三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

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月塘村で 10

2007年12月01日 | 月塘村
 李家和さん(1930年生)は、11月7日に、月塘村の自宅で、つぎのように話しました。中庭に、収穫したばかりの籾が干されていました。
     「日本軍が3月21日に来る前、父(李成梅)は、日本軍の
    仕事をしていた。一日働いて1斤(500グラム)のコメをも
    らっていた。
     日本軍がきた日、父は、いつも日本軍の仕事をしてい
    るので、日本軍に話せばだいじょうぶだろうと思ってい
    た。日本兵が家にはいってくるやいなや人を殺すとは思
    っていなかった。
     もしあのとき隠れれば、日本兵は探せなかっただろう。
     日本兵が侵入してきたとき、家には、父(李成梅)、母
    (符氏)、李建栄の父(李家璋)とわたしの4人がいた。みん
    なお辞儀をした。
     日本兵は3人だった。軍服を着ていて、一人は背が高く
    30歳くらいに見えた。はじめに一人の日本兵がわたしを
    刺した。わたしは地面に転がった。10回あまり刺され、
    わたしは気を失った。
     気がついたとき、父も母も李家鐘も台所の入り口でみ
    んな殺されていた。父は50歳あまり、母は50歳くらいだ
    った。
     二人の兄は、はたけに芋の見張りに行っていて無事だ
    った。兄たちが戻ってから両親の遺体を埋めた。
     刺された傷口から血が止まらなかったが、兄たちが薬
    草を採ってきて手当てしてくれた。
     父は、農業をやり、大工仕事もしていた。とても穏や
    かないい人だった。母も農業をやり、ときどきひとの家
    に手伝い仕事に行ってコメをもちかえっていた。性格の
    とてもいい人だった。
     日本軍が憎い。いまではもう日本軍を見つけだすこと
    ができなくなった。見つけたら懲らしめてやるのはあた
    りまえのことだ」。

 話し終わった李家和さんは、傷跡をみせてくれました。背中や腹部や腕に、いくつも傷跡が残っていました。とくに左の上腕部の傷は深いものでした。日本兵が刺そうとしてくるので心臓をとっさにかばったとき、銃剣でえぐられた痕だとのことでした。

 11月8日に、朱深根さん(1938年生)は、自宅でつぎのように話しました。
     「あの日、日本軍は、村に入ってくるとすぐに家を7軒焼
    いた。わたしは、それを見た。日本軍は家を焼いてから、
    村人を殺し始めた。日本軍が人を殺すのをみて怖くなった
    わたしは、急いで家に戻って、母に、“お母さん、早く逃
    げよう。日本軍が人を殺したよ”と言った。 
     母は、そのときいっしょに暮らしていた伯父と相談して
    逃げようとした。しかし、伯父は、“防共証があるからこ
    わがらなくてもいい”と言った。
     しかし、伯父がそう言ったあと、すぐに日本兵が家に入
    って来て、銃剣で母を刺した。母は6回刺されて気を失っ
    て倒れた。台所でそれを見ていたわたしは、いちどは逃げ
    だしたが、すぐに母を助け起こそうと考えて戻った。母に
    近づこうとしたとき、わたしは、日本兵に3回刺されて気
    を失った。
     母は6か所刺されたが、死ななかった。母は気がついた
    ときそばで気を失っているわたしを見て、わたしが死に
    かけていると思ったという。
     母は、わたしを抱えて隣の楽山村の伯母の所に行った。
    伯母が、かぼちゃのわたの水を飲ませると、わたしは息
    をふきかえしたという。
     父と姉は、坡(はたけ)に芋の見張りに行っていたの
    で無事だった。
     あのときの日本兵を見つけることができるなら、かれ
    らを殺してやる。
     わたしの家に来た日本兵は2人だった。1人は小さかっ
    たが頑丈そうだった。1人は背が高くヒゲをはやしてい
    た」。

 日本兵に銃剣で刺された朱深根さんの母(呉英男さん)は4年ほどまえに84歳で亡くなったそうです。
 10月31日に月塘村集会場まえの広場で上映したドキュメンタリー『日本が占領した海南島で 60年まえは昨日のこと』(漢語版)と『海南島月塘村虐殺』の感想をたずねると、朱深根さんは、
     「とても感動した。みなさんの仕事がとても細心で責任感が
    あるものだと感じた。見終わってから泣いた。涙が止まらなか
    った。泣いている自分をみて周りの人に笑われた。見ていると
    きむかしの悲惨だったことを思い出した」
と話し、力をこめた握手をしてくれました。
                                     佐藤正人
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