野鳥・旅行・観光・テニスなど趣味の写真ブログ
ROSSさんの大阪ハクナマタタ



伊勢神宮の宇治橋から続く「おはらい町」をどんどん先に歩いてゆくと、赤福の店が向かい合う交差点があり、そこを右に曲がると美しいアーチ橋(新橋)が五十鈴川に架かっています。



交差点の左側は、1993年7月に誕生した「おかげ横丁」で、江戸時代からあった「おかげ参り」にちなんでネーミングされたようです。

新橋



「おかげ参り」は、お伊勢さんの「おかげ」に感謝する人々が、踊りながら伊勢神宮を目指した社会現象で、1553年伊勢の国司北畠晴具が、伊勢神宮に病気平癒を祈願して領内の関所を停止したことにはじまるようです。



徳川家康の天下統一以降次第に盛んとなり、1705年に380万人、1771年にも207万人、1830年には何と486万人と、驚くべき数字が非公式な記録として残されています。(伊勢神宮 著者:藤谷俊雄、直木孝次郎より)

おかげ横丁の太鼓櫓



伊勢神宮への抜け参りを妨害すれば、神罰が下るとされていた「おかげ参り」については、権力者側の公式な記録には無いようです。

おかげ横丁



その理由は、封建支配者に対する支配される側の職場放棄という抵抗運動は、支配する側にとって都合の悪い記録だったからです。

おかげ横丁



伊勢神宮という本には、「おかげ参り」とは、封建的な主従の関係から庶民が抜け出す、神事にことよせた解放運動で、この運動は次第にエスカレートし、性の解放にかこつけた相当下品な行為もあったと書かれています。

おかげ横丁



そういえば、思い当たることがあると思う人は、多いのではないでしょうか。

おかげ横丁



さて、このおかげ横丁の2700坪の敷地には、江戸末期から明治にかけての伊勢路の代表的な建築物28棟が移築されています。

おはらい町にある奉献酒の白鷹の店



これらの古い建物は、神様の住まいと同じでは恐れ多いとして、玄関を長方形をした建物の短い方の面に設けた「妻入り」方式となっていることが特徴といわれています。

おはらい町の妻入りの建物



また雨風を防ぐ工夫として、外壁に「きざみ囲い」がしてあり、建築材料には、栂材が多く使用されているようで、伊勢地方特有のデザインが面白いと思いました。

おはらい町の建物



そのレトロな建物に、飲食9店舗、物販30店舗、美術館・資料館が配置され、伊勢の味、名産品、歴史、人情を体感して欲しいということのようです。



内宮に参拝する前に頂いた白鷹と伊勢万の奉献酒は、(おかげさまで)どれも喉越しが良く、伊勢参りに来てよかったと、しみじみと感じたのでした。

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伊勢神宮内の門前町「おはらい町」は、宇治橋のすぐ近くからはじまっています。



入口にある赤福で、お茶と赤福餅のセットを頼み、まず腹ごしらえです。



新築されたような古民家?が軒を並べ、道路が石畳となった「おはらい町」には電柱が無く、空がスッキリしていて時代劇のセットに迷い込んだようです。



この「おはらい町」は、伊勢神宮の神官に代わって参拝者にお祓いをしていた御師(おんし)の家が古くから立ち並んでいたので今もそう呼ばれているようです。



御師のスタートは、外宮の記事に書いた通りですが、御師と信者との関係は、祈祷師と旦那(スポンサー)の関係(師旦関係)と考えれば良いでしょう。



御師は、お札(神宮大麻:おおぬさ)やお守りの販売、神楽を奉納する館をここに持ち、担当する地域からくる信者(旦那)に宿舎を提供するなど、信者の信仰心をつなぎとめる役を果たしていました。



