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2021-12-31 | 日記
今年は南天もよく実った。鈴なりの赤い実は初めて見るような気がしていた。

雪の大晦日となった。 良い年を迎えたい。


周期律の形成と武谷三段階論

2021-12-29 | 周期律
ホームページの更新履歴を見ると、2005年に「周期律の形成について」という記事を補論として投稿している。はじめに(1990年)・目次(2000年)・まえがき(2005年)・本論(1980年、印刷物)という構成である。

昨日の記事は、目次(2000年)・まえがき(2005年)である。今日は「はじめに(1990年)」を投稿する。これは1980年代の後半に「複素過程論」を構想していたころ、ほぼ10年前の「周期律の形成について」を振り返っているものである。

周期律の形成と武谷三段階論

 私は周期律が形成されてきた歴史をたどったことがある。それは周期律が歴史的制約のなかから誕生し、その制約をうちやぶりながら、現在の水準に接近してくる歴史過程と論理過程を同時に把握することをめざしたものである。メンデレーエフやラムゼー、モーズリやボーアなどの歴史的な論文の正確な「読解」もとに、ケドロフの『科学的発見のアナトミア』とスプロンセンの『周期系の歴史』に対抗させながら、私は周期律の形成過程を展開した。そのときに方法として使用したのは武谷三段階論である。

 武谷三段階論というのは自然を認識していく過程には質の異なった三つの段階、現象論的段階・実体論的段階・本質論的段階があるという科学方法論として提出されたものである。ニュートン力学が形成された歴史から三つの段階をたどれば、観測結果を蓄積したティコ・プラエの段階、そこから法則性を洞察したケプラーの段階、地上の法則と天上の法則をとらえたニュートンの段階の三つの段階があるということになる。

 武谷の「ニュートン力学の形成について」は、温古知新ということばで表わされている精神と同じように、現代約な課題(素粒子論の研究)を追及する過程でニュートン力学の形成史の反省に向かったものだ。最初に武谷にふれたときの感動はまさにこの姿勢にあった。
 武谷三段階論の定式を確認しておこう。
(引用はじめ)
 以上のことから自然認識が三つの段階をもっていることがわかる。すなわち第一段階として現象の記述、実験結果の記述が行なわれる。この段階は現象をもっと深く他の事実と媒介することによって説明するのではなく、ただ現象の知識を集める段階である。これは判断ということからすれば、ヘーゲルがその概念論で述べているように個別的判断に当たるものであって、すなわち Dasein の肯定的判断として、個別的な事実の記述の段階であり、an sich である。これを現象論的段階と名づける。ティコの段階。
 第二、に現象が起こるべき実体的な構造を知り、この構造の知識によって現象の記述が整理されて法則性を得ることである。ただしこの法則的な知識は一つの事象に他の事象が続いて起こることを記するのみであって、必然的に一つの事象に他の事象が続いて起こらねばならぬということにはならない。すなわちこれは post hoc という言葉で特徴づけられるもので、これは概念論の言葉で言えば、特殊的判断と言えるものである.特殊な構造は特殊な事情において特殊な現象をもつことを述べるものである。für sich の段階でその法則は実体との対応の形において実体の属性としての意味をもつものである。これを実体論的段階と名づける。ケプレルの段階であり、論理はスピノザ的である。
 第三の段階においては、認識はこの実体論的段階を媒介として本質に深まる。これはさきのニュートンの例に示したように、諸実体の相互作用の法則の認識であり、この相互作用の下における実体の必然的な運動から現象の法則が媒介し説明しだされる。すなわちこの段階においては propter hoc という言葉で特徴づけられる。an und für sich の段階であり、概念論でいえば普遍的判断であり概念の判断である.すなわち任意の構造の実体は任意の条件の下にいかなる現象を起こすかということを明らかにするものである。これを本質論的段階と名づける。
 実体論的段階から本質論的段階へ進むのは、このように実体的契機によって実体を含みながら、実体的なる法則の見方を否定して高まるのであって、本質論的段階において、その認識に固有なる論理的性格があらわれるのである。たとえばニュートン力学における微分方程式の如きである。これをこのように立体的に見ない時にカッシラーの様に実体的なものの単なる否定、そしてその反対物たる機能へと解消するという考えになるのである。実際は実体の論理がより本質的な論理へと高められるのである。
(引用おわり)
 へーゲル判断論とニュートン力学の形成史が定式を構成しているが、武谷三段階論とは認識の過程的・構造的な把握の形式なのである。

 考察を進めていくと自分でも思いがけない展開にぶつかるものである。科学史の方法として選んだ武谷三段階論を修正することになるとは最初はまったく考えもしなかった。いまから思えばトーマス・クーンの「通常科学」を進めるバラダイムのようなものとして私は武谷三段階論を考えていたのだと思う。ところが歴史の現実に限りなく接近しようとしたとき変則性に気づき、バラダイムの、つまり武谷三段階論の修正に向かったのだ。

