三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者の追悼碑を建立する会と紀州鉱山の真実を明らかにする会

10回の集いにいたる道 紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する

2017年11月09日 | 紀州鉱山
■紀州鉱山の真実を明らかにする会ができるまで
 1988年9月11日に、三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会の第1回準備会が開かれた。翌1989年1月28日と29日に、準備会は、はじめて熊野市を「現地調査」した。
 その後、わたしはほとんど毎月1回、車で熊野に通った。熊野に行くとき、当時は山を越え、あるいはふもとを回り、川の流れにそって蛇行する谷間の道を走った。
 途中現れる地名は、かつて和歌山地域ではたらいた朝鮮人の歴史を調べるために古い新聞記事を探していて、朝鮮人の労働現場を特定できた場所が多く、なじみ深かった。山間の険しい道。とつぜん現れる村むら。このような奥地まで朝鮮人は働きに来ていたのか! 朝鮮人の足跡、労働の跡が確かめられる場所を車で走らせた。そうして、紀州鉱山がある紀和町(当時は三重県南牟婁郡。2005年に熊野市に合併)も熊野市にいく途中ではじめて立ち寄った。

■紀州鉱山で働いていた人を韓国に訪ねる
 1996年夏、石原産業が1946年9月に当時の三重県内務部に提出した「報告書」を入手した。
 この「報告書」の主内容は、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人の名簿であった。
 その名簿に記されている住所をもとに、10月、佐藤正人さんが一人で、はじめて江原道麟蹄を訪ね、麟蹄郡庁の人たちの強い協力をえて、紀州鉱山に強制連行された金興龍さん(1914年生)、丁榮鈺さん(1917年生)、孫玉鉉さん(1922年生)、金石煥さん(1923年生)にお会いした。
 12月に、わたしたちは江原道旌善を訪ね、翌年から、江原道の麟蹄、旌善、平昌、江陵、堤川、慶尚北道の安東、軍威などを集中的に訪ね、紀州鉱山に強制連行され、解放後の12月に帰郷した人たちにお話を聞かせていただいた。また、強制連行された人の遺族、村民を強制連行する側だった、当時、警官や村長だった人にも話を聞かせていただいた。

■はじめての紀州鉱山「現地調査」
 三重県木本で虐殺された朝鮮人労働者(李基允・裵相度)の追悼碑を建立する会は、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日、1995年11月19日に、はじめて紀州鉱山のあった地域(紀和町)の「現地調査」をおこなった。このときの資料として作った『熊野・紀州鉱山・新宮現地調査資料集』(Ⅰ)のはじめに、わたしたちは、
   「李基允氏と・相度氏の追悼碑を建ててから1年後のいま、わたしたちは、熊野・紀州
  鉱山・新宮に朝鮮人労働者のあとをたずね、日本の行政機関や、企業がかくしてきた歴史
  の事実を明らかにしていく作業を具体的にすすめていく第一歩として、「熊野・紀州鉱山・新
  宮現地調査」をおこなうことにしました。
   この調査をきっかけとして、こんご、紀伊半島(奈良県、和歌山県、三重県)における朝鮮
  人強制連行・強制労働の歴史や、石原産業の軌跡にも示されている日本の企業の他地域・
  他国侵略の事実を、おおくの人びととともに明らかにしていきたいと思います」
と書いた。
 1996年11月17日、李基允さんと裵相度さんを追悼する2回目の集会の翌日に第2回目の紀州鉱山「現地調査」をおこなった(『紀州鉱山「現地調査」資料』(Ⅱ)を作成)。
 1997年2月9日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会が結成され、それからは毎年、李基允さんと裵相度さんを追悼する集会の翌日に紀和町で当時のことを知っている人を訪ね話を聞いた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、1997年9月に発行された『在日朝鮮人史研究』27号(アジア問題研究所発行)に「紀州鉱山への朝鮮人強制連行――なぜ事実を解明するか、事実を解明してどうするのか――」を発表した。