全国各地からくる参詣者は、かねてから師旦関係にある御師の経営する宿舎に泊まり、参宮に当たっては祈祷を御師に頼んでいました。



伊勢神宮は、天皇家の氏神であったため、おもてむき民間人の直接の参拝を許さなかったという事情もあったようです。



これは、天皇家以外の公卿家、将軍家、諸大名家も同じで、それぞれが師旦関係にある御師(将軍家は内宮が山本大夫、外宮が春木大夫)に参拝を依頼していました。



御師職は、江戸末期に内宮が309軒、外宮が555軒もあったといわれていますので、その動員力も凄かったようです。



1871年、明治政府は、神社制度の改革政策を打ち出し、鎌倉時代から600年以上続いていた御師の制度を廃止したため、江戸時代賑わっていたおはらい町も次第に衰えたようです。

伊勢万酒造



さて、現在のおはらい町の両側にある統一された古民家群は、すべて土産物や飲食のショップとして使われていて、観光客には嬉しい情緒のある町となっていたのは驚きでした。

伊勢万酒造内部



恐らく、古民家風に新築され、あるいは各地から古民家を移築しているのではないかと思いますが、国から「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている関宿以上の町並みとなっていると思います。

参考文献(伊勢神宮、著者:藤谷俊雄、直木孝次郎)


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湯浅醤油の遠方他国への積み出しは、室町時代末期の1535年頃からで、当初は100石余りを醸造して、魚や野菜を運送する漁船に託し、まず大坂で販売をしたようです。

湯浅伝統的建造物群保存地区



1585年、豊臣秀吉の紀州攻めがあり、反豊臣方であった湯浅の古刹満願寺の建物は、秀吉の命令で解体され、山門と金堂が醍醐寺に送られて現存しています。



現在、保存地区には、醤油製造のための麹を専門に扱っていた店が保存され、自由に中を見学できますが、麹屋の看板を掲げた江戸末期の建物は、良い味を出していました。



ご主人の説明によれば味噌、醤油、酒などの醸造に欠かせない麹菌は、中国から渡来したものではなく日本固有のものだそうです。

麹屋の内部



保存地区にある1841年(天保12年)創業の醤油屋「角長本店」の建物も、黒壁に虫小窓がある江戸時代末期の建物です。



メイン道路から路地を入った場所にある風呂屋



以前、テニス合宿で訪れたことのある関宿も国の重要伝統的建造物群保存地区ですが、関宿では電線を見えないところに配置して電柱をなくし、情緒のある街並みとなっていました。



湯浅の保存地区も電柱が無くなれば、さらに素晴らしい街並みとなると思いますので、関係者の皆さんには保存と整備に頑張ってほしいものです。



有名な小豆島の醤油は、約400年前大阪城に使う石を切出す職人が、大坂から湯浅醤油を持ち込んだことがきっかけで、始まったと言われていますので、湯浅のほうが古いようです。



徳川時代における湯浅醤油は、紀州藩から特別の保護が与えられ、醤油醸造家は壺形の看板を揚げて販売する特権が与えられていたようですが、今の保存地区には、壺形の看板に町名が書かれていました。



享保年間(1716~~36)になると、湯浅の濱口儀兵衛(ヤマサ醤油の先祖)、岩崎重次郎、古田荘右衛門らは、江戸で販売する醤油を、消費地に近い千葉の銚子で醸造することを願い出て許可されています。


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テニス合宿で湯浅に早めに到着できたので、醤油の故郷として国から重要伝統的建造物群保存地区(以下保存地区)に指定されている町並みを見学しましたが、ここは安政南海地震の津波以降に再建されているようです。



1854年12月24日に発生したマグニチュード8,4(阪神淡路大震災は7,3)といわれる安政南海地震では、紀伊、土佐、大坂などで津波による大きな被害(串本では、高さ11mもあった)を出しています。



実は、この津波の約150年前、1707年に東南海地震と南海地震が同時に発生したマグニチュード8,7(日本史上最大とされている)の宝永地震が発生しているので、1854年から150年を過ぎた現在、そろそろ次の津波が来るのではないかと心配です。



