蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

おしゃべり、べらべら

2017-02-23 | 無題
こんなことがあったのよ。
あの人ったら、ああ言ったのよ。
あれを食べたらこうで、これを買いに行ったらああで。

延々と続くおしゃべり。
ランチタイムや、カフェ。

あったこと、目についたことへの感想を思いつくまま、口にする。
ストレス解消になると思う。
幼児や子供が思いのままに話すように。

自分のことを知ってもらう。
自分の考えを誰かに話したい。
声を出す発声は、一種の声帯と口の運動。
内にこもるのではなく、相手のリアクションが欲しい。
相手の表情や声を楽しむ人もいるだろう。

ただただ話したいだけの人もいる。
自分を出したい。表現したい。
理解してほしい。同意してほしい。認めてほしい。誉めてほしい。
承認欲求を満たしたい人もいる。
慰めてほしい。同情してほしい。
そういう人もいるだろう。


さて、わたし。
べらべらしゃべらないほうだ。
日常の出来事、日記的なことは、なんのために話すのか、よくわからないぐらい。

今日の出来事を、家族や友人に、夕食時や休日に話す。
これは、団欒で、良い時間だと思う。
話自体の内容に別にたいした意味はなくても、コミュニケーションである。
相互理解を深めると共に、親しみが増し、距離感を縮める。
あたたかい時間を共有する。

とすると、大して近寄りたくもない、仲良くなりたいと思わない人と、しゃべっても意味がない。
が、話しているうちに、好感を持つかも知れない。
食わず嫌いは、良くない。

街で、ぺちゃくちゃお話をしている人たちの話を聞くともなく聞こえてくると、実にどうでもいいことをしゃべっている。
文字にしてまとめたら、数行のことを延々と何時間もしゃべっている。
明らかに、感情を発散して、自分の脳と心をリフレッシュさせている。
ヨガや瞑想のような効果がある。
人によって、精神バランスをキープする方法は、まちまちである。

わたしの発散先は、ブログやメール。
ブログは特定の人を対象にしていないし、コメントや、同意を強要しないから、迷惑はかけないが、メールは一対一なので相手に負担をかけるかも知れない。
LINEは、いちいち細かく反応するのは、煩わしいと思うので、家族としかしない。

ブログやメールやLINEも、日常のどうでもいい報告的なものはしない。
日常の目についたことや、重要報告事項、興味深かったこと、疑問に思ったことを伝える。
暇つぶしに、退屈しのぎには、決してしない。
と、偉そうに明言しているが、その割には頻繁にやっている。
退屈だからしているのではなく、やっていると退屈を感じるヒマがないだけで、実質的には、能動的か、受動的かの違いだけで、やっていることは同じである。

LINEの相手は家族の中でも、娘たちだけ。
彼らは、気がおけない人々(気を遣ってくれない人々)なので、無視されることもあるが、へんに無理して構ってもらうのも心苦しい。
いくら親娘だからといっても、もたれかかりすぎて、べったり重いのは避けたい。
「ごくたまに」重いのは、許容範囲内だと思っているが。

こんなことがあって、あんなことがあって、という、いつもの日常の出来事を話すのは、小学生ぐらいまで。
中学生にもなると、話さなくなると思うが
大人になっても、まだ、ぺちゃくちゃ話している人々を見かけると、ある意味、おもしろい。funny である。
が、愛すべき人々なのかも知れない。

しかし、時として、電車内だったり、店内、至近距離だったり、声が大きいか、よく通る場合、うるさい。

それはそれとして、
他愛ない話を思いつくままに、感情的に話せる相手がいて、自分を洗いざらいさらけ出してアウトプットできる人や場があるということは、素晴らしい。
ただし、そういう関係を築いたり、維持したり、努力が必要である。


にほんブログ村 小説ブログ エッセイ・随筆へにほんブログ村