■紀和町にたいする要望
 1998年4月1日付で、紀州鉱山の真実を明らかにする会としてはじめて、紀和町にたいし、つぎのことを要望した(中浦敏夫紀和町長、久保幸一紀和町教育長に郵送)。
  1、紀州鉱山への朝鮮人強制連行について調査し、『紀和町史』に明記すること。 
  2、紀州鉱山への朝鮮人強制連行に事実を示す展示がない鉱山資料館の展示内容を変更
   し、解説を書きかえること。
  3、紀州鉱山への朝鮮人強制連行にかんする資料を探索し開示すること。
  4、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人の追悼碑を建て、定期的に追悼式をおこない、追悼碑の維
   持・管理に責任をもつこと。追悼式に、紀州鉱山に強制連行された朝鮮人、遺族の参加を
   保障すること。
 この要望書には、文書回答はなかったが、1998年11月16日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町役場で、助役、教育長と話し合った。
 紀和町側の口頭での回答はつぎのようなものであった。
 1について。今後検討する。調査の費用を補うことは可能。千炳台さんの埋火葬許可証を調査すると約束。 2について。教育長が快諾。 3について。教育長は、『紀和町史』の書き換えの時点で作業をしたい。書き直しの必要性を認める。 4について。今後の検討課題。

■海南島・韓国・日本で
 1998年6月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が鉄鉱石を略奪していた海南島の田独鉱山で最初の「現地調査」をおこなった。
 1998年8月31日に、韓国KBS制作『해남도에 묻힌 조선혼(海南島に埋められた朝鮮の魂)』が韓国で放映された(取材に紀州鉱山の真実を明らかにする会が協力した)。
 1998年8月18日から22日まで、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、韓国慶尚北道安東郡・軍威郡で聞きとりした(このとき、韓国安東MBCが同行取材した)。
 1998年8月29日から9月3日まで安東MBCが三重県、和歌山県、大阪で取材(紀州鉱山の真実を明らかにする会は同行して取材協力した)。1998年10月15日に、安東MBC制作『紀伊半島에 감추어진 진실(紀伊半島に隠された真実)』が韓国で放映された。

■はじめての追悼集会
 それから10年間、紀和町は、1998年11月の口頭での約束を何ひとつはたさなかった。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2008年3月9日、紀州鉱山の旧選鉱場前の広場で、はじめて、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する集いをもった。このあと、前日の3月8日に完成させたドキュメンタリー『紀州鉱山に強制連行された人たち 故郷で 麟蹄・平昌・安東・軍威』(制作:紀州鉱山の真実を明らかにする会)を上映した。
 8月31日に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、三重県庁所在地の津市で、在日本大韓民国民団三重県地方本部、在日本朝鮮人総聯合会三重県本部とともに、「紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立する会」の発会式をもった。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 その後、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、紀和町を合併した熊野市に、石原産業が紀和町に寄贈し、荒地となって放置されていた場所を、追悼碑建立のための用地として提供を求めたが、熊野市は拒否した。
 つぎに、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、石原産業が紀和町に貸与していた土地の一角に追悼碑建立のための用地提供を要請した。石原産業は熊野市が了承するなら構わないということだったが、熊野市は拒否した。
 2009年5月に、紀州鉱山の真実を明らかにする会は、かつて石原産業の鉱山事務所があった場所の筋向かいの土地を購入し、紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する碑を建立し、2010年3月28日に除幕集会をおこなった。
 2008年3月9日、2010年3月28日、2010年12月5日、2011年11月27日、2012年12月2日、2013年11月10日、2014年11月23日、2015年11月8日、2016年11月27日。
 そして、今年2017年11月19日に、10回目の追悼の集いをもつ。
 2015年11月8日、8回目の追悼の集いでは、三重に住む兪柄煥さんの全面的な協力で「조선인추도비」「朝鮮人追悼碑」と、ハングルと漢字で彫り込んだ碑の除幕式をおこなった(このブログの2016年11月2日の「新しい碑」、2016年11月3日 「朝鮮人追悼碑をささえる12個の石」をみてください)。