さて、湯浅の名前が日本の歴史に登場するのは、平安時代からで、当時この地には湯浅宗重という豪族がいて、1159年の平治の乱の際に平清盛を援けています。



また熊野三山が信仰を集め、天皇から庶民までの熊野詣がさかんになったことで、湯浅は宿場町として賑わうようになっています。



湯浅町の若宮神社は、後鳥羽天皇(1180~1239年)が、熊野参詣の途中、湯浅に熊野権現のお守りを残し、後鳥羽天皇の崩御後の1247年になって、そのお守りを若宮社に祀ったことが起源とされてます。



後鳥羽上皇が湯浅に立ち寄ってから少し経った1228年、臨済宗禅寺の僧覚心(法燈国師)が中国から帰国し、この湯浅で布教した時に金山寺味噌の醸造法を地元に伝えたようです。

金山寺味噌の店



保存地区にある食事処で、金山寺味噌の付いた昼ごはんを頂きましたが、地元で食べた金山寺味噌はやはり美味かったですね。

食事処いっぷく



その金山寺味噌製造の際、樽の底に溜まった液で食べ物を煮てみると美味しいことが発見され、この溜まり液が醤油の起源となったようです。

食事処いっぷくの内部



醤油醸造は、僧覚心の帰国から6年後には既に始まっていて、正応年間(1288年~1292年)には、商品として近傍に販売されていますので、既に700年以上の歴史があることになります。


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大覚寺の21世門跡、後嵯峨天皇の祖父であった後鳥羽上皇(1180~1239年)は、配流から18年後、現在の島根県隠岐郡海士町(中ノ島)で崩御され、其の地で火葬されています。

御火葬塚



後鳥羽上皇の行在所跡地に近い森の中には、御火葬塚があり、今も宮内庁が管理していることはあまり知られていないようです。

御火葬塚拡大



後鳥羽上皇の皇孫が、後嵯峨天皇、後嵯峨天皇の皇孫が大覚寺御所で政務をした後宇多天皇、後宇多天皇の皇子が建武の新政の後醍醐天皇(1288~1339年)です。

大覚寺御所の勅使門



1332年、後醍醐天皇も隠岐に配流されていますが、その場所は島後の隠岐島町説と島前中ノ島の対岸にある西ノ島町説とがあり、はっきりしていないようです。

中ノ島から見た西ノ島



しかし、西ノ島町の地元では、後醍醐天皇が別府港に程近い黒木御所に配流されていたという言い伝えが残されている一方、隠岐島町に天皇配流の伝承が無いので、私は西ノ島に配流されていたという説を支持します。

別府港



後鳥羽上皇の遺骨は、御火葬から600年以上が経過した明治になって堀り出され、京都大原三千院に近い大原陵に改葬されましたが、今も地元では御陵として大切にされています。

隠岐神社の桜




1939年(昭和14年)、海士町では、後鳥羽上皇の没後700年を記念して行在所跡地の隣接地に隠岐神社を建立しています。

隠岐神社の桜



その神社建立時、境内に多くのソメイヨシノが植えられていましたが、70年を経た今ではその多くが寿命で枯れ死し、残された古樹も勢いが無くなっているようです。



私が訪問したとき、隠岐神社のソメイヨシノが丁度満開でしたが、その大部分は植え替えられた株のようでした。

隠岐神社の桜



今年、後鳥羽上皇の没後770周年となり、神社では大祭が挙行されるようですが、人口2580人の海士町にあるため、その維持はかなり大変みたいでした。

隠岐神社の鳥居



鳥居の前にある隠岐神社の文字は、当時の島根県知事、三樹樹三(上下が同じ)が揮毫したようです。


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ゴールデンウイークの休み、ちょっと奈良まで足を伸ばし、春日大社神苑「万葉植物園」まで行ってきました。



植物園の入り口を入ると、野草の直売所があり、結構珍しい品種が展示販売されています。

オダマキ



中でも、ラッパ状の苞から出る純白の付属体を「雪」に例えた雪持ち(餅)草は、奈良、三重、静岡、紀伊半島、四国などの山や丘陵の木陰、林のへりなどに分布している野草で、草丈は30~50cm花期は今頃だそうです。

