は触れずにおこうという風になるものだ。それでは芝居が回っていかないので、缶詰状態という設定が作られ、第三者が普通なら言わないでおくところを、口にしてしまう。

自称カウンセラーの椿本は、普通ならスルーすべきところを「その問題をほっておいたらあかんのんとちゃう」とか言って、話の流れを作者の都合のいい方向に導く役目をもっている。

缶ビールを飲んで滑舌が良くなった小西は、政次のせいで人生を狂わされたと思っているのか、政次に直接口出しをしないが、平良を責めて、話をそちらの方向に向けようとする。

政次に振られた梓、この娘もおもしろい。世間の常識的な言葉にツッコミをいれ、高い次元からものを言っているように見えて、じつは政次に振られた腹いせだったり。

平良の演技もいい。ゲイだからといって、やたらとオネエ風の仕草をしないところがいい。しかし、ちょっとしたところにその雰囲気を見せる。26才とはいえ、ゲイということで苦労してきた大人らしく、政次を気遣って、DVDの件を自分のせいだと引き受けたり。

小西は、酒が進むに連れて本性、というよりもこれまで腹の中にためて来たものを出す。

一番戸惑っているのが、母・清美と政次自身だ。政次は台詞にあったように、自分で自分が分からない。大西がその活気のない感じ、ぼんやりしたような表情でそれをよく表していた。

母・清美は、自分の腹を痛めた子にどう接したらいいのか分からない。ただでさえ男の子は20才ともなれば、自分からは完全に離れていくものだ。その上にゲイだと言われたら…。でもなんとか理解しようとして、「好きなようにしたらいい」と言えば、「好きなようにってなんや」と息子から突き放される。そういう心許なさを名取が好演していた。激しい動きや台詞はないが、心の中を繊細に表す演技だった。

新鮮な感じのする芝居だった。芝居っていいなと思う仕上がりだった。


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『憂い顔の「星の王子さま」』

2017年06月02日 | 評論
加藤晴久『憂い顔の「星の王子さま」』(書肆心水、2007年)

サン=テグジュペリの『星の王子さま』は2005年に独占的出版権が切れて、それまで岩波書店の内藤濯訳だけだったのが、続々と翻訳本が出版された。この時点で13本もあったという。内藤濯訳の誤訳を中心に、これらの後継翻訳本のすべての誤訳を検討して、書いたのが、この本だということだ。

私も、少し前に加藤恭子の『星の王子さまをフランス語で読む』を読んだのがきっかけで、『星の王子さま』を少しずつ読んで、自分なりの感想を書いたりしたことがあったが、この時に指摘した、加藤恭子の説明の間違いが、当たり前のことだが、この本でも136~140ページで指摘されている。

上の本については、こちら
私自身による読みの試みについては、(1)(2)(3)(4)

ただ、だれがこのreflexionsの主なのかという問題は、やはり難しいようだ。前後の関係から星の王子さまであると書いているが、ではなぜきちんと所有形容詞を明記しなかったのかと問われば、実際にreflexionsの前に所有形容詞を明記している場合もいくつかあり、理由を説明することは難しいという。

私はフランス語で読むのを途中でやめてしまったが、昨日知り合いのフランス語の先生に話してみたところ、この先生も授業で『星の王子さま』をフランス語で読み通したが、解釈が難しいところがたくさんあったと言っていた。

自信があるのなら自分で翻訳を出すのもいいが、自信のないところがあるのなら、翻訳本など出すべきではない。どう見ても、そういうことを考えもしないで分からないところは「意訳」すればいいやみたいな調子で出している本が多いというのが、この著者の批判である。

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『まわり舞台の上で荒木一郎』

2017年05月31日 | 評論
『まわり舞台の上で荒木一郎』(文遊社、2016年)

私にとって荒木一郎といえば何と言ってもシンガー・ソングライターのはしりだった『空に星があるように』(下にyoutubeの動画を張ってある)という名曲を歌った歌手であり、少女淫行事件で捕まって(これは無罪放免になった)、母親の荒木道子という、いかにも良妻賢母を絵に描いたような女優さんが言った「本当はいい子なんです」という言葉として残っているばかりだった。