■紀州鉱山で亡くなった朝鮮人を追悼する場への課税問題
 2009年5月、紀和町に追悼碑建立用地を購入後、11月に紀州県税事務所に減免措置を要請したが拒否され、2010年12月と2011年2月に会員ふたりの銀行口座から不動産取得税と固定資産税相当額が差し押さえられた。
 紀州鉱山の真実を明らかにする会は、2010年度の不当課税にたいし、2011年3月18日、三重県と熊野市を被告として、津地裁に提訴した。2010年度の不動産取得税と固定資産税、2012年度の固定資産税の不当課税にたいする提訴はそれぞれ最高裁で敗訴し、課税相当額は会員の口座から差し押さえられた(裁判の目的、経緯については、このブログの2014年12月17日「熊野市を被告とする訴訟の経過」、2015年10月9日および2016年11月4日の「熊野市を被告とする第2訴訟の経過」などを読んでください)。

■強制連行された人たちの故郷からの支援と交流
 紀州鉱山に強制連行されたのは江原道の人たちがいちばん多かった。わたしたちは江原道の各地と、強制連行された人数が江原道、京畿道についで多かった慶尚北道の各地を訪ねたが、多くのかたがたとの出会いと協力があって、文書資料では得られない紀州鉱山への強制連行の真実に近づくことができた。
 1997年8月、江原道平昌郡蓬坪面で朴東洛さんが佐藤正人さんに声をかけた。朴東洛さんは当時江原道議会の議員で、佐藤正人さんがなぜ平昌に来たかを知ると、江原道から日本に強制連行された人たちのことに強く関心を持ち、朝鮮人と日本人とによって結成された民衆組織である紀州鉱山の真実を明らかにする会の運動に共感し、その後、わたしたちが平昌を訪ねるたびに郡内から紀州鉱山に強制連行された方々のところに案内してくださった。‟追悼碑ができたらみんなと紀州鉱山に行く”と話されていたが、1999年1月に交通事故で亡くなられた。
 丁乙權江原道議会副議長(当時)は、2011年2月28日、江原道議会臨時会で、‟日帝強制徴用による紀州鉱山韓国人志望者と韓国人追悼の場への不当課税反対”と発言した。
 その後、江原道議会は三重県にたいし、不当課税に反対する「嘆願書」と署名録を採択した。丁乙權さんは、1998年10月30日に佐藤正人さんが会った丁榮鈺さんの孫である。
 丁乙權さんのアボヂ、丁炳碩さんには、2010年1月31日に、麟蹄郡麒麟面の自宅でアボヂが強制連行されていたころの話を聞かせていただいた。丁炳碩さんは、その年の12月の3回目の追悼集会に韓国からきてくださったが、その半年後の2011年6月8日に病死された。
 2012年2月17日、慶尚北道議会で、金昌淑議員が紀州鉱山への慶尚北道からの強制連行、紀州鉱山の真実を明らかにする会の活動などについて発言した。2月22日に慶尚北道議会は本会議で、紀州鉱山への強制連行と死者にかんする真相究明を要求する決議案を採択した。4月2日~4日に、慶尚北道議員団が、熊野市議会、三重県議会を訪問した(このブログの2012年4月5日の「道議会紀州鉱山真実糾明訪問」などをみてください)。慶尚北道議員団は、2015年11月に追悼集会に参加した(このブログの2015年11月6日の「慶尚北道道議会議員団の行動予定 11月6日~9日」、2016年10月30日、31日の「壬辰倭乱・朝鮮植民地化・強制連行の痕跡をたどる 2015年11月、韓国慶尚北道の道議員団とともに」1,2をみてください)。

 紀州鉱山で亡くなった人たちを追悼する集いの10年の軌跡、それ以前からの紀州鉱山への朝鮮人強制連行の歴史の調査の過程をふりかえると、わたしたちの活動は多くの人たちに支えられていたことをあらためて強く思う。
                                           金靜美
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