 周期律の形成過程の把握には武谷三段階論の修正が必要とされ、それを修正することによってはじめて「周期律の形成について」は実現できたのである。

 化学に目を転じて方法と考えた武谷三段階論を見直したとき、踏襲するカテゴリーには物理学がしっかり刻印されていてとまどったものだ。武谷が依拠したヘーゲル判断論の系譜にニュートン力学形成史を位置づけし、その物理学史的例証として捉えなおすことによって武谷三段階論の発想の基底にある物理学を捨象することにした。そして、ヘーゲル判断論の化学史的例証として周期律の形成史を展開していく場を設定した。

 問題は実体にあったのである。武谷の「実体」は物、系、模型、構造、運動方程式などいろんな意味を持っている。いまはくわしく述べないが、かなり恣意的であると思う。こういう恣意的なことは武谷の武谷三段階論に固有のものとして置き去りにして、私は自分で修正した武谷三段階論の実体とは何かを考えた。私の立場から言えば「実体」とは「本質と偶有性」の問題である。

 実体を本質と偶有性と捉えることは、同時に武谷の意図を捨象することである。つまり、武谷三段階論の実践性、現実に個々の科学を推進させる科学方法論としての有効性に対する疑問を導くのである。

 武谷はニュートン力学の形成史から先にのべたような三つの段階を捉え、当時(1940年代前半)の素粒子論の研究段階を実体論的段階と把握して、新しい素粒子の導入という研究の方向性を考えたのだ。しかし、これは結論からいえば間違いではなかったが、正鵠を射ているというわけではなかったのである。その抽象性のゆえに妥当はするが、個々の研究を進めていく科学方法論としては武谷三段階論は器が大き過ぎるのである.それは百年くらいの時間のなかではじめて見えてくる構造であって、ヘーゲル判断論の抽象性と同じレベルで捉えてはじめて真価を発揮するものである。だから私のなかに武谷三段階論で生き残ったものは現代的な課題にオベレートする姿勢とニュートン力学形成史の論理構造だけである。

 実体論的段階とは、現象が起こるべき実体的な構造の知識がメルクマールになっている。これを私は捨象するから、実体論的段階とは本質論的段階から見れば偶然的なものを原理としている段階である。このような把握は、ケプラーの法則が誕生した太陽系の実体的な構造を捨象し、ケプラーの積分法則では天王星の複雑な運動を捉えられない点を強調することに対応している。ここで周期律の歴史から例をとってこの関係を説明してみよう。

 メンデレーエフは元素の性質の周期的な変化を原子量を基準に把握した。メンデレーエフの原子量のとらえかたは1871年の論文から引用すれば「どのような変化のもとでもそれ自身変化しないで維持されると自信をもって主張できるほど揺るぎない確実なもの」であった。この段階で元素の大部分は原子量の増加順に性質を周期的に変えていったが一部に例外があった。それらに対するメンデレーエフの姿勢は誠実さそのもので自分の発見した周期律に基づいて原子量の修正を行った。メンデレーエフの修正が妥当な場合が多かったが、度重なる再測定にもかかわらず依然として周期表の位置と原子量の大きさが逆転している元素対があった。それはテルルとヨウ素などの元素対である。

 周期律が発見された初期において、さらにエカ元素が予言通り発見されていく1880年代においても、これらの元素の原子量の大きさの変更が原子量の増加順というバラダイムにしたがって信じられていたことだろう。じっさい、メンデレーエフが周期律の補強者の一人としてブラウナーを挙げたのは、このことを示している。しかしテルルとヨウ素、コバルトとニッケル、さらに希ガスが発見されてカリウムとアルゴンなどは明らかに周期表の位置と原子量の大きさが逆転していた。ここに周期表の中に原子量の増加順からはずれる変則性が確実に存在することが分かったのである。実体論的段階ではこれらの変則性について何も説明することはできない。もっと深い事情があることは予感できるがそれ以上のことはわからないという状態である。

 もちろん変則性というのは、原子番号(原子核の正電荷数)ではなく、原子量を基準にして周期律を考えていたから起こっていたのである。それゆえ、基準を原子量から原子番号へと変換し、原子量を同位体の質量の平均として把握しなおせば原子量の大きさに逆転関係があっても不思議ではなくなる、つまり変則性は解消するのである。逆に、実体論的段階での展開は本質が発見されていないために、その内部に変則性をかかえこんでしまうのである。それは偶有性をも原理にくみこんでいる段階である。

 いまスケッチした周期律の歴史において、原子量は本質と偶有性の複合体としての実体であり、周期表の位置と原子量の大きさの逆転問題は実体論的段階の偶有性の問題であると考えるのである。

 しかし、もちろん大事なことは、本質論的段階から実体論的段階の限界性をみることにあるのではなく、本質論的段階が実体論的段階から「実体的なる法則の見方を否定して」生まれてくる過程をみることである。それは本質と偶有性を見つめることを意味している。方向づけていえば実体の偶有性の止揚を考えることである。