サングラスの風体といい、ただのマザコンというイメージしかもっていなかったのだが、この本を読むと、これがやはりテレビの作り出したイメージだったのだなということがよく分かる。

あまりいいイメージを持っていなかったのにどうしてこんな本を、たまたま新聞の一面下の広告欄でたまたま見たということで、読んでみたのかと言えば、やはり『空に星があるように』という歌の良さに惹かれたというしかない。

初っ端から驚かされた。母親は女優だった、つまり専業主婦ではなかったので、小学生の頃から家にいなかった。しかも小学校は青学の付属に通っていたので、近所の小学校に通っている子どもたちと接点がない、つまり友達が一人もいなかった。ふつうならそこで家で一人遊びをするだろうが、荒木少年は、どうやったら友達ができるかあれこれ考えて、試行錯誤をして友達を作ったという。

しかも女の子たちを引っ張ってくると、それにつられて男の子たちもやって来るということが分かった。女の子は生まれながらにしてストリップが好きだ、つまり自分の身体を見せることに本能的な喜びを持っているなどという、S…あたりが言いそうなことを、小学生にしてすでに学び取っていたというから恐るべし。

他人の心を読む能力が培われ、人を喜ばせる、人の心をつかむにはどうしたらいいか、どんな見せ方をしたらいいかということを学んでいったのがこの頃のようだ。それが役者をやるようになって、ドラマや映画の監督よりも演出が上手く、自分で書割をしたり、台詞を書いたりするようになって、ドラマの監督から、どうやったらできるのか、どこで演出法を学んだのか教えてくれと懇願されたという。

高校生の頃にはジャズにも入れ込んでいた。スウィング・ジャズが趣味ですなんていうのはたんに読書が趣味ですと言っているようなもので、馬鹿みたいだから、モダンジャズが趣味ですと言いたい。でも何曲も聞いてもすきになれない。気分が悪くなるだけだったが、我慢して何曲も聴き込んだ。これが後年歌謡曲のリズムと違うジャズふうのリズムをもった荒木独自の音楽になっていったという。

そして淫行事件のあと芸能界から干されていた頃に桃井かおりの付き人をしていた頃の話は、面白かった。まさにそれまで彼の生き方が桃井かおりという、普通の人には捉えきれない独特のイメージをもった女優を操ることを可能にしたと言っていい。

なんか30才までに、いや25才くらいまでに、普通の人の一生分の仕事をしたような印象を受けた。その意味で、淫行事件で芸能界を干されて、忸怩たる思いで生きていたのかなと思っていが、決してそんなことはなかったということが分かってよかった。別に荒木一郎のファンというわけではないけどね。

アマゾンの評価がほとんど星5つというのも驚いた。レビュアーのほとんどが私のようなジジイばかりのようだけど。

空に星があるように 荒木一郎(’66)


夜明けのマイウェイ PAL【「ちょっとマイウェイ」主題歌】
年代から考えてリアルタイムにこのドラマを見たことは一度もないから、この曲も聞いたことがないはずなのに、この懐かしい感じはなんだろう。荒木一郎の音楽っていいね。


ベンチャーズのパクリかと思うような、ノリの良い曲もある。
いとしのマックス 荒木一郎('67)

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「亀山法男~永六輔を歌う」

2017年05月30日 | 舞台芸術
「亀山法男~永六輔を歌う」(子ども劇場例会)

子ども劇場などといいながら、来ているのはジジババばかりの「ジジババ劇場化」している現状に、こういう催し物をすることになったのかどうか、委細は知らない。

とりあえず「永六輔を歌う」に惹かれて上さんと行ってみた。冒頭から演歌「影を慕いて」。そして裏声で歌うからという話しの流れから「エーデルワイス」。まったく一貫性のないプログラム。

いつになったら永六輔を歌ってくれるのかなと思っていると、いよいよ永六輔との出会いの話しになって、永六輔の歌のなかでも聞いたことがないようなマイナーな曲から。知っている曲といえば、「上を向いて歩こう」をジャズ風にアレンジ。すぐにまた関係ない曲に。

今日はだれやらの誕生日という話から、「ハピバースデー」の旋律をバッハ風に、モーツァルト風に、シューベルト風に…ドビュッシー風にと編曲して弾いていた。それはそれで面白かったけど、永六輔とどんな関係があるのか?