雪持ち(餅)草



万葉植物園内の最初にあったのが麦のコーナーで、最近あまり見かけないオオムギ(六条オオムギ)が植えられて、丁度穂をつけていました。



そのすぐ隣には、パンや麺の原料として有名なコムギもあり、オオムギとの違いが一目で判るようになっているのが素晴らしと思います。



また、道を挟んだ反対側には、オオムギより小ぶりなビールムギ(二条オオムギ)が植えられていて、ビールの原料は、オオムギでもコムギでもない別の品種であることが良く判ります。



園内には、なかなか眼にすることができないほど大きく育ったダイコンもあり、珍しいダイコンの花も見ることができましたが、ダイコンの花もなかなかのものです。



また、これから開花する時期を迎えるアヤメとカキツバタもあり、早咲きの株にはもう花がついていました。

アヤメ



万葉植物園にある大池の周囲を半周し、アジサイ園を過ぎると20品種、200株もあるという藤の園があります。



日本を原産とするフジには、ヤマフジとフジ(ノダフジ)の2種類があり、中でも八重咲きの八重黒龍は、特に綺麗です。



一重で紫色が強い黒龍も美しい品種で、藤の園の中にも多くの株があり、来園者を楽しませています。



花が九尺まで垂れ下がる?ことから、名づけられたと思われる「九尺」という株もありましたが、どの株もまだ2尺程度しか成長していませんでした。


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夕方、マリンポートホテル海士の部屋にいると、本土の七類港から来るフェリー「おき」が湾内で大きく右に舵を切り菱浦港に向かう姿を眺めることができます。



隠岐汽船のフェリー「おき」(定員822名、総トン数:2366トン、全長99,5m、幅16m、航海速度20,5ノット、機関出力9000PS、2004年就航)は、「しらしま」と姉妹船ですが、9歳若い船です。

しらしまといそかぜ



このフェリー「おき」は、本土側の母港を島根県七類港としているので船体にゲゲゲの鬼太郎のキャラクターペインティングがありません。

しらしま



ホテルから見ていると、フェリー「おき」が菱浦港に入港する際に、進行方向右に舵を切りますが、その時に2366トンもある船体が、大きく左側に傾きながら不安定な状態で曲がっていることが判ります。



ホテルの部屋からは、フェリー「おき」の出港後、島後西郷港から来る「レインボー2」が湾内で大きく左に舵を切り菱浦港に向かう姿を眺めることもできます。



隠岐汽船所属の「レインボー2」は、(定員317名、総トン数:304トン、全長33,4m、幅13m、航海速度38ノット、機関出力11400PS、1998年就航)という高速客船(双胴型水中翼船)です。



この船の安定走行時(38ノット=時速約70キロ)には、水中翼だけを水の中に残し、船底が海面から2,7m持ち上がっていると船内放送されていましたが、部屋から見ていると確かにかなりの高さまで船底が上がっています。



ところで水中翼船「レインボー2」が西郷港から菱浦港に入港する際に左に舵を大きく切りますが、船体は左に傾き、遠心力に沿う安定した状態を維持していました。



この傾き方が、フェリー「おき」と水中翼船では逆になっていることを発見して吃驚しました。

レストランから見た船



マリンポートホテル海士に宿泊していると、目の前の菱浦港に寄港する船をのんびりと眺める贅沢な時間が持てるので、結構楽しいのです。


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さて、隠岐行きのフェリー「しらしま」が岸壁を離れると、高松伸氏設計のターミナルビル「みなとさかい交流館」の全景が良く見えます。



岸壁を離れた「しらしま」が狭い境水道の中で方向転換をしていると、島根県美保関町若葉水産所属の巻網漁船「第5わかば丸」と「第1わかば丸」がスピードを落とし航路を譲ってくれました。



