対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

アオキの青い実

2022-01-31 | 庭の草木
もう一月の最終日。千両の赤い実が少なくなっている。目撃はしていないが、鳥が食べているのだろう。近くのアオキに実が目立つ。赤く色づき始めているのもあるが、ほとんどは青いままである。


運転免許更新、「眼鏡等」付

2022-01-28 | 日記
4ヶ月ほど前の高齢者講習では両眼で0.8見えていて、こんど免許を更新するとき、「眼鏡等」の条件が消えたらと願っていた。

ところが、この1か月ほど、本を読むとき、読みづらいときが出てきた。また右目がかすむときがあって、両眼では気づかないが、単独で見ようとすると視力の低下を実感していた。右目の白内障が進んでいるのである。

眼鏡を携帯して裸眼で運転しているが、周囲はよく見えていて危険を感じることはない。先日、最寄りの警察署に更新に行ってきた。期待していたが、裸眼では通らなかった。ランドルト環(C)の向きを答えると違っていた。

眼鏡をかけて通ったが、びっくりしたのは裸眼と同じ程度しか見えていないことだった。眼鏡をかけていても環がダブって、ぼんやりしていた。少ししか視力が改善していないのである。5年後はどうなっているだろうか。

思いがけないジャノヒゲの青い実

2022-01-27 | 庭の草木
先日、側溝に降りて万両を撮ったとき、ジャノヒゲが境界沿いに何か所か生えているのに気づいた。しかも、南側にあるのより青い実がまとまってついている。葉をかき分ける必要もない。

側溝から上がって道からみると、万両の赤い実はわかるが、ジャノヒゲの青い実はまったく目立たない。

実体、新たなる論理を要求するもの

2022-01-26 | ノート
武谷はニュートン力学の運動方程式や原子における量子力学を「新たなる実体」と捉えていた。それは「新たなる論理を要求するもの」だった。

このような「実体論」を、武谷は現象論から実体論においては想定していない。「実体的な太陽系」(実体的な要素)の導入は、「新たなる論理を要求するもの」というよりも構造、構成要素として捉えられている。しかし、現象論から実体論においても、新たなる論理は要求されたのではないだろうか。

「実体」は、「構造」でもなく「本質と偶有性」でもなく、「新たなる論理を要求するもの」である。

このように捉えると武谷三段階論の移行はアインシュタインの思考モデルと関連してくる。

現在の周期律は実体論的段階である

2022-01-25 | 周期律
ニュートン力学の形成過程と周期律の形成過程を対応させる。武谷三段階論の観点から周期律の歴史を整理するという問題意識が原子番号92・93・94で考察を閉じる結果をもたらした。天王星、海王星、冥王星と対応していたからである。

そのあとの超ウラン元素は、周期律はすでに本質論的段階でもあり、また地名や人名などの元素であまり関心を持てなかった。ところが、周期表はいまも進行中であるという観点をみると、これまでの考察を開く必要を感じるようになった。

エリック・シェリーがいうように、電子が軌道に入る順序は経験的に経験的に分かっているが、それを説明できる理論はまだないのである。

次のような図式が浮かぶ。現在の周期律は実体論的段階であり、本質論的段階への移行を模索している(メンデレーエフのは現象論的段階である)。これは実体を本質と偶有性と捉えると同時に、構造としても捉えることを意味する。わたしにしてみれば、別れていた武谷と再会するのである。ここで構造とは原子構造・原子核構造のことである。原子構造で周期性の大部分は解決している。原子核構造で微細に詰めているという段階である。

短周期表から長周期表へ、長周期表から超長周期表へと深まっている。これは現象論、実体論、本質論と対応するだろうか。

万両を久しぶりに撮る

2022-01-24 | 庭の草木
冬の赤い実のシリーズで千両、南天、クロガネモチときて、こんどは万両と思った。庭の何か所かに万両が生えているが、南側のは実が貧弱で気に入らない。北側の1本がそれなりに実をつけていたので、上から取ろうとしたがうまく行かない。長靴に履き替え、脚立を持ってきて、側溝に降りて下から撮った。