 ところで、さきのスケッチは、実体論的段階の特徴と『科学革命の構造』の用語(パラダイムと変則性)を組み合わせたものである。偶有性を変則性と対応させると、修正した武谷三段階論はクーンの科学革命の本質論と密接に関連してくる。

 クーンは『科学革命の構造』で次のように述べている。「変則性はバラダイムによって与えられた基盤にたいしてのみ現われてくる。そのバラダイムがより正確で、より徹底したものであればあるほど、変則性をより敏感に示すことになり、そしてそこからバラダイムの変更に導くのである」。私はバラダイムの変更を導いた変則性の端的な例として周期律の形成過程におけるテルルとヨウ素の元素対をあげておきたいと思う。

 実体の偶有性の止揚を考えることが大切だといったが、それはたとえば次にあげるラムゼーの位置に現在の私たちを置くことである。希ガスの発見者であるラムゼーは1897年の「ある未発見気体」のなかで、逆転問題・変則性を冷静に見つめる姿勢を示している。
(引用はじめ)
 しかし、人の心はこのような不規則を単に列挙することに満足するものではありません。何故にこのような不規則が存在するのか、その原因を理解しようと努力するものであります。これに関して私は二つの問題点を指摘したいと思います。われわれが"原子量″と呼んでいる″化合比″に変更を生じるようななんらかの状況が存在するのか? そして、われわれがそれを意のままに変更できると想定する理由がないものか? 原子量はひとたび定まればもはや変化することのない真の自然の定数であろうか? それともその値に変更をきたすような変化がなく、状況が不変のままでいるかぎりにおいてのみ一定なものであろうか?
(引用おわり)
 一つの問題はその問題にみあう答えが見つかれば終わるものである。もしも見つからなかったら、バシュラールのことばを借りていえば「思考にとっての休息はない」のである。提出されたその瞬間に終わってしまう問題もあれば、長期間、一年、十年、百年の単位で答えが見つからない問題もあるだろう。私が自分の問題にひとまず終止符を打てそうに思えたのは、もちろん答えを見つけたと思ったときである。

 周期律の形成過程を武谷三段階論を方法として展開するという問題意識はエンゲルスの『自然弁証法』のなかの一節がきっかけになったのである.そこでエンゲルスはエカ・アルミニウム(ガリウムのこと)の発見を海王星の発見と対比していたのだが、その対比に私はギャップを感じたのである。問題意織が急激に自分のなかで明確になっていくときの驚きと喜び。私はそのときの感動を自分に納得できるような形で仕上げたかったのである。

 私はニュートン力学の形成史を伴奏にしながら周期律の形成史の旋律を奏でるつもりだったのだから、もっと早く周期表におけるウランーネプチニウムープルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の並びに気づいてもよかったはずだ。しかし、じっさいには長い間このことに気づかずにいた。ウランは1789年に発見されていて、メンデレーエフは一番重い元素として自分の周期表の「限界」に位置づけていた元素であった。ネプチニウム、プルトニウムは最初の超ウラン元素として二十世紀になって人工的に合成されたものだ。これらの元素の名前はギリシア神話の神々に由来するが、これらの神々は太陽系の惑星にも姿を現わしているのだ。すなわち、天王星、海王星、冥王星( Uranus - Neptune - Pluto ) がそれである。

 この事実は地を這う考察に対する天からの贈物のように思えた。いったい、エンゲルスがエカ・アルミニウムの発見と海王星の発見を対比したことは何だったのだろう。武谷が海王星の発見をニュートン力学の形成史の本質論的段階を特徴づけるものと指摘したのは何だったのだろうか。そして、私が周期律の形成史の本質論的段階を特徴づける元素としてネプツニウムやプルトニウムを指摘するのは何なのだろう。不思議な気持になってしまう。ネプツニウムはマクミランの命名であり、プルトニウムはシーボーダの命名であるが、周期律の形成過程をニュートン力学の形成史を内在化して展開するという問題意識は、これら人類の認識史の韻を踏む命名をとらえて完全な形で表現できたように思えた。それはもちろんひとつのレトリックにすぎないのだが、そのレトリックのなかに周期律の形成過程の「論理」と「歴史」が正確に保存され、私の考察の出発にみあう答えだったのである。

 やっと求めていたものに出会えたという喜び。求めていたものが最初から目と鼻の先にあったという驚き。ケストラーの『ホロン革命』のなかに、芸術家や科学者は、時間の窓のむこうに、ときおりちらりと永遠を見る、それが中世のステンドグラスであるか、ニュートンの万有引カの公式であるかは、気質と趣味の問題であるという一節があったが、このような自分の思考がまったく自分から離れはるかかなたへ飛んでいくという心理をこのとき味わうことができた。それは素敵な体験であった。

