三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

文昌市玉堂村で

2016年11月21日 | 海南島史研究
 紀州鉱山の真実を明らかにする会としては30回目、海南島近現代史研究会としては17回目の海南島「現地調査」の最初の日である11月4日の朝9時過ぎ、文昌市羅豆農場の南端にある玉堂村を訪ねました。
 212号海南省道に面した村の入り口に「革命老区村庄 玉堂村 二〇一五年三月」と刻まれた大きな石碑があり、そこからさら212号海南省道を北に200メートルほどいくと、「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」が建てられていました。
 「革命烈士永垂不朽」と刻まれた10メートルあまりの碑の下部に、13人の革命烈士の名と略歴が刻まれていました。
 王之寛さん、王興豊さん、王忠さん、王禄椿さん、王禄珍さん、王茀恵さん、王禄林さん、王綏和さん、王禄孫さん、王盛之さん、王禄松さん、蒙島南さん、王茀魁さんの13人です。
 碑の最下部に、2011年秋に建立された、と書かれていました。
 碑は100平方メートルほどの敷地に建てられていますが、その敷地の入口の門の向かって左側の壁に、「玉堂村革命史略」が刻まれていました。そこには次のように書かれていました。
   「本村は、もと100戸あまりで300人あまりが住んでおり、長い間革命活動を支持し敵との
   たたかいを堅持し、中国革命の勝利に大きな貢献をし、1999年に海南省政府は革命老
   蘇区に選定された。…………
    抗日戦争時期1938年に延安抗日大学から帰ってきて渓湖鄕長となった中国共産党員
   王忠と村の文淵小学校の教師であり中国共産党の地下党員であった王雁秋は、玉堂村
   を根拠地としてわが党の抗日主張を宣伝し、敵を震撼させた。しかし、王忠は日本軍
   に殺害された。…………………
    1942年に日本軍の飛行機が王堂村に2発の爆弾を投下し村民2人を殺した。…………
                         公元二〇一一年歳次辛卯仲秋建」

 わたしたちが碑をみていると、たまたま通りかかった王堂村の王茀鑫さんが近づいてきて、
   「この碑を建てるとき、はじめは政府に援助をもうしいれたがいつまでたっても回答がな
   かった。しかし、政府は王堂村を革命老区と認めた。
    抗日戦争時のことを知っている村人が少なくなっていくので、村に「玉堂村革命烈士碑
   等筹建小組」をつくって資金をあつめ、2011年8月に建てた」
と話しました。中共海南党史研究室編『海南省重要革命遺祉通覧』には、「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」にかんする記述はありません(『海南省重要革命遺祉通覧』についてはこのブログの2014年12月26日の「《海南省重要革命遗址通览》出版发行」および2016年11月18日の「五百余处革命遗址 诉说琼岛红色往事」をみてください)。

 碑をみたあと、王茀鑫さんに案内されて玉堂村に入りました。大きな祠堂と自宅で王会賢さん(1932年生)に話を聞かせてもらうことができました。
 日本軍が海南島に侵入してくるまえには、玉堂村の中心部にある祠堂のなかに「文淵小学」という学校と教師の宿所があったそうです。いま、祠堂のそばに1981年に玉堂村出身の華僑によって再建された「文淵小学」の建物がありましたが、廃校になっていました。

 王会賢さんは、しずかな口調で、つぎのように話しました。 
   「わたしは学校(「文苑小学」)に4年間ほど通った。日本軍がきたあとも学校はしばらく
   はあった。教科書も変わらなかった。
    日本軍がくる前は革命の歌も教わった。日本軍がきたとき校長の王雁秋は共産党員
   だったので逃げた。そのあと別の校長がきた。新しい校長も秘密党員だった。
    日本軍はこの村に何回もきた。家を焼いた。むかしのことなのであまり覚えていない。
    はっきり覚えているのは、王忠のことだ。
    王忠は、延安に行っていたが、故郷の王堂村にもどってきて、この地域の共産党の郷
   長をしていた。
    王忠は王堂村のなかに住んではいなかったが、治安維持会に協力していた村の漢奸
   に通報されて村のすぐ近く(いまバス停があるところ)で日本軍に銃殺された。
    日本軍は王忠の首をきって湖山の日本軍基地を囲んでいた鉄条網に吊るした(湖山に
   は、日本海軍海南警備府第15警備隊(呉鎮守府特別陸戦隊)の守備隊本部があり、海南
   警備府の「陸上部隊兵力配備要図」によると1943年3月の時点で40人の日本兵が「駐屯」
   していました)。
    わたしは王忠のことを“兄さん(三公)”と呼んでいた。王忠はあまり背が高くなくすこし
   痩せていた。本名は王禄福だった。「三公」というのは3男という意味だ。王忠は6人兄弟
   の3番目だった。王忠の弟の王禄林も烈士だった。
    日本軍に通報したのは、王忠の叔父だった。なぜそんなことをしたのか、わからない。
   はじめは王忠との関係はよかったのだが……。
    玉堂村のなかには治安維持会はなかった」。

 「老蘇区玉堂村革命烈士紀念碑」の下部に刻まれた13人の革命烈士のなかに王忠さんと王禄林さんの名があり、そこにはつぎのように記されていました。
   「王忠  中国共産党員。抗日戦争前タイから密かに延安に行き、延安軍政大学に参加
   して訓練した。1938年夏に党の委託を受けて家に戻り、海南党組織と連係した。1939年
   に党委員会は王忠を敵の占領区である渓湖郷人民政府の郷長に委任し、農村に深入
   させた。王忠は青年を抗日軍に参加させた。日本侵略軍を殲滅するために民衆は献金し
   食料を拠出した。1940年秋に王忠は湖山の日本侵略軍によって惨殺された。このとき、
   31歳だった」。
   「王禄林  1939年に瓊崖抗日独立総隊に参加。1940年に演豊地区での反日本侵略軍と
   の戦闘中に犠牲になった。23歳だった」。

 
                                  佐藤正人
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