『周期表 いまも進行中』を読む

2022-01-21 | 周期律
『周期表 いまも進行中』(E.R.シェリー著、渡辺正訳、丸善出版、2013)は小冊子だが、たいへん興味深い。偶然手にした本だが、相性を感じながら、8章まで来てなるほどと思った。次のように書いてあったのである。
(引用はじめ)
量子論・量子力学と周期表の関係をまとめましょう。1913年、エネルギーの量子化をもとに水素原子を扱ったボーアは、多電子原子にも考察を広げ、周期表の姿に合う結果を得ようとしました。やがて、ボーアが使った量子数(主量子数)のほか三つの量子数を考えないかぎり、周期表にうまく合わないとわかります。なお、ボーアの前にはJ・J トムソンが周期表をにらみつつ元素の電子配置を考えていました。/つまり周期表は、「原子物理学→古典量子論→量子力学」と歩む科学にとって試金石や道案内の役目をしたのです。周期表がニワトリ、量子力学が卵だといえましょう。/近ごろ、化学も周期表も量子力学ですっかり説明できるーーという風潮があります。「還元主義」といえましょうか。なるほど物理の理論は、いろいろな化学現象の説明に役立ってきました。しかしじつのところ周期表は、量子力学に実を結ぶ科学の歩みを支えてきたのです。その反対ではありません。いずれそのうち、周期表を説明できる理論が生まれる可能性はあるのでしょうけれど。
(引用おわり)
訳者は「あとがき」で次のように述べていた。
(引用はじめ)
ふつうは「量子論の産物」とみる周期表が、じつは量子論の生みの親だったーーという意外な見かた(8章末尾)には、思わず膝をたたきました。
(引用おわり)
メンデレーエフの周期表(実体論的段階)はボーア原子論(本質論的段階)の母胎だったという見方をしていたのである。

ただ、拙論「周期律の形成について」は進行を止めている。前期量子論(1925)で止まり、超ウラン元素93、94で止まっている。これを進行させなければならないだろう。


クロガネモチを仰ぎ見る

2022-01-20 | 庭の草木
冬、寒かったり雪が降ったりすると、赤い実は美しく見える。南天は少し前に投稿したので、今日はクロガネモチ(黒鉄黐)にする。冷たい風が吹いていたが、庭に出た。

5メートルほどあるかもしれない。鳥にも赤い実は美しく映っていると思うが、実がまずいことは知っているのだろう、手つかずのままである。

二人が食べていて一人が死んでも

2022-01-19 | ハングル
二人が食べていて、一人が死んでも分からない。
둘이 먹다가 하나가 죽어도 모른다.
(トゥリ モクタガ ハナガ ジュゴド モルンダ)

これは韓国の慣用表現で、食べ物がたいへんおいしいという意味である。日本語のほっぺたが落ちるほどおいしいに当たる。
以前、トミの韓国語講座で出てきて面白い表現だと印象に残っていた。もっとも残っていたのは日本語訳で韓国語ではなかったけれど。今日たまたま手にした本に載っていた。

調べてみると中級46回、-다가「〜していたら・〜してから・〜している途中」の例文として出ていた。

ハングルの勉強は続けている。
papagoを使った発音練習が加わっている。スマホがありがたい。例えば上の例文を発音する。すると、ハングルが表示され日本語訳が出て来る。この例文は同じハングルが表示され、「二人が食べていて、一つが死んでも分からない」と出てきた。うまく発音できたのだが、これはたまたまで、たいていは違うハングル、違う和訳になる。

遷移元素の位置について

2022-01-18 | 周期律
ケドロフ『科学的発見のアナトミア』(1973)を読み直していて、違和感をもったのはケドロフがいわゆる短周期表を高く評価しているということだった。50年も前の本だが。「メンデレーエフの王冠といえる短周期表」と形容し、超周期表に戻ることは誤りだと述べていた。

ところが現在は短周期表は消えて長周期表に置き換わっている。短周期表は実体論的段階の偶有性ととらえるべきだろう。周期律は原子量基準(実体論的段階)から陽子数・電子配置(本質論的段階)になり、短周期表は長周期表に変わっている。AB亜族は消えて1族から18族になっている。

しかし、この周期表で遷移元素は正しく捉えられているのだろうか。

メンデレーエフは1869年に周期律を発見するが、はじめはいわゆる長周期表だった。その発見をより正確に表現しようとして1871年に短周期表に移行した。長周期の元素を二つ折りにして短周期(Ⅰ族からⅦ族)にそろえた。そのとき偶数系列から奇数系列をつないだのが「遷移元素」(Ⅷ族、鉄・コバルト・ニッケル・(銅)など)だった。

いまの長周期表では、遷移元素は第3族元素から第11族元素の間に存在する元素である。12族(亜鉛、カドミウム、水銀)は違うのか。確かめてみよう。