ヘーゲル弁証法の合理的核心を把握するという問題は、マルクスに由来している。マルクスはヘーゲル弁証法は逆立ちしているから、その合理的核心をつかむためには転倒する必要がある、と述べた。
弁証法はヘーゲルにあっては頭で立っている。神秘的な外皮のなかに合理的な核心を発見するためには、それをひっくりかえさなければならないのである。(『資本論』大内兵衛・細川嘉六監訳 大月書店 1968年)
マルクス主義はこの課題を解こうと試みてきた。しかし、この課題は解かれていないのではないか、というのがわたしの考えである。
ヘーゲル弁証法は「論理的なものの三側面」の規定に要約できる。
「論理的なものの三側面」というのは、『小論理学』の79節から82節にかけて展開されているものである。
(1)抽象的側面あるいは悟性的側面
――悟性としての思惟は固定した規定性とこの規定性の他の規定性に対する区別とに立ちどまっており、このような制限された抽象的なものがそれだけで成立すると考えている。
(2)弁証法的側面あるいは否定的理性の側面
――弁証法的モメントは、右に述べたような有限な諸規定の自己揚棄であり、反対の諸規定への移行である。
(3)思弁的側面あるいは肯定的理性の側面
―― 思弁的なものあるいは肯定的理性的なものは対立した二つの規定の統一 、すなわち、対立した二つの規定の解消と移行とのうちに含まれている肯定的なものを把握する。(注)これら三つの側面は、論理学の三つの部分をなすのではない。それらはあらゆる論理的存在の、すなわち、あらゆる概念、あるいは真理のモメントである。
ヘーゲルの論理的なものの構造の特徴は、三側面論がそのまま三段階論になっていることである。逆にいうと、進展の形式がそのまま論理的なものの構造となっていることである。
この進展の形式は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)と表現できるだろう。
この進展の形式にヘーゲル弁証法の「神秘的な外皮」を指摘することができる。これは、存在の弁証法と認識の弁証法が一体となっていることと密接に関係している。
城塚登氏は『ヘーゲル』(講談社学術文庫)の中で、存在の弁証法と認識の弁証法に関連づけ、進展の形式について、次のように述べている。
かつて故・岩崎武雄教授が試みられたように、ヘーゲルによる「概念」の実体化を批判し、存在の弁証法から切り離して認識の弁証法を理解することは、弁証法の一解釈としては成り立つとしても、ヘーゲル弁証法の解釈としては、成り立ちえないであろう。認識の弁証法が存在の弁証法から切り離されるとき、悟性によって固定された規定が、なぜ必然的に自分自身を廃棄してそれと矛盾する対立規定に移行しなければならないのか、さらにこの対立がなぜ止揚(アウフヘーベン)されねばならないのか、を明確にすることができない。つまり「否定性」がどこから生じるのかを明らかにすることができない。
存在の弁証法から認識の弁証法を切り離したとき、「否定性」の根拠が不明確になることを理由にして、城塚氏は、岩崎氏の試みを否定し、「論理的なものの三側面」の規定を擁護しているようにみえる。
たしかに、城塚登氏が述べているように、〈悟性によって固定された規定が、なぜ必然的に自分自身を廃棄してそれと矛盾する対立規定に移行しなければならないのか、さらにこの対立がなぜ止揚(アウフヘーベン)されねばならないのか、を明確にすることができない。つまり「否定性」がどこから生じるのかを明らかにすることができない〉だろう。しかし、これは、〈論理的なものの三側面〉の規定の前提となっている存在と認識を貫徹する弁証法をそのまま認めること意味しない。
むしろ、存在の弁証法から認識の弁証法を切り離して、〈論理的なものの三側面〉の規定を解体した後に、ヘーゲルの想定とは別の「否定性」が生じる過程を構想したほうが合理的ではないかと思う。「悟性によって固定された規定」が、「必然的に自分自身を廃棄してそれと矛盾する対立規定に移行」するという進展の形式は、ヘーゲル固有の想定にほかならないのだ。
ヘーゲル弁証法の合理的核心は、「対立する一項の内在的否定による進展」(松村一人)におおい隠されているのである。