この「第1わかば丸」を本船とする旋網(まきあみ)船団は、2003年8月2日に1回の水揚げで約870本のマグロを水揚げしたことがあるそうですが、凄い金額となったことでしょう。



「しらしま」は、境水道をさらに東に進み、海面からの高さが40mもある境水道大橋の下を潜ります。



ベタ凪の日本海を2時間半かけて航行した「しらしま」が最初に接岸するのは、島前西ノ島の別府港です。



別府港と対岸にある中ノ島の菱浦港を連絡するのが「いそかぜ2」(定員70名、総トン数19トン、全長17,6m、幅4,3m、航海速度28ノット、機関出力1366PS)です。



1日12往復という頻度で島前の島を結んでいるので、島民にとっては利便性の良い連絡船と言えるのでないでしょうか。



菱浦港に近いマリンポートホテル海士の部屋からは、頻繁に往復する「いそかぜ2」の姿を見ることができます。



この「いそかぜ2」は、時速50キロの高速で航行できるので、先に出向した「しらしま」の横を追い抜いて、わずか6分で菱浦に到着するので、乗船客には有難い連絡船です。

フェリーどうぜん



菱浦港には西ノ島と中ノ島を連絡するフェリー「どうぜん」(定員100名、車両10台、総トン数199トン、全長44,7m、幅9,6m、航海速度13ノット、機関出力1600PS)が接岸していました。

フェリーどうぜん



隠岐のような離島でも車は結構普及しているので、毎日8往復するフェリーは住民にとってありがたい船になっているようです。


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冬の休日、京都の南丹市園部町に全国最古の天満宮があるというので園部を訪ねてきた。



園部町は、自民党の大物代議士であった野中広務氏の地元で、政界を引退した野中氏は現在も園部町に居住されているという。



小向山山麓にある園部城は、波多野氏の家臣であった荒木氏綱(1535~1579年)によって築かれているが、園部城は1587年、明智光秀の丹波攻めによって落城し、その後明智光秀の軍に従っていた荒木氏は、光秀の滅亡とともに衰退している。

駅から町の中心までの途中にある園部教会



1619年、園部の地は但馬の出石から小出吉親が移封(2万9千石余)され、明治維新までの250年間、小出家によって治められている。

園部町の町並み



小出家の藩祖小出秀政は、豊臣秀吉の叔父(妻が大政所の妹)という豊臣一族(岸和田藩3万石の領主)で、関ヶ原では長男の吉政(出石藩3万石、秀吉のイトコ)と共に西軍についている。



しかし、二男秀家が東軍に属して関ヶ原で奮戦したために、小出父子の6万石の所領は安堵され、秀政の死後、長男の吉政が岸和田に移り、出石は吉政の嫡男の吉英が継いでいる。

櫓門



信州の真田家も長男信之が東軍、父昌幸と次男の真田幸村が西軍に属して戦い、長男の真田家は所領を安堵されているので、良く似た行動を取ったのである。

巽櫓



1613年に吉政の死で吉英が岸和田に移り、吉英のあとの出石藩は、弟の小出吉親が継いでいたが、1619年に園部(3万石)に移封されている。

隣にある天主のような国際交流会館



小出家は、無城主格の外様大名であったため、園部城跡に天守閣を築かない陣屋型の園部陣屋を築き、その門は園部高校の門として現存しており、映画のロケ地としてよく使われているという。

櫓門と巽櫓



吉親は、築城32年後に小向山にあった生身天満宮と多くの寺院を天神山麓や現在の新町へ移し、城を整備している。

妙光寺



小出家は外様でありながら第4代藩主・小出英貞が、譜代大名のポストである奏者番、寺社奉行、若年寄を歴任、第5代藩主・小出英持も同じくその三職を歴任、第6代藩主・小出英常は奏者番になり幕府の要職を歴任しているので、幕府の信頼が厚かったようである。


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高速バスが灘区に入ると、左手に神戸製鋼所の工場が延々と続き、神鋼が巨大な会社であることが良く判る。



