対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

Hic Rhodus, hic salta!の表層と深層

2015-01-08 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!

 表に見えるのは「ここがロドスだ、ここで跳べ!」である。その下には「ここがロドスだ、ここで踊れ!」がある。さらにその下には「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」がある。

 
  踊るのか、跳ぶのか。

  跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

梯明秀のロドス

2015-01-07 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!に対して、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」という訳があることは、堀江忠雄の『マルクス経済学と現実』で初めて知った。堀江だけだろうと思っていたが、フォイエルバッハ『唯心論と唯物論』の訳者、船山信一(岩波文庫)も桝田啓三郎(角川文庫)も、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」であった。

 最近、もう一人増えた。梯明秀である。かれは『ヘーゲル哲学と資本論』のなかで、次のように述べていた。
マルクスは、ヘーゲルの学問的態度に反して、「彼の理論が実際にその時代を内に超越し、世界をそれが有るべきように建築する」のであるが、しかし、このマルクスの理論は、『資本論』の著作をまつまでもなく、つとに「彼の臆念のうちにのみ実存する」ことを止めて、世界の大衆のものになっていたのであった。それだからこそマルクスは、<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ、これを肝に銘じて、ヘーゲルとともに、その時代の内に在ったというわけである。すなわち二人は、現実に彼らの時代に制約され、そこに内在し、そこを跳び越えはしなかったのであるが、一方は、現実に「有るところのものが理性的である」と信じ、他方は、現実に「有るところのものは理性を喪失している」と見たところにおいて、われわれは、彼らのあいだの学問的態度の差異を、発見すべきであろう。
 「<ここがロードスだ、ここで踊れ>という箴言を、ヘーゲルによって教えられ」とは一体どういうことなのだろうか。通常は踊るsaltaを「跳ぶ」と誤解するのに、梯は跳ぶsaltusを「踊る」と誤解したのだろうか。いいかえれば、ヘーゲルが引用したHic Rhodus, hic saltus!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えていたのだろうか。
 「ヘーゲルによって教えられ」とは、上のように直接的に教えられるとはかぎらない。間接的に教えられる場合もある。つまり、ヘーゲルは「跳ぶ」だが、マルクスは「踊る」と言い換えて継承した場合でも「教えられ」たことになる。

 いずれにしても、梯明秀はHic Rhodus, hic salta!を「ここがロドスだ、ここで踊れ!」と捉えている。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

過渡期の箴言Hic Rhodus, hic salta!

2015-01-06 | 跳ぶのか、踊るのか。
 Hic Rhodus, hic salta!は普通には「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と読まれている。これに対して、マルクスが書いているのは「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」ではないかと私は問題提起した。
 いずれも文字どおりでなく、前者は踊るsaltaを「跳ぶ」、後者はロドスRhodusを「薔薇」と考えている。

 ラテン語に忠実に読めば、「ここがロドスだ、ここで踊れ!」である。Hic Rhodus, hic salta!は過渡的な箴言であると考えている。

     跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ロドスは前座、薔薇が真打ち2。

2014-12-28 | 跳ぶのか、踊るのか。
 マルクスが、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』や『資本論』で書いているHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」ではなく、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」である。これが「跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇」で提起している仮説である。

 この問題提起に着目してもらう一つのきっかけとして「ロドスは前座、薔薇が真打ち。」という記事を書いた。補足しておこう。

 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するときに、ロドスと薔薇をの二つを取り上げている。初めにロドスを取り上げ、次にその言い替えとして薔薇を取り上げている。

    Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)
    Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)

 これまで『資本論』のHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と解釈されてきたため、ヘーゲルの箴言の二つの内、ロドスだけが着目され、薔薇がマルクスとの関係でほとんど注目されてこなかった。

 しかし、ヘーゲルの二つの箴言を『法の哲学』の序文に沿って読めば明らかのように、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語で書いた薔薇の箴言の方である。

 それならば、マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)ではなく、Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)ではないか。

 マルクスが Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)を、Hic Rhodus, hic salta! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)と訳して継承した可能性は大いにあると思う。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ロドスは前座、薔薇が真打ち。

2014-12-23 | 跳ぶのか、踊るのか。
 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するとき、ギリシア語やラテン語でロドスを取り上げた。しかし、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語の薔薇である。十字架における薔薇にこそ、現実と理性の関係が過不足なく対応しているのである。ドイツ語で表現していることが大切である。それはルターがギリシア語やラテン語の聖書をドイツ語に翻訳したのと同じようなものといえるのである。

 マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、それはロドスではなく、薔薇なのである。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加