 武谷が素粒子の研究段階を実体論的段階と位置づけたことはもちろん間違いではなかった。実体論的段階とは別の言葉でいえば研究が過渡期にあるということである。三つの段階でもっとも魅力のある段階とはやはり実体論的段階である。それは「メタファー」と「代数」がオーバーラップしていることの魅力である。科学者でいえばケプラーやメンデレーエフである。メンデレーエフが提出した周期律はパウリの排他律によって完全な姿を見出したわけだが、逆にいって空白と疑問符のあった1869年の周期表にはボーア原子論もパウリの排他律も潜在していたのだ。こんなふうに私はメンデレーエフを見ていた。

 スプロンセンの『周期系の歴史』は豊富な資料を踏まえた本である。しかし、形成過程を捉えようとする私の立場からみると、次のような見解は歴史過程や認識過程の歪曲のように思え、納得できなかった。
(引用はじめ)
 周期表が最終的な形に落ちついたのは、周期性の本質が原子構造から説明できるようになるより前のことであった、ということは注目すべき事実である。原子構成要素粒子の発見は分類体系を疑惑のなかに投げこんだりはせず、それまでの漠然とした判断を補強することになった。
(引用おわり)
 これは力点の置き所を間違えた見解で、ボーアの原子論にとって周期表は否定したり、疑惑をもったりするようなものではなく、逆に継承すべき認識であり原子論がそこから生まれてくるような母胎だったのである。つまり、ボーアは元素の周期性を説明できるように自分の原子論を構成したのである。それはニュートンにとってケプラーの法則が否定するものではなく継承すべきものだったのと同じである。ボーアの原子論さらにパウリの排他律はニュートンの微分方程式にあたり、メンデレーエフの周期表はケプラーの法則にあたっているのである。原子量の逆転問題や希土類元素の位置づけの問題は二十世紀までもちこされ、漠然とした判断だったにちがいないが、それはケプラーの積分法則では天王星の複雑な運動をとらえきれなかったのと同じレベルの問題で、ニュートンがケプラーの問題を継承し、その認識を修正し拡張し完全なものにしたのと同じように、モーズリやボーアやパウリがメンデレーエフの問題を継承し、その認識を修正し拡張し完全なものにしたのである。

 周期律は周期律の形成過程を見ることによって豊かな観点を私たちに与えてくれるものと確信している。





 


周期律の形成について、目次と後書

2021-12-28 | 周期律
以前のホームページ( OCN や so-net) にあったが、FC2にはない記事がたくさんある。これもその一つである。Gooのブログに載せることはできるだろうか。7000字ほどあるが、許容されるのだろうか。心配することはなかった。1つの記事に30000字(HTMLタグ含む)まで可能だという。
「周期律の形成について」(1980年)は読みづらかったので、目次を2000年に追加し、また「まえがき」を2005年に書いた。こんど後書(あとがき)として提出するのはこの「まえがき」を改訂したものである。

周期律の形成について 目次

   第1章 エンゲルスのメンデレーエフ評価
     1 ガリウムと海王星の発見の対比
     2 方法としての武谷三段階論
   第2章 プラウトの仮説とベルセーリウス ――― 現象論的段階
   第3章 周期表の形成 ―――  実体論的段階への移行
     1 試行錯誤と「原子量の差」
     2 周期表の「位置」の特徴 
     3 元素の原子類似性―――「化学元素の周期的規則性」より
   第4章 エカとポスト・ホック
     1 1869年の周期表
     2 未知元素の予言と命名法
   第5章 長周期型から短周期型へ
     1 ペーシェンスの解析
     2 二つの研究
     3 「中間系列」設定の意味
   第6章 普遍性と偶然性 ――― 実体論的段階の整理
     1 逆転問題と希土類元素の位置づけ問題
     2 偶奇数列導入による仮象
     3 テルルの原子量に付されている疑問符
   第7章 希ガスの発見 ――― 実体論的段階の表と裏
     1 エカ元素の発見と木星の衛星
     2 ラムゼー ――― 零族におけるメンデレーエフ
     3 変更の可能性のない逆転配置
   第8章 武谷の「実体」の問題点
     1 武谷の「実体」論
     2 三つの移行形態について
   第9章 ケドロフの時代区分との違い
     1 ケドロフの時代区分
     2 亀裂ではなく確立していく過程
   第10章 「逆転」問題の解決 ―――  本質論的段階への移行
     1 原子番号 ―――「諸元素の高振動数スペクトル」より
     2 実体の偶有性の止揚
     3 Qの導入とボーア原子論
   第11章 周期表とボーア原子論
     1 希土類元素の位置づけ
     2 ボーア原子論 ――― 「原子の構造」より
     3 周期律の形成過程の要約
     4 希土類元素群の内的順序構造の空白
   第12章 スプロンセンの位置づけとの違い
     1 スプロンセンの位置づけ
     2 「間」の分析の欠如
   第13章 「希土類元素」問題の解決 ――― パウリの排他原理
   第14章 超ウラン元素
     1 超ウラン元素の出現 ―――「放射性元素93」より
     2 韻を踏む命名