同社は、この敷地の中に発電所を持っていて、発電した電力を関西電力に販売しており、上の写真右から3つめ、2本束となっている白い煙突が発電所のものである。

神鋼の岸壁には、船が横付けされていたが、外国から輸入した発電用燃料を降ろしているのかも知れない。



さて、湾岸線は、灘浜大橋を通ってコンテナヤードが広がる摩耶埠頭に入るが、ここを通過するといよいよ神戸市の中心部、中央区小野浜町である。



摩耶埠頭から小野浜町に通じる第二摩耶大橋から見たポートアイランド



神戸市では、ポートアイランドへ架かる橋が阪神大震災の際に通れなくなったことを反省、小野浜町からポートアイランドに通じる海底トンネル「神戸港港島トンネル」が完成している。



バスが、ポートライナーの軌道の下を通ると、すぐ海側に2階建ての浜手バイパスとメリケン波止場が見えてくる。



このメリケンパークには、針金細工のような外観の神戸海洋博物館もあるが、ホテルオークラの後ろに位置するために一瞬しか見ることができない。



メリケンパークを過ぎると、阪神高速の両側には防音壁が設置されるため、神戸市内の景観は望めなくなる。



仕方が無いのですこしウトウトしていると、高速バスは明石海峡大橋にさしかかっていた。



淡路島に入ったバスの窓からは、島の単調な風景が広がっていたので再び休んでいると、「鳴門公園口バス停です」との車内放送で起こされる。



窓の下を見ると、早い海流が引き起こしている鳴門名物の渦潮を見ることができ、ラッキーであった。


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尼崎市東海岸町の工場群の先には尼崎港が広がっていて、右手にはパナソニックのプラズマテレビ工場が見えてくる。



西行きの阪神高速湾岸線から見て左手に2棟、右手にはさらに巨大な工場が1棟、合計3棟もの大型工場が完成していたが、この工場がフル稼働となる景気の良い時代が早く来て欲しいものである。

パナソニック工場の先にある西堀運河の水島水門



西堀運河を渡り、武庫川工業団地を過ぎると、いよいよ武庫川河口、そこを過ぎると鳴尾浜の埋立地が見えてくるが、湾岸線は神戸まで続く新しい埋立地の上を、飛び石を渡るように伸びてゆく。

武庫川河口



飛び石と飛び石の間は、海の上を高架となって伸びる海上ハイウエイ状態なので、両側に防音壁が無く眺望は非常に良い。

鳴尾浜



甲子園浜埋立地の先には、西宮浜の埋立地があり、この埋立地の南側は新西宮ヨットハーバーという多数のヨットが繋留されるおしゃれな地区となっている。

西宮浜



そこから先は芦屋浜の埋立地であるが、この地区だけ住宅地に近いために防音壁があり、残念ながら景観を望むことができないのである。

芦屋浜の先にある深江浜



芦屋を過ぎた高速バスは、神戸市東灘区に入り、深江浜町から魚崎浜町と飛ばしてゆく。

魚崎浜



魚崎浜町から住吉浜町に渡る途中からは、JR住吉駅を始発とする六甲ライナーが通る六甲大橋が良く見える。



さて、湾岸線は住吉浜町、御影浜町と通過してゆくが、バスの左手には神戸製鋼ラグビー部の巨大なグランドが見えてくる。



名門、神鋼ラグビー部は、かつて何度も全国制覇を成し遂げているが、グランドなどの練習環境も恐らく全国トップレベルなのではなかろうか。



さて、高速バスはさらに西に進み、いよいよ灘区に入ることになるが、話しが長くなるのでこれから先は次回としておこう。


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先日、なんば高速バスターミナルから四国行きのバスの記事を紹介したが、今回はOCATからの四国行き高速バスについて紹介したい。



