対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

無花果 (いちじく)の実

2018-08-31 | 庭の草木
昨年は収穫できなかった。今年の6月に1つ熟した。それは2年がかりの実だったろう。今年は地を這うような枝ぶり葉ぶりである。数日前、葉をかき分けてみると、今年できた実が1つ熟していた。撮るつもりでいたが落としてしまった。冷蔵庫で冷やして食べたら美味しいイチジクだった。今年は木が回復しているのかもしれないと思った。実がいくつか熟しはじめている。

オヒシバとメヒシバの穂

2018-08-30 | 庭の草木
雑草が通路に迫っている。背が伸びてきている。いま、雑草の主役はオヒシバ(雄日芝)、メヒシバ(雌日芝)。それにツユクサ(露草)である。オヒシバの大きな株のいくつかは初めに引き抜いて、後は草刈り機で刈り取るつもりである。穂が出るまで生長させれば区別できるが、穂が出る前に区別できるようにしたいものだ。右の太いのがオヒシバ、左の細いのがメヒシバである。

アリと露草

2018-08-29 | 庭の小動物
ラジオ体操とき確認するのは、モミジアオイの赤い花とツユクサの青い花である。どちらも一日花だが、ツユクサの方がしぼむのは早い。昼には閉じている。以前この時期に開花を見て意外に思ったのは、ツユクサのツユに「梅雨」を無意識のうちに重ねているからだった。ツユクサのツユは「露」である。朝露をうけて咲きはじめる。花は3枚。青い大きな花が2枚、白い花が1枚である。白い花の下に蟻がいた。

ショウリョウバッタと雌日芝

2018-08-28 | 日記
オヒシバ(雄日芝)とメヒシバ(雌日芝)の穂が出てきている。2種類の穂が1枚に写る場所はないかと探していた。見つからなかったのだが、途中、バッタが飛んできてメヒシバの葉に止まった。バッタは擬態の緑色である。近づいて撮ってみた。

調べてみると、ショウリョウバッタ(精霊蝗虫)のようである。しかし、見本と比べていると足に違和感があった。最初、右側の葉に重なっている棒のようなものが、茎なのか足なのか迷った。よく見ていると柔毛がある。棒のようなものは関節の所で切断された足だと分かった。そして、左足は根元から欠けているではないか。見本とは足が違っていた。写っていたのは、太い後足を失った、傷ついたショウリョウバッタだった。

セグロアシナガバチと千両

2018-08-27 | 庭の小動物
みかんは青い実をつけている。生理落果して適当な数になってきているように見える。近頃、みかんの木の辺りをハチが飛んでいるのを見かける。みかんの下の通路を歩いていると、千両の葉にハチが止まっていた。千両も順調に生長していて、こちらも青い実ができている。

ハチはアシナガバチだが、調べてみると、セグロアシナガバチ(背黒脚長蜂)だった。日本のアシナガバチの中では最大だという。たしかに大きい。触角の色から判断するとメスだろうか(オスは黒いという)。

楠の若い枝が折れていた

2018-08-24 | 日記
南側の雨戸はすべて閉めた。夜は風と叩きつける雨音を聞きながら横になっていた。久しぶりに台風の強い風を実感していた。しかし、朝、確認してみると、何かが飛ばされた様子もなく、カンナが何本か傾いている程度だった。
ところが、午後になって北側の道路に出てみると、側溝にクスノキ(楠)の1メートルほどの黄緑色の葉の塊が2つ落ちていた。今年伸びはじめた枝が風で折れたのだろう。確かめると、引きちぎられた白い跡が残っていた。

野生えの楠で、ときどき剪定する必要があるので、被害というわけではない。

ヨウシュヤマゴボウの黒い実

2018-08-23 | 庭の草木
6月に見つけたヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)は、その場で他の雑草といっしょに引き抜いてしまってもよかったのだが、なぜか生長を見守る気になった。ヨウシュヤマゴボウだけを残した。花が咲き、実がなった。そして、熟してきた。

茎が2本、高さ1.5mほどに伸び、葉を1.5m四方に広げている。

あざみの白い綿毛

2018-08-22 | 庭の草木
庭を歩いていると、アザミ(薊)の白い綿毛が目に付いた。

綿毛(冠毛)は種に付いているのではなく、果実に付いているのだという。果実は痩果(そうか)といい、この中に種があるが、痩果が種にみえる。タンポポもこのようなつくりだという。これが風に乗って遠くまで飛んでいく。