周期律の形成について あとがき

 武谷三段階論を方法にして周期律が形成されてきた歴史をたどってみようと思ったのは1972年だった。メンデレーエフの周期表は、ニュートン力学の形成過程におけるケプラーの三法則と同じように実体論的段階にあるのではないか。これが基本的な考え方だった。

 エンゲルスは『自然弁証法』の中で、メンデレーエフが予言した元素(エカアルミニウム)がガリウムとして発見されたとき、その業績を海王星の発見と対比していた。海王星の発見はニュートン力学の本質論的段階を特徴づけるものだったので、この対比を分析することから始めた。
 太陽系と原子系の探究、ニュートン力学の形成史と周期律の形成史は、魅力的な認識過程と思われた。しかし、なかなかまとまらず、どうにか形になったのは1980年だった。

 メンデレーエフの周期表が実体論的段階にあるという考えを確信し、推し進めようと思ったのは、1871年の「化学元素の周期的規則性」を読んでいるとき、一つの発見をしたことにある。メンデレーエフは、その論文で提出した周期表のなかで、テルルの原子量に疑問符をつけていた。そして次のような説明をしていたのである。

「テルルについては周期律と一致させて125?とし、Berzeliusらによる128とはしなかった。」

 これをはじめて読んだとき、この疑問符に、周期律形成の歴史が圧縮されているように思えたのである。この疑問符は、現象論的段階の個別性の主張と実体論的段階の法則性の洞察が拮抗している場所に付されていると思われた。じっさい、本質論的段階において、テルルとヨウ素の関係について、位置はメンデレーエフのまま、原子量はベルセーリウスのままで、疑問符は解消しているのである。

 武谷三段階論は素粒子の研究を位置づける科学方法論として提出されたものである。それゆえ、物理学の発想が基礎になっていて、武谷の「実体」の考え方は、素粒子や模型や構造と緊密に関係している。このような「実体」の考え方は克服しなければならないと思った。なぜなら、メンデレーエフの周期表を実体論的段階と把握するとき、その「実体」は、中間子のような粒子を意味しないからである。また、ケプラーが導入した太陽系のような「構造」を意味しないからである。

 わたしは三段階論の定式を構成しているヘーゲル判断論に着目した。そしてこれを基本に据えることにした。すなわち、認識(科学)の方法論としての側面を切り捨て、認識の本質論の側面を継承しようとした。いいかえれば、素粒子論を探究していく科学方法論としての側面を切り捨て、判断や推論がどこまで展望できるのかという自然認識の論理的な順序として武谷三段階論を把握しようとしたのである。
 ようするに、武谷三段階論に固有の「実体」の考え方では、周期律の形成過程は把握できないと思われたのである。武谷の「実体」とは別に、わたしなりに「実体」とは何かを考えた。

 メンデレーエフは「原子量」を「実りある当面の現実的素材」として把握していた。このメンデレーエフの「原子量」の考え方を、ヘーゲルの「実体」と対応させればよいのではないかと思われた。花田圭介の「科学発展の論理について」が参考になった。かれは次のように「実体」を解説していた。
(引用はじめ)
 ヘーゲルの用語を借りていえば、実体はそれのもつ多様な性質を発現させる力であるが、なおその力と発現は「本質が直接的現有をもつ場合の、それ自身として存在する無制約な本質」であるところの実体と、文字通り本質に対して可変的な性質である偶有性との、関係としてとらえられている。このことを認識の発展に従ってなるべく分り易く説明すれば、偶然的現象のなかの一定の諸性質を、まだそれを制約している本質的な法則が認識されていないところの実体に結び付て、その実体の偶有的な性質として対応づけることなのである。
(引用おわり)
 認識の発展に従ってなるべく分り易く説明してあるところが、ありがたかった。実体を本質と偶有性の複合体と考えればよいと思われたのである。「実体」は、素粒子や模型や構造ではなく、「本質と偶有性」である。そして、実体論的段階とは、偶有性をも原理に組み込んでいる段階で、判断や推論をするとき変則性を必然的に伴ってしまうと考えればよいと思われた。いいかえれば、大部分は説明できるが、一部に謎が残っている段階である。武谷は、ケプラーの段階では、天王星の運動はケプラーの法則より複雑な法則に従っているといえるだけなのであると述べている。わたしの「実体」の考え方は、「構造」や「模型」としての「太陽系」ではなく、複雑な「天王星の運動」に着目するものである。

 このように「実体」を「本質と偶有性」によって把握する考え方は、メンデレーエフの「原子量」だけでなく、ケプラーの導入した「太陽系」にも通じると考える。ケプラーの「太陽系」は、ニュートンの「太陽系」とは違っている。例えば、ケプラーは太陽の力を想定しているが、太陽は惑星を引っぱっているのではなく、接線方向に押していると考えている。これがケプラーの「太陽系」の偶有性である。もちろん、ケプラーはこのような「太陽系」で、惑星の三法則を発見しているのである。