OCATへは、地下鉄難波駅から続く地下の通路を歩き到着するが、空の見える吹き抜け広場には、巨大なパチンコ玉のような彫刻が置いてある。



OCATの隣にあって朝日を遮っている建築中の建物は、ホテルモントレ グラスミア大阪が入る巨大なビルである。



さて、1階からOCATの中に入り、奥にあるエスカレーターで2階に上がるとそこがバスターミナルで、バス出発時刻の電光掲示板まで完備しているではないか。



バスターミナルの待合室は、騒音対策のためであろうか、窓が無いので地下にいるような錯覚に落ちてしまう。



OCATの2階から出発した四国行きバスは、一旦中央大通りまで出てから阪神高速湾岸線に乗り、天保山大橋を渡るルートを通っている。



湾岸線には、一部防音壁のある区間もあるが、住宅地から遠く離れた海上ルートを通過する際にはそれが無いので眺望が素晴らしい。



高速バスは、阪神高速の天保山大橋を渡り、桜島の倉庫群を見下ろしながら、北港運河の上を通り、常吉地区の生コン工場群と、その先にある北港ヨットハーバーを見ながら西に向かう。



この辺りは、大阪市の西の果てとなる地域で、正連寺川の上に来ると、舞洲にある清掃工場のデザイン煙突が良く見えている。



高速バスは、明治時代に切り開かれた淀川本流の上を通過するが、淀川の両岸は海に向かって次々と埋め立てられたため河口は遥かかなたに見えるだけである。



広大な淀川を渡っていると、左に大阪市、右には兵庫県尼崎市から西宮、芦屋、神戸に続く海岸線が展望できて綺麗である。



淀川を渡り切った先には、尼崎市東海岸町の工場群が見えてくるが、湾岸線を走る高速バスからの景観は素晴らしい。




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バスの出発時間が近づいたので、スイスホテル南海大阪のロビーから1階下、なんば高速バスターミナルに戻るともうバスが到着している。



バスの乗客は、たった3人だけだったので、これで採算が取れるのかと心配したが、すぐに杞憂であったことが判った。

意外と広いバスのトイレ



バスは、ターミナル近くの「なんばハッチ」の入り口から阪神高速に乗り、一路四国へ向かうものと思っていると、何と梅田で下りるではないか。

バスから見た道頓堀川



車内放送によれば、このバスは阪急三番街のバス停に一旦停車し、さらにハービスのバス停にも停車するという。

JR梅田駅北ヤード敷地の横を通って阪急三番街のバス停へ



通常、阪急三番街を出発したバスは、難波にあるOCATのバス停を経由してまっすぐ四国へ走ることになっているので、今回も同じと思い込んでいたのが間違っていたのである。

バスから見た土佐堀川



高速バスは、30分かけて梅田の2箇所の停留所から乗客を積み、ほぼ満員の状態で出発したので、さきほどの私の心配は見事に杞憂に終わったことになる。

なんば高速バスターミナル出発時の車内



OCATを出発する四国行きバスは、湾岸線を通るのであるが、梅田から出発したバスは、阪神高速神戸線に乗って明石海峡大橋を目指すようである。

阪神高速神戸線から土佐堀川と堂島川の合流を見る



OCATから乗ったバスから見える湾岸線の景観はすばらしいが、今回の阪神高速神戸線を通るルートは、両側の防音壁のせいで景観が台無しとなっている。



これならOCAT発四国行きバスに乗る方が、時間、景観共に遥かに快適であると思う。

明石海峡大橋



バスは、明石海峡大橋を渡り、意外と広い淡路島を縦貫して鳴門海峡大橋に向けてノンストップで走り続けている。

鳴門海峡大橋が近い



鳴門公園バス停ですというアナウンスで目を覚ますと、バスは鳴門海峡大橋のすぐ近くまで来ているではないか。

渦潮



鳴門の渦潮を眺めながら、大橋を渡るともう四国であるが、巨大な2つの大橋のお陰で四国と大阪は僅か2時間でアクセスできるのである。


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神戸外人居留地の東側にある東遊園地は、旧生田川の堤防敷で、居留地開設後まもなく、運動場としてアメリカ人によって開かれ開園した日本で最初の西洋式公園である。