結局、永六輔の歌は二・三曲歌っただろうか。私の斜め前に座っていたおじいさんがチラシに書いてあった曲のリストにチェックを入れていたが、きっと終演後にクレームを付けに行ったはずだ。立派な心がけだ。

亀山法男って人、こうやって小規模な演奏会をあちこちでやっているのでしょうね。いつも歌っているから、声はいいし歌も上手い、ピアノも上手い、和声感覚に優れているから、いろいろ編曲できる。もう少し話術を磨いて、テーマをもって一つのリサイタルを組み立てたら、もっと人気出ると思うけどな。

それにしてもピアノって雑音にしか聞こえない。



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『読書する女たち』

2017年05月23日 | 人文科学系
宇野木めぐみ『読書する女たち』(藤原書店、2017年)

読書する、とくに女性が読書するという行為が、18世紀に飛躍的に増加した、しかし18世紀における女性の読書は不道徳というレッテルが貼られていたという事象を、絵画、小説、女子教育論などを素材にして明らかにしようとしたもの。

第一章の絵画を扱った章は、具体的で分かりやすい。しかし著者はもともと美術史の専門家というわけでもない。

第二章の文人たちの女子教育論では、18世紀初頭のランベール夫人、18世紀中頃のルソー、そして末期のラクロの女子教育論が論じられ、彼らが総じて女性の読書を実用的なものだけにすべきで、小説などに手を出したら、女性を堕落させることになると反対していたことを指摘する。

第三章から具体的な小説が対象となる。ルソーの『新エロイーズ』、ロベール・シャール、ラクロの『危険な関係』など。さらに第四章ではマリヴォー『マリアンヌの生涯』『成り上がり百姓』『マノン・レスコー』『危険な関係』『ポールとヴィルジニー』など。だが、これらの小説で女性の読書が扱われることはごくわずかで、いったい何の分析のためにこれらの小説が分析対象とされているのか、理解に苦しむ。

結局、冒頭で挙げられた、この著作の目的である、18世紀における小説と読書する女という関係については、絵画と女子教育論については、それなりに面白かったが、第三章以降の半分以上のページ数を当てた部分では、具体的な小説からは何も見えてこなかった。

初出一覧を見ると、この著者は、もともと女子教育論を研究していたようだが、読書する女というテーマを思いついて、むりやり結びつけて書いたような感を否めない。もっとつっこんだ分析を期待していたのだが、がっかり。そしてこんな本を出す藤原書店にもがっかり。


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こんな国に未来はない

2017年05月21日 | 日々の雑感
こんな国に未来はない

今日の新聞で「働き方改革を問う」というシリーズの一環として、3月に東京地裁で非正規雇用の格差是正を求める訴えを退ける判決が出たという記事が載っている。

地下鉄の駅構内のキヨスクで働く非正規雇用の女性が訴えた裁判だ。私もかつて大学の非常勤講師の格差是正を求めた裁判をやろうかとも考えたことがあったので、この女性に敬意を表する。

同じ仕事をしながら正社員か非正規雇用かで大きく待遇が違うということが日本の労働現場ではあちこちにある。大学教員、この女性のようなキヨスクの販売員、小学校の教員、市役所の職員、民間の企業にたくさんあるだろう。

裁判所でもきっと一般職員に非正規雇用がいるに違いない。そういう現場にいながら、裁判官がこういう判決を出すような、つまり裁判所が積極的に非正規雇用の格差に手を貸すような国に未来はない。

19日に「共謀罪」が衆議院特別委員会で強行採決された。これに対して、国連の特別報告者のジョセフ・カナタチという人が「どんな行為が処罰の対象になるのか不明確で、刑罰法規の明確性の原則に照らして問題がある」と懸念を表明した書簡を安倍に送っているらしい。

こんな法律ができたら、国民の意識は萎縮し、国民自身が密告者になるような社会になってしまうだろう。まさに戦前の日本と同じだ。他所様からこんな心配をしてもらうような法律を国会議員の数を頼みに強行採決するような国に未来はない。