 周期律の形成史から、「天王星の運動」に対応する実体論的段階の偶有性をみておこう。
 周期表の中には、テルルとヨウ素、コバルトとニッケルなど位置と原子量の大きさが逆転している元素対がある。また、周期表の一つの枠に一つの元素が原則だが、希土類元素(ランタノイド)のように、一つの枠に、まとめて配置しなければならない元素群がある。  このような「逆転元素対」や「希土類元素群」が、メンデレーエフの段階の偶有性である。これらに対して、実体論的段階では、明確な説明はできないのである。

 わたしは実体論的段階・本質論的段階の考え方を、ケドロフの『科学的発見のアナトミア』とスプロンセンの『周期系の歴史』と対照して、明らかにしようと思った。

 ケドロフはメンデレーエフ以降の周期律の歴史を、「化学における批准」(1869―1900)・「動乱の時代」(1895―1912)・「物理学における突破口」(1913―現在)と区分している。
 エカ元素の発見、周期表への零族(希ガス)の導入が「化学における批准」である。また、「動乱の時代」は、X線、放射能、電子などの発見された時代をさしている。
 「化学における批准」と「動乱の時代」をあわせた時間が、わたしの考える周期律の実体論的段階の歴史的時間である。しかし、化学において批准され、そのあと動乱の時代を迎えたとは考えない。

 ケドロフは実体論的段階の偶有性を切り捨てることによって、「化学における批准」を設定していると思う。すなわち、零族が導入されるときでいえば、アルゴンとカリウムの逆転配置についてはふれていない。逆転問題を切り捨てることによって、「批准」という区分が仮構されていると考える。そして、それゆえ、19世紀末の諸発見が、批准された周期律(ケドロフは「栄光の殿堂」と形容している)にとって「亀裂」と捉えられていると考える。

 わたしの場合は、「批准」と「動乱」は、はじめから、並行しているという立場である。それゆえ、「動乱の時代」において、周期律に「亀裂」が入ったとは考えない。周期律は、本質的な把握と偶有的な把握を並行させていて、つねに形成過程にあるという立場である。
 ケドロフの「物理学における突破口」は、周期律の本質論的段階のはじまりに対応する。
 周期律の形成過程において、実体論的段階と本質論的段階を区別するのは、ボーア原子論である。いいかえれば、ボーア原子論によって、実体論的段階から本質論的段階へと移行した。ボーアは元素の周期律を原子構造の反映と捉えた。

 次に、スプロンセンの『周期系の歴史』と対照しておこう。
(引用はじめ)
 周期表が最終的な形に落ちついたのは、周期性の本質が原子構造から説明できるようになるより前のことであった、ということは注目すべき事実である。原子構成要素粒子の発見は分類体系を疑惑のなかに投げこんだりはせず、それまでの漠然とした判断を補強することになった。
(引用おわり)
 ここで、実体論的段階とは「周期表が最終的な形に落ちついた」や「漠然とした判断」に対応し、本質論的段階とは「周期性の本質が原子構造から説明できるようになる」や「それまでの漠然とした判断を補強すること」に対応するといえる。周期表と原子構造論を区別するのはよい。しかし、『周期系の歴史』の立場が、わたしが考える周期律の形成史と決定的に違うのは、原子構造論の誕生過程が問題になっていないことである。原子構造論が周期律の外部で生まれたかのように考えられていることである。

 ケドロフは『科学的発見のアナトミア』で、ボーアの発想を紹介している。「導きの糸となったのは、いわゆる元素周期系のなかに表現されているところの原子番号にともなう独特な性質変化であった。」
 また、広重徹は『物理学史Ⅱ』でボーア原子論について、次のように述べている。「原子の構造から元素の周期律と化学結合を説明しようというJ.J.Thomsonがその原子模型で目指した目標を、Rutherfordの原子模型に基づいて、作用量子を導入することによって達成しようとする企てから生まれた。」

 周期表がボーア原子論の母胎だったのである。原子構造論は周期律の外部で誕生したのではなく、内部で生まれたのである。ボーアによって、周期律の形成過程は実体論的段階から本質論的段階へと高められる。メンデレーエフの周期表がケプラーの惑星の法則、ボーアの原子論はニュートンの運動方程式に対応しているのである。

 実体論的段階から本質論的段階への移行は、「実体的なる法則の見方」を否定することにある。いいかえれば、実体論的段階の偶有性を止揚することにある。
 実体論的段階では、元素の性質の周期的な関係は、原子量によって考えられていた。これが「実体的なる法則の見方」だった。これに対して、本質論的段階では、原子の構造から媒介され、原子の核電荷(原子番号)と電子構造における周期性によって元素の性質を考えるようになった。これが周期律の認識に「固有なる論理的な性格」である。

