私が両手を広げても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速く走れない。
私が体をゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように、
たくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
(金子みすゞ『私と小鳥と鈴と』)
多くの生徒が、「~ができる」、「~ができない」や「~がうまい」「~がへた」にこだわります。
中学校は、小学校とちがって、ある意味で生徒どうしの中で「差」が見えやすい傾向があります。
たとえば、テストの点での差、部活動での技術の差などです。
「おかあさん、僕って結構走るのが速いと思っていたけど、もっと速い人がクラブにはいるねん。あの子はすごいわ」
「クラスには、めっちゃ勉強できる子がいるんやわ。テストの平均点は90点以上とりやんねん」
これは、中学校が小学校よりも子どもにとって残酷であるというよりは、中学校というシステムが周りの子の様子がみえやすいというしくみになっているからです。
プロデューサーの秋元康さんはこのように言っています。
「人は誰でも、なんらかの欠点がある。その欠点のうち、いくつかは誰に被害を与えるわけでもなく、人を困らせるわけでもなく、人にいやな思いをさせるわけでもない。そう考えると欠点のおよそ半分くらいは消えてしまう。」
自分は自分です。自分の「できる・できない」を受け入れ、できないなら、できるようになるまで努力する、できるなら、さらにできるようになるため努力することが大切です。
また、見方をかえれば、私は~はできなくても、~はできる点もあるということに気がつきます。
もっとも、中学3年生に近づくにしたがって、人は人、自分は自分と思い、自分に対して、揺るがぬ自信をもつようになる生徒が増えてくるのが、三中生にもみられる傾向です。
みんなちがって、みんないいのです。