夏がすぎ風あざみ。

思考モデルと拡張的推論

2018-08-21 | アブダクション
アインシュタインの思考モデルにおいて、本質的に論理的なものではないと指摘されているのは、AとEとの関係、SとEとの関係である。もちろん確実性の違いはあり、SとEとの関係の方が、AとEとの関係より確かなものである。

(引用はじめ)
(4)SはEと関係づけられる(つまり経験によってテストされる)。この過程もまた論理のほかの(直感的)領域に属する。というのもSに現れる概念と直接経験Eとの間の関連は、本質的に論理的なものではないからである。/しかし、このSとEの間の関係は実際のところAのEに対する関係に比べれば、はるかに確かなものである。
(引用おわり)
本質的に論理的にものではないというのは、パースの拡張的推論と対応している。また、確実性の違いは、「帰納は仮説よりもいっそう強力な種類の推論である」(パース)に対応している。AとEとの関係はアブダクション、SとEとの関係はインダクション(帰納)である。



アインダクション2

2018-08-20 | アブダクション
パースは「直観」を「以前の認識によって限定されない認識」すなわち「意識の外にある事物によって限定される認識」という意味で用いている(パース「論文集」(『世界の名著48』所収))。そして、認識はすべて以前の認識によって限定されるものであって、「直観」の存在を否定している。いいかえればすべては推論だと主張している。このような姿勢はアインシュタインの思考モデルとまったく重ならない。というのは、アインシュタインはEJAの過程を、直観(直感)的なつながりがあるだけで、論理的なつながりはないと特徴づけているからである。「心理学的にはAはEに依存している。しかし我々をEからAに導く論理的経路は存在しない。そこにはただ直感的(心理的)なつながりがあるだけである」。
(注1)

しかし、パースの「探究モデル」の第一段階、アブダクションの説明では、直観(直感)を容認する姿勢を示しているようにみえる。
(引用はじめ)(上山春平著『弁証法の系譜』)
この過程(アブダクションのこと、注)は、(1)現象の観察を起点とし、(2)仮説の発見をへて、(3)仮説の定立におわる。(この過程は形式化できない。そうした推論過程をパースは”Argument”とよび、形式化のできる”Argumentation”と区別する)。
(1)あらゆる研究は、不可解な現象を、いろいろな側面から観察し、考察することからはじまる。その目標はこうした現象の謎を解くための説明もしくは仮説を見つけることである。(2)われわれは、観察をかさねるうちに、そうした仮説を突然思いつく。(3)しかし、この仮説のうけいれ方には、たぶんこんなことではなかろうかといったはなはだ消極的な態度から、どうしてもそれを信じないではいられないというきわめて積極的な態度にいたるまで、無数の段階がある。
(引用おわり)

反対に、アインシュタインは「理論物理学の方法について」(選集3所収)では推論を容認する姿勢を示している。(注2)
(引用はじめ)
理性は体系の構成を与え、種々の経験内容とそれらの相互関係は理論から結論される諸命題の中にそれらの表現を求めなければなりません。全体系の、とりわけその体系の基礎をなしている概念および基本法則の価値と正当性は、この種の表現が可能かどうかということにもっぱらかかっています。
(引用おわり)
パースとアインシュタインは違った表現をしているときがあるが、同じ過程を見ているのだと思う。

(注1)
この図は「アインシュタインロマン」からのものだが、Jはホルトンの説明に合わせて、追加している。また、SからEへの矢印が実線になっているのは、アインシュタインのスケッチを忠実に再現しているものである。しかし、これはSやSと同じように破線で描くはずだったが、インクがひろがって実線になってしまったものだろう。実際、ホルトンの図では、Sも破線で描かれている。
(注2)
ホルトンは「科学理論の形成に関するアインシュタインのモデル」で、この箇所にもとづいて次のように指摘している。
(引用はじめ)
もともと根本的仮定Aを想定する段階でさえ、彼はインスピレーション的要素が欠かせないと主張しながらも、公理の「体系に構造を与えるのは理性の仕事である」という。
(引用おわり)