対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

蜜柑

2014-12-30 | 日記
 これまで年内に蜜柑を鳥が啄むに来ることはなかった。今年は、もう来ている。ヒヨドリとメジロ。啄んでる現場を目撃したわけではない。腹部に穴のあいた蜜柑や皮が半分ほど残った抜け殻の蜜柑をいくつか確認しただけだ。枝に止まっている鳥は台所の窓から見ることができる。声も姿もとてもよい。

 いままでに蜜柑は3度収穫した。少なくなってきたら採る。毎年、これを何度か繰り返して、最後には鳥に後片付けしてもらっているのである。

「ロドスは前座、薔薇が真打ち。」の「は」と「が」

2014-12-29 | ノート
 助詞の「は」(副助詞)と「が」(格助詞)は、「客観的世界の事物を直接的に指す言葉」ではなく、それらを関係づけ主体的にどう結びつけるかを表出する言葉である。それは指示表出語ではなく、自己表出語である。関係を表出するのである。

 「ロドスは前座、薔薇が真打ち」の「は」と「が」は、大野晋氏の既知・未知説と相性がいい。(『日本語の文法を考える』参照)

 ◆「は」の前には、既知のもの、既知と扱うものがおかれ、「は」の後には、何か知られていない情報が加えられ、「は」の前の題目についての説明となる。

    ロドスは前座、

 ヘーゲルが『法の哲学』の序文でイソップのロドスを引用していること、そしてそれはマルクスにも影響を与えていることはよく知られている。しかし、ヘーゲルにおいて、ロドスは最も重要なものではなく、最も重要なものを引き出す端緒にすぎない。

 ◆「が」の前には未知のもの、未知と扱うものがおかれ、「が」の後の言葉に対して、「が」を含む前の言葉が新しい情報を加える。それは発見や驚きや気づきの表現となる。
   春が来た!
   白菜が安い!
の「春が」は春を発見した喜びの表現であり、「春」は未知扱いされた。また「白菜が」とは驚きの表現である。
    薔薇が真打ち。

 「薔薇が」は、気づきの表現である。これまでロドスの陰に隠れ光があたってこなかった薔薇こそが、ヘーゲルにおいて最も重要なものであるという発見。マルクスに引き継がれたのも、この薔薇である。

   ロドスは前座、薔薇が真打ち。


   ひらがな表出論

ロドスは前座、薔薇が真打ち2。

2014-12-28 | 跳ぶのか、踊るのか。
 マルクスが、『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』や『資本論』で書いているHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」ではなく、「ここに薔薇がある、ここで踊れ!」である。これが「跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇」で提起している仮説である。

 この問題提起に着目してもらう一つのきっかけとして「ロドスは前座、薔薇が真打ち。」という記事を書いた。補足しておこう。

 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するときに、ロドスと薔薇をの二つを取り上げている。初めにロドスを取り上げ、次にその言い替えとして薔薇を取り上げている。

    Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)
    Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)

 これまで『資本論』のHic Rhodus, hic salta!は、「ここがロドスだ、ここで跳べ!」と解釈されてきたため、ヘーゲルの箴言の二つの内、ロドスだけが着目され、薔薇がマルクスとの関係でほとんど注目されてこなかった。

 しかし、ヘーゲルの二つの箴言を『法の哲学』の序文に沿って読めば明らかのように、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語で書いた薔薇の箴言の方である。

 それならば、マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、Hic Rhodus, hic saltus! (ここがロドスだ、ここで跳べ!)ではなく、Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)ではないか。

 マルクスが Hier ist die Rose, hier tanze! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)を、Hic Rhodus, hic salta! (ここに薔薇がある、ここで踊れ!)と訳して継承した可能性は大いにあると思う。

sc-sc

2014-12-24 | ノート
 『とんでもなく面白い仕事に役立つ数学』(西成活祐著 日経BP社)に、回転の行列の暗記方法が紹介してある。

 左下から時計回りに「sc-sc(エス・シー・マイナス・エス・シー)」と覚える。上の行がcosθと-sinθ、下の行がsinθとcosθの行列になる。

 不思議なのだが、覚えようとしなくても、覚えているのである。すばらしい暗記方法である。これは2次元(平面)の回転で、2行2列の行列だが、sc-scをもとに、3次元の回転(空間)に、容易に拡張できる。

 前後(x軸)・左右(y軸)・上下(Z軸)に対して、3種類の回転がある。

   ロール (roll)    前後(x軸)を軸にした回転
   ピッチ (pitch)    左右(y軸)を軸とした回転
   ヨー (yaw)     上下(Z軸)を軸にした回転

 この3種類の回転が、1(不動)と0(変化なし)とsc-scで構成でき、それぞれ3行3列の行列が出来上がるのである。こうして、私たちは3次元空間で物を自由に回わせる基礎を獲得できるのである。