 原子の核電荷(原子番号)を基準に周期性を考えることによって、「逆転元素対」の偶有性は解決した(モーズリー)。原子量は同位体(陽子数が同じで中性子数が違う)の平均値となったのである。原子量は同位体の平均値だから、同位体の存在比率によって、逆転する場合がでてくる。例えば、テルルの同位体は何種類かある。その中で128Te と130Te の存在比はあわせて65パーセントに達するから、存在比100パーセントの127I の原子量との逆転がおこるのである。

 また、原子の内部電子群を考えることによって、「希土類元素群」の偶有性は解決された(パウリの排他原理)。希土類元素群は、最外殻の電子配置は同じであるが、内部の4f軌道の電子配置が違うのである。これが、一つの枠の中に、14個の希土類元素(ランタノイド)を位置づけなければならない理由である。

 わたしは周期律の本質論的段階を代表する科学者として、モーズリ、ボーア、パウリを取り上げた。この中から、一人にしぼるとき、これまで、「排他原理」によって希土類元素群の問題を最終的に解決したパウリを選んできた。いまは、ボーアのほうが妥当ではないかと思う。実体論的段階と本質論的段階の境界に立ち、原子構造論によって実体論的段階の二つの偶有性を止揚する土台を提供しているからである。

 ニュートン力学の形成過程のティコ・ケプラー・ニュートンに対応するのは、周期律の形成過程では、ベルセーリウス・メンデレーエフ・ボーアということになる。

周期表に「ウランーネプチニウムープルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の並びがある。これに気づいたとき、周期律の形成過程とニュートン力学の形成過程の対応は予定されていたように思われ感動した。ウランはメンデレーエフが一番重い元素として自分の周期表の「限界」に位置づけていた。ネプチニウム、プルトニウムは最初の超ウラン元素として二十世紀に合成されたものである。これらの元素の名前は、太陽系の惑星と対応させたものだったのである。天王星、海王星、冥王星( Uranus - Neptune - Pluto ) である。
海王星の発見がニュートン力学の本質論的段階を特徴づけるのと同じように、ネプチニウムの合成は周期律の本質論的段階を特徴づけているのだった。

 武谷は「ニュートン力学の形成について」の中で、実体論から本質論への移行に三つの形態を指摘していた。メンデレーエフの周期表は実体論的段階にあるという立場から、「移行」の捉え方の違いをみておきたいと思う。武谷は「実体」の導入や排除によって、次のような移行を想定している。
(引用はじめ)
 実体論から本質論への移行において三つの形態が存在する。第一は実体の導入が直ちに本質論に導く場合であって、それはその実体が新たなる性質のものでない場合、すなわち海王星の導入、立体化学、物質構造論などである。
 第二に、実体がまったく機能的なものに解消される場合、それは逆に言えば機能を実体として捉えていた場合であって、これはフロギストンやエーテルなどがよい例である。
 第三に、まったく新たな実体であって、新たな論理を要求しているものである。ニュートン力学の運動方程式や、原子における量子力学等である。後に述べるように原子核物理学の新たなる諸素粒子もまたそうであろう。
(引用おわり)
 この武谷の分類は、まったく根拠がないと思われた。まず、三つに特定する理由が見当たらない。また間違ってもいる。例えば、第一の場合、海王星の導入を例に挙げているようにまったくの誤解である。ニュートン力学は、海王星の導入によって、実体論から本質論へ移行したのではなく、ニュートン力学がすでに本質論的段階にあったから、海王星の導入は、その理論的段階を特徴づけているのである。そもそも、「新たなる性質のものでない」ときに認識に進展などないのである。

 第三の場合は混乱している。「新たな論理」を要求されるのは、実体論から本質論への移行に限られるわけではない。現象論から実体論でも要求されるのである。「新たな実体」の「新たな」という形容で幻惑されるかもしれないが、実体の導入は、実体論から本質論ではなく、現象論から実体論への移行を担うものである。実体の導入と法則性の洞察は対応していると考えられる。そして、それが「実体的な法則の見方」を構成するのである。ケプラーの三法則でも、シュタールのフロギストン説でも同じである。
 実体論から本質論への移行は、「実体的なる法則の見方」を否定することによって実現するといえるだけだと考える。この否定の特殊な場合として、第二の場合(実体の機能化)はありうると思う。

 実体論のもつ偶有性を止揚することが、本質論への移行である。ボーア原子論は、新たな実体ではなく、実体論的段階の偶有性の止揚と対応している。
 同じように、ニュートンの運動方程式も「新たな実体」ではない。ケプラーとガリレイの「実体的なる法則の見方」の否定であり、それらのもつ偶有性の止揚と考えるべきだと思う。

 自然認識の論理的な順序として武谷三段階論をみるとき、武谷固有の三段階論は実体論的段階にあるのではないかと思う。武谷の「実体」は「偶有性」を含んでいるのである。

(了)





初雪と雪中果

2021-12-27 | 日記
明け方、窓を開けると屋根に雪が積もっていた。止んでいくのかと思ったが、午前中はずっと降り続いた。午後になってもちらついている。庭は久しぶりに雪化粧である。