実は、1995年の大震災の翌日、東遊園地に立ち寄ると公園西側の道路に駐車していた車に、地面から噴出した砂がかかって真っ白になっているのを見たことがあるので、公園の下は旧生田川の砂地である。

この辺り



1875年、日本政府と関連各国との間に条約が締結されてから、「内外人公園」となり、1922年からは「東遊園地」と呼ばれるようになっている。



この公園で、外国人がラグビー、 サッカー、ホッケー、テニス、野球、クリケットなどを行ったことから、日本に近代スポーツが普及するキッカケになっとという。

当時のスポーツクラブのデザインを受け継いだビラ ブランシェ



東遊園地は、震災のあった1995年12月からルミナリエのメイン会場になっているが、今年も12月4日木曜日から15日まで12日間の予定でルミナリエが開催されるようである。



昨日、東遊園地の前を通ると、既に設営作業が始まっていたが、建設中のルミナリエの枠も立派な芸術作品であった。



神戸市役所を背景とした写真も取ってみたが、青空と白いルミナリエ枠と高層ビルという取り合わせが面白い。



ルミナリエ枠の上部は、細い無数のワイヤーで近くの建築物に固定されていたが、このワイヤーは、昼間しか見ることができない。



ルミナリエは、赤字で開催が危ぶまれることもあったが、入場者の寄付によって昨年は若干の黒字となっているようである。

公式HPで昨年の観客を見ると、第2週の水曜日が雨のためか最も少なく19万人、開催初日が次に少ない19万人強なので、初日がルミナリエ鑑賞の狙い目かもしれない。



一方、最初の土曜日が55万人、次の土曜日が66万人、日曜日でも40から50万人という大混雑であったので、土日は避けるのが賢明であろう。


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神戸南京町は、横浜中華街、長崎新地中華街とともに日本三大チャイナタウンの一つに数えられ、東西約200m、南北110mの範囲に100あまりの店舗が軒を連ねる街である。



しばらくこないうちに、中国風に飾った店頭で点心、スイーツ、食材を売る店が一気に増え、平日の昼間であったが大勢の観光客で賑わっていた。



関西の外人居留地として最初に外国人が居住したのは大阪川口居留地であったが、次第に神戸に移転する人が増え、川口居留地の外国人は姿を消してしまったことは以前このブログで紹介したことがある。



神戸の外国人居留地は、1868年の神戸開港からほどなく126区画の土地が整備され、1872年まで4回の競売ですべて売却されている。

1915年創業、元祖豚饅頭の老祥記



神戸の華僑は、日本と清国との間に通商条約が無かったため、居留地内に住むことが許可されずに、仕方なく外人居留地のすぐ西隣に住み始めたのが南京町の始まりという。



1945年の神戸大空襲で全焼し、すぐ北側の元町商店街が整備されたあとも雑然としたままの町並みが残り、1970年代までは足を踏み入れるのにも躊躇するような場所であった。

元町商店街入り口



1981年になってからやっと広場や楼門の建造などの環境整備が始まり、1982年に南側の楼門(台湾製)が最初に完成している。

南門



南楼門は、高さ7,6m、二層の屋根に龍や鳳凰の彫刻がある豪華なものであったが、未だ町並みの復興が途上であったため、楼門だけが目立つひっそりとした南京町であった。

1983年になって南楼門の北側に広場ができ、中央に屋根部分が二層式となった六角堂が完成して一気に観光地化が進んだように思う。



1985年には東楼門(長安門)が完成し、ようやく今の南京町に近い町並みが出来上がったが、1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受けている。

長安門



しかし、地震の直後から行われた軽食販売が神戸市民、観光客の人気を呼び、現在では、他地区から移転してきた中華料理店等が続々と店をオープンさせたために非常に賑やかな街となっている。

西安門



2005年に設置された西側の「西安門」の内側額には、復興を意味する「光復」の二字が記され、阪神・淡路大震災の災いを転じて福となした南京町を誇っているかのようである。


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