対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

追悼・沢田允茂

2006-05-05 | 学問

 先月、沢田允茂氏が亡くなった。わたしは、読み始めたばかりだった。『現代論理学入門』(岩波新書)に展開されている論理学・弁証法・記号論に対する見解に興味をもち、『哲学の基礎』(有信堂)や『現代における哲学と論理』(岩波)などで、理解を深めようとしていた。「弁証法試論」の基礎を固める契機になると考えていたのである。高齢だが健在なのだろうか、と思っていた矢先の、訃報だった。

 『現代論理学入門』の初版は1962年である。わたしが持っているのは、2004年の51刷である。よく読まれているのである。しかし、これまでわたしはまったく知らなかった。「正方形の複合」をまとめるさいに、論理学の基礎を学ぶ必要にせまられ、はじめて手にしたのである。とっつきにくかったのだが、それでも読んでいると、ところどころで感動する場面があったのである。

 大きな刺激になった。弁証法に関心をもつ者のなかで、わたしだけが沢田允茂氏を知らなかったのだと思われる。

 以下に、啓蒙され、関心をもった四つの軸とそれに関連する箇所を引用しておこう。

 1 論理学は進化する

 かつてのニュートンの時代の古典物理学が現在の量子物理学に発展したとき、後者は前者をその特殊な一つの場合としてふくむ、より包括的な体系として受け入れられた。これと同じ事態が形式論理学にも起こったのである。伝統的論理学において形式化されているものはすべて現代の数学的論理学においても同じく形式化されるけれども、後者において形式化される、たとえば「AはBより大であり、BはCより大であるならばAはCよりも大である」、「すべて日本人は東洋人である。ゆえにすべての日本人の頭は同時に東洋人の頭である」というような推論は、明らかに真であるにもかかわらず前者の伝統的な論理学の体系のなかでは、形式化することができない。(『現代論理学入門』)

 2 ヘーゲルが批判した「形式論理学」は、堕落した形の形式論理学である。

 長い間、ヘーゲル主義者とマルクス主義者とを問わず、弁証法的方法論を主張する哲学者たちは、形式論理学はその原理とされていた同一律や矛盾律の故に弁証法とは相容れない無効な論理であり、弁証法が代表する真の論理学に於いてはこれらの原理は否定されねばならない、と単純に信じていた。このような問題設定は伝統的な形式論理学に於ける同一律や矛盾律の誤った解釈そのものに根差している。
 同一律や矛盾律を「花は花である」、「赤は赤である」とか「花は花でないものではない」「赤は非赤ではない」の如くに主語概念と述語概念との間の同一性や無矛盾性として解釈することに問題があるのである。このような概念の同一性や無矛盾性を直ちに花や赤という現実の存在者の自己同一性と無矛盾性と解して、花が花でないもの(果実)になるような現実の生成を把えることが出来ないと考えることに問題があるのである。(『現代における哲学と論理』)

これらの原理はどこまでも命題と命題との間の関係として現わされるのであって、(主)語と(述)語との間の関係として、ましてや物それ自身の性質として表わされているのではない。したがって同一律、矛盾律をみとめるからといって決して世界が固定した世界であるなどという主張がなされているわけではない。これらの原理を「AはAである」というように解釈し、さらに実在の事物の自己同一性を現わしているのだ、という解釈することは論理学の解釈でなくて、論理と存在との誤った対応のさせ方にもとづいた世界の誤った解釈である。(『現代論理学入門』)

 3 対応するのは、概念と事物ではなく、命題と事実(事態)である。

我々がバラと呼んでいる対象は事物であるが、そのバラが赤いというのは事実または事態である。(『現代における哲学と論理』)