みかんは8割方、収穫を終えている。この一角は正月に葉付きみかんを取る予定で残しておいたものである。

2つの線分が消えた理由8

2021-12-24 | 楕円幻想
理由5で、「「円周距離」と「直径距離」は、端緒での「正割」と「半径」を一般化したものである。」と書いた。読み直していて、これは一方的で一面的な表現である、修正しようと思った。正割と半径が起点ではなく、面積法則で解決の方向を見出した円周距離と直径距離が背景にあって、円周距離と直径距離の関係が正割と半径の関係に着目させたということを追加しようとしたのである。これが面積法則と楕円発見との端的な関連を表すものと思われたのである。

ところが、さらに考えていると、「正割」と「半径」を起点とする見方は違う意義があるように思えてきた。40章の図において円周距離と直径距離の関係は明らかだが、ケプラーはそのタームを使っていない。56章の末尾ではじめて「直径距離」が出ているのである。そして57章、59章で「円周距離と直径距離」の関係は明確になっている。
56章の「目覚め」のときは、タームとしては「円周距離」も「直径距離」もなかった。ケプラーは言葉にならない深いレベルで考えていたのだろう。「円周距離と直径距離」は「正割と半径」に着目させた。他方で「正割と半径」を一般化したものが「円周距離と直径距離」という側面もあったのである。

これを56章ではじめて「直径距離」が出て来る理由としておこう。

椿は回復傾向にある

2021-12-23 | 庭の草木
椿のつぼみが目立つようになった。花も咲き始めている。数年前にチャドクガにやられた椿だが、回復傾向にある。
か細い感じの幹だったが、幾分太くなって、葉も茂るようになってきている。頼もしいかぎりだ。ただ、後遺症は引きづっている。それは花弁の先端の破裂やクスミとして表れている。以前より、目立たなくなっているような気もするが、しばらくすればはっきり表れてくるのかもしれない。


柿酢はできるのだろうか

2021-12-22 | 日記
ガラス瓶に入れたつぶした柿から透明な液体が出ている。もう20日ほどたっているが、アルコールの匂いはもとより、酢の匂いもしない。柿の匂いがするだけである。記事によると、1か月ほどで酢になるようなのだが、どうも反応が進んでいないように思える。

柿酢は次の2段階でできるという。
1 糖→アルコール+二酸化炭素
2 アルコール→酢+水

出ている透明の液体は柿の水分かと思ったが、舐めてみると甘い。おそらく糖分なのだろう。時間がたてば、反応していくのだろうか。酵母が足りなくて、これ以上進まないのだろうか。

2つの線分が消えた理由7

2021-12-21 | 楕円幻想
『世界の見方の転換』においては、端緒と一般化は整合していない(理由5)。これのつづき。

第56章でケプラーは「目覚め」を一般化するとき、第40章の図を提示している。この図には楕円軌道が描かれていない。それは、楕円軌道上のF(端緒)やM(一般化)から始まる山本義隆の説明の反証を暗示しているといえるだろう。ケプラーの推論は、円周距離(正割)→直径距離(半径)→観測結果の順で進行し、円周距離(正割)は不可欠である。2つの線分を消してはケプラーの推論をたどれないのである。
山本義隆は2つの線分を消しているために、狭窄されたものになる。「円周距離(正割)→」が切り捨てられるだけではない。説明が「観測結果→直径距離(半径)」と逆行するのである。


山本義隆の説明の端緒と一般化の関係は整合していない。一般化で「直線AKの射影の長さ」(こちらは正しい)というならば、端緒では「直線EAの射影の長さ」というべきだったのである。
山本義隆は一般化のとき、点Mの離心アノーマリーを∠HBK=βだとして、β=∠HBMではないと注意している。この注意を端緒に適用するならば、点Fの離心アノーマリーは∠HBE=βであり、β=∠HBFではないと注意すべきだったろう。

山本の描く「目覚め」は次のようだった。
 FA=FBsec(5°18′)=(1-0.00429) (1+0.00429)a≒a=EB
数値計算で、観測結果=半径が導かれている。しかし、最初の部分を正割から余弦に直してみると、
 FAcos(5°18′)=FB
となる。一般化K点での余弦とずれている(Fは楕円上にある。Kは離心円上にある)。FBは直径距離(半径)ではないだろう。

つづく

モズがハナモモに止まっていた

2021-12-20 | 庭に来る鳥
庭で最初に モズ を見たのが2018年1月、それ以来毎年見るようになった。最初はオスだったが、次にメスも見るようになった。一緒にいるところは見たことがない。いまは一目で区別つく。また、鳴き声もほかの鳥との区別がつくようになった。

今日は、カンナの茎を束ねていたとき、メスがハナモモの枝に止まっているのを見かけた。

モズはハナモモから飛び去って行くが、しばらくするとまた戻ってくる。よほどハナモモが気になるのか、行ったり来たりしていた。30分ほど繰り返していた。鳴き声は聞かなかった。