        回転行列


ロドスは前座、薔薇が真打ち。

2014-12-23 | 跳ぶのか、踊るのか。
 ヘーゲルは、『法の哲学』の序文で、現実と理性の関係を説明するとき、ギリシア語やラテン語でロドスを取り上げた。しかし、ヘーゲルが強調しているのは、ドイツ語の薔薇である。十字架における薔薇にこそ、現実と理性の関係が過不足なく対応しているのである。ドイツ語で表現していることが大切である。それはルターがギリシア語やラテン語の聖書をドイツ語に翻訳したのと同じようなものといえるのである。

 マルクスがヘーゲルから引き継ぐものがあるとしたら、それはロドスではなく、薔薇なのである。

ミネルヴァの梟

2014-12-22 | ノート
 『法の哲学』序文の結びにあるミネルヴァの梟、『世界の名著44ヘーゲル』(藤野渉訳)では、次のように訳されている。
 哲学がその理論の灰色に灰色をかさねてえがくとき、生の一つのすがたはすでに老いたものとなっているのであって、灰色に灰色ではその生のすがたは若返らされはせず、ただ認識されるだけである。ミネルヴァのふくろうは、たそがれがやってくるとはじめて飛びはじめる。
 「えがくとき」には次のような注が付いている。
ゲーテ『ファウスト』第一部「書斎」の場でメフィストフェレスがファウストに扮して学生に向かい、「いいかい、きみ。すべての理論は灰いろで緑に茂るのは生命の黄金の樹だ」(手塚富雄訳)というセリフがヘーゲルの念頭にあったと解される。
 訳文に「その理論の灰色」とあるのはこれを考慮したものだろう。ヘーゲルはihrと書いているだけである。また英訳はitsと訳しているだけである。
 ヘーゲル
Wenn die Philosophie ihr Grau in Grau malt, dann ist eine Gestalt des Lebens alt geworden, und mit Grau in Grau läßt sie sich nicht verjüngen, sondern nur erkennen; die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Dämmerung ihren Flug.
 英訳
When philosophy paints its grey in grey, one form of life has become old, and by means of grey it cannot be rejuvenated, but only known. The owl of Minerva, takes its flight only when the shades of night are gathering.

 だから、「その理論の灰色」はわかりやすくするための工夫である。しかし、これが、リズムを乱しているように思える。「すでに老いたものとなっているのであって」、「若返らされはせず」、だらだら、だらだら、少しも、高揚してこないのである。

 私がミネルヴァの梟を初めて知ったのは、梯明秀『ヘーゲル哲学と資本論』のなかであった。こんなふうに紹介してあった。
哲学が、その灰色を灰色に描くとき、生の姿は、すでに老いている。そして、灰色を灰色に描くことによっては、生の姿は若がえらされるのではなく、ただ認識されるのみである。ミネルヴァの梟は、迫りくる黄昏とともに、ようやく飛びはじめるのである。
 「その」で十分なのである。セマリクルタソガレトトモニ、ヨウヤクトビハジメルノデアル。とてもよいと思う。

 ミネルヴァの梟は、ヘーゲルが考える哲学を象徴したものである。梯は次のように見ていた。
ヘーゲルは、哲学をもって「世界が如何にあるべきかWie die Welt sein sollの教説」ではないとする。しかし、「現実的なもの」すなわち「有るところのものDas was istを、概念的に把握する」ことを、課題とする彼の哲学は、彼自身の諦観したかのごとく、彼の時代の「黄昏」を意味する思想ではなかったであろうか。冒頭に引用した「序文」の結びは、まことに、ヘーゲル哲学にとって運命的な哀調をただよわしているのである。



ヒヨドリ

2014-12-21 | 日記
 数年前、庭の柿の木に、二種類の鳥が実を食べに集まってくるのに気づいた。調べたら、ムクドリとヒヨドリだった。

 『すずめの少子化、カラスのいじめ』(安西英明著、ソフトバンク新書)を読んでいたら、「ヒヨドリは都市化してやくざ化」とあった。
鳥の原則に反して花や葉っぱまで食べる悪さもするようになった(虫などが少ない時期に限られるが)。
 昨日、雪がとけかけた畑のブロッコリーの葉をヒヨドリ二羽が啄んでいるのを目撃した。あとでいってみると、葉脈だけが残されている葉もあった。よほど空腹だったのだろう。柿の実はまだ、枝に何個が付いているのに、緑の葉に魅力を感じたようだ。鳥の原則からの逸脱。

跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇 HP

2014-12-20 | 案内
 サイトをOCNからso-netに移した。

 最初の記事として、「跳ぶのか、踊るのか。―― ロドスはマルクスの薔薇」を載せたので、案内します。

     跳ぶのか、踊るのか。―― ロドスはマルクスの薔薇

 跳ぶのか、踊るのか。―― ロドスはマルクスの薔薇
   目次
     1 saltaは「踊れ」
     2 「Hic Rhodus, hic saltus!」の翻訳と注釈
     3 ヘーゲルの薔薇
     4 マルクスのロドス
     5 ロドスの下向と上向

『ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日』英訳版のロドスと薔薇

2014-12-18 | 跳ぶのか、踊るのか。
 ロドスと薔薇の箴言を、日独仏英で比較してみよう。まず、日本語訳を引用しておこう。(伊藤新一・北条元一訳)
プロレタリア革命は、たとえば十九世紀のそれのように、たえまなく、自分じしんを批判し、自分のみちをすすみながらたえず立ちどまる。そしてふたたびあらたにやりなおすために、一見成就したものにたちもどる。自分の最初の試みの中途半ぱさ、よわさ、くだらなさを、残酷なほど徹底的にあざける。自分の相手をうちたおす、だがそれをするのは、ただ相手をして大地から新しい力をすいとらせ一そう巨大となって自分にふたたびたちむかわせるためにすぎないかのようである。自分の目的のばく然たる巨大さをまえにして、たえずあらたなたじろぎをおぼえる。こうしてついに一切のあともどりが不可能となり、事情そのものがこうさけぶ情勢がつくりだされる。――
   Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
   Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
 箴言のところだけみてみる。

 独語
    Hic Rhodus, hic salta!
    Hier ist die Rose, hier tanze!
 日本語
    Hic Rhodus, hic salta!(ここがロドスだ、ここでとべ!)
    Hier ist die Rose, hier tanze!(ここにバラがある、ここでおどれ!)
 仏語
    Hic Rhodus, hic salta !
    C'est ici qu'est la rose, c'est ici qu'il faut danser !

 独語はもちろんマルクスの原文である。日本語訳はその原文をそのまま引用し、日本語で注釈をしている。仏語訳は、ロドスはそのまま引用するが、薔薇は原文を示さず仏語を直接書いている。ここは、日本語訳の方が上手な翻訳といえるだろう。仏語訳も長くなるが、日本語訳と同じように、原文を引用し仏語の注釈すべきだろう。
    Hier ist die Rose, hier tanze!(C'est ici qu'est la rose, c'est ici qu'il faut danser !)

 しかし、仏語訳よりひどいのは英訳である。English translation by Daniel De Leon (Chicago: Charles H. Kerr & Company, 1907)
 冒頭の日本語訳と同じところを引用してみる。
Proletarian revolutions, on the contrary, such as those of the nineteenth century, criticize themselves constantly; constantly interrupt themselves in their own course; come back to what seems to have been accomplished, in order to start over anew; scorn with cruel thoroughness the half measures, weaknesses and meannesses of their first attempts; seem to throw down their adversary only in order to enable him to draw fresh strength from the earth, and again, to rise up against them in more gigantic stature; constantly recoil in fear before the undefined monster magnitude of their own objects—until finally that situation is created which renders all retreat impossible, and the conditions themselves cry out:

    "Hic Rhodus, hic salta!"
    "Here is Rhodes, leap here!"
 薔薇が消えて、ロドスだけなのである。ロドス、ロドスである。ヘーゲルとの関係が削除されてしまっている。せめて、“Here is the rose, dance here”ではないか。

 しかも、私の問題提起とまったく反対の書き換えである。私の主張は、薔薇、薔薇である。ヘーゲルとの関係を全面的に引き継いでいるのである。
     Hic Rhodon, hic salta!
     Hier ist die Rose, hier tanze!

   跳ぶのか、踊るのか。 ―― ロドスはマルクスの薔薇

 マルクスの箴言。
     Hic Rhodus, hic salta!
     Hier ist die Rose, hier tanze!
 英訳の箴言。
     Hic Rhodus, hic salta!
     Here is Rhodes, leap here!

 Where has the flower gone? 

周期表のなかの薔薇

2014-12-17 | 周期律
 ロジウム(Rhodium)。原子番号45、元素記号Rhである。
 ロジウムは1803年にイギリスのウオラストンによって発見された。白金鉱を王水に溶かして、白金やパラジウムを分離した残液は赤色を示す。この残液から得られた物質を還元して金属ロジウムを単離した。ロジウムはこの塩の水溶液がバラ色(ギリシャ語でrhodeos) であることに由来して名づけられた。(「元素111の新知識」桜井弘編)

 バラ色をギリシャ語でrhodeosというのは、ローマ字に転写した後の表記であって、もともとはροδεοςである。辞書には、「バラの、バラのような、バラ色の」とある。

 ρ(ロー)のローマ字転写は、語頭では「rh」、それ以外では「r」になる。ο(オミクロン)は「o」、δ(デルタ)は「d」、ε(エプシロン)は「e」、ς(シグマ)は「s」である。
 それゆえ、ροδεοςは、rhodeosとなる。
 同じように、
    薔薇ροδονは、 rhodon。 ν(ニュー)は「n」である。
    ロドスΡοδο ςは、Rhodos である。

 周期表のなかの薔薇(Rhodium)の発見は、私にとって、ウランーネプチニウムープルトニウム( Uranium - Neptunium - Plutonium )の並びの発見に匹敵する大発見である。

     周期律の形成について