東京オリンピックに東京都の出費が1兆円近くになるという。数十円、数百円、数千円のお金が払えなくて、学校で肩身の狭い思いをしている子どもたち、何十万円という学費が払えなくて高校進学や大学進学を諦める若者たち、奨学金という借金が返せなくて恋愛にも結婚に展望が見いだせない働く人たち。

本当にオリンピックなんか必要なのか、いやオリンピックを東京でやって、国民の幸せにつながるのか。こんな国に未来はない。

政府が、原発事故を、つまり目に見えない放射能汚染が何百年も続く原発事故を、震災や火災などと同じレベルで語り、原発再稼働にも、原発廃棄物の処理にも、現に原発で放射能汚染の危機に晒されながら働いている人たちがいることに無頓着な国に未来はない。

こんな国でも子どもたちは育つ。子どもたちには未来がある。



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金剛山ハイキング

2017年05月20日 | 日々の雑感
金剛山ハイキング

高野山町石道登頂練習ハイキング第一弾として金剛山に上がった。

8時15分のバスで河内長野駅前を出発して30分で登山口に到着。そこからほぼずっと急登の正面登山道を上がること1時間10分、10時すぎに社務所前に到着。ゆっくり歩くを心がけたおかげか、それほどしんどい思いをすることもなかった。というか、わりと楽に上がった。

社務所前には、南海バスのバス停にある時刻表の塔があり、一瞬、ここまで南海バスがくるのかなと勘違い。よく見ると(バスは来ません)と書いてある。

今日は山登りだけが目的ではないので、すぐに下山コースに進む。同じ道を下りるのではなくて、ロープウェー駅のほうへ下りるコースだ。こちらはしばらくは山の稜線を歩くかんじで、ゆるやかに下って、途中から一気に下りる。

もともと車が通れるようになっている道なので、急だが舗装がしてある。ちょうど高野山町石道の最初の急坂みたい。下りのほうが足が疲れてきた。1時間くらいでロープウェー乗り場まで下りてくる。そこから車道をしばらく歩いて、マス釣り場に着く。

金剛山にはあちこちにマス釣り場があるが、その一番高いところにあるもの。ここでは、マスの塩焼きが食べれる。今日のもう一つの目的がこれ。


マスの塩焼き定食を注文する。マスの塩焼き、ご飯、お吸い物(味噌汁ではない)、フキの佃煮、こんにゃくのマヨネーズあえで1000円。マスは意外と蛋白で、たっぷりと塩が付いているが、それほど塩辛くなくて、いいお味だった。

13時2分のバスで河内長野駅に到着。帰宅して昼寝した。

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『「レ・ミゼラブル」を読む』

2017年05月17日 | 評論
西永良成『「レ・ミゼラブル」を読む』(岩波新書、2017年)

私は小学校2年生の時に担任の先生から『ああ無情』という子供向けの本をもらったことがある。なぜ私だけにくれたのか、分からない。祖母が担任に付け届けでもしたお礼だったのだろうか?

それに小学2年生に読めると思ったのだろうか。アマゾンで調べてみたら、いまでも「こども世界名作童話全集」とか「少年少女世界名作の森」といった子供向けのシリーズがあるようだから、昔もそういうものがあったのだろう。ただ読んだという記憶はない。

そしてこの本の西永良成といえば、『評伝アルベール・カミュ』で、新しい仮説を提示して30才くらいで一躍この世界で著名な研究者となり、卒論でカミュを扱った私にとって憧れの研究者だったのだが、だがいつの間にかカミュ研究から離れて、ミラン・クンデラ研究に移り、翻訳が仕事かと思われるほどあれこれと翻訳を出している人だ。

そんなこんなで、この本を手にとってみたのだが、500ページの文庫本が5分冊もあるとか、何十ページもの哲学的脱線があるとか、これを省略したらこの小説の醍醐味がなくなるだとか、登場人物の数、物語の展開の複雑さなどという話を読んで、もう読む気が失せた。学生時代には、ドストエフスキーとかトルストイとかやたらと長い小説を読むのがまったく苦にならなかったが、最近は長いものはもう気力の体力もついていかない。残念ですけど。

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