「AはAである」とか「Aは非Aでない」と言うときAは何を意味するのであろうか。それは「人間」であってもいいし「太郎」であってもいいし「赤」、「善良」等の性質を表わす語であってもいい。形式的にAの内容を規定することはここでは不可能である。そして「太郎」とか「バラ」という言葉は言葉として固定されているにも拘らず、太郎は変化し生長して行きバラもまた花咲きしぼんで土と化する。概念の方はAならばAであり、Aが非Aであることは出来ない。しかし事物は変化生成するが故にAは非Aであると言わねばならなくなる。元来対応出来ないものを対応させたのである。従ってこの間の不一致を一致させる(命題と事実との一致をモデルとして)為には二つの途しか残されていない。固定的であり不動不変の概念に対応するものとして生成変化する事物の世界の背後に不動不変のイデヤや実体を想定し、これが真に存在するものであり我々の概念はこれを反映するとか、これに基礎をもっているとか考えることであり、他は論理の諸原理を否定して、変化生成する現実の事物の世界と同じく我々の概念の世界に形式論理学の諸原理を破る一つの変化の論理を仮定することである。対応することが既に無意味な疑似問題である概念と事物(命題と事実又は事態でなくて)を一致させんが為に、一方に於いては概念の固定した影を事物の世界の背後に投射してこれを実在の世界とし、今度は逆に、我々の概念の世界はこの世界に象って形成されたものとする疑似存在論が創られ、他方に於いて変化する事物の世界をそのまま概念の世界に反映させ、論理的思考をば概念の発展とみて、概念の発展の中に同一律、矛盾律を破る新な論理を想定しこれこそまさに客観的実在を正しく反映している、と考える疑似論理学が形成される。(『現代における哲学と論理』)

 4 わたしたちの知識のすべてがそのまま実在の反映であったり、世界の事実と一対一の対応をもっているわけではない。

 説明のための理論は多くの関連をもった網の目のようなものだ、ということを前章で説明した。この論理の網、すなわち理論の体系をよく見ると、経験的な事象を説明するための理論であるにもかかわらず、その中には経験から直接に得られないような、そしてその意味で、経験の世界の中には、それに対応するような事実が存在しないところの多くの概念が含まれていることがわかる。絶対温度、熱量、波動関数などという物理学上の概念はもとより、意志とか良心、知性などの心理学的概念は、他と区別されて特別にそのような語でよばれるところの事実がこれに対応しているというようなものでなくて、ある物理現象、ある心理現象を説明するための仮説である。仮説というものは経験の世界の事象をそのまま忠実に私たちに伝えてくれる知識ではなくて、そのような事象を説明するために私たちが作った論理的構成概念 logical construct である。(『哲学の基礎』)

例えばカメラのフィルム面にうつった映像はカメラの外の景色の文字どおりの反映であり、フィルムの上に見出されるものは、すべて外の世界に対応せられ、世界の事物に対応しないようなものは一つもないはずである。しかし、このような外の世界の映像をうつしだすために、カメラにとって必要であったレンズ、暗箱、シャッターや絞りの機構などいっさいのものはカメラ以外の世界の中に対応物をもたない。このようなメカニズムをも含めて、カメラの中に見出されるすべてのものが世界の反映であり、世界の中にその対応物をもつと考えることがおかしいと同じように、カメラの距離計やシャッターやレンズにあたる私たちの知識、例えば数学や論理の法則が実在の(いわばほんものの)法則の映像や反映である、と考えるのは馬鹿げている。(『哲学の基礎』)

 以上、関心をもった四つの軸を示した。

 明晰判明な思考をめざす姿勢、的確な比喩、幅の広い文体(例えば、『考え方の論理』と『現代における哲学と論理』の間)、論理学と弁証法との関係、言語の働きに対する見方など、学ぶことは多いのである。

 新しい弁証法の基礎を、これまで、岩崎武雄と松村一人に依拠して提示してきたが、この基礎は沢田允茂で補完していくことができると思われる。

 朋あり遠方より来る、亦楽しからずや。(『論語』より)

   「弁証法試論」 

   「弁証法試論」第4章 新しい弁証法の基礎 

コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

矛盾論のスペクトル

2005-09-10 | 学問
 上山春平『弁証法の系譜』、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』、許萬元『弁証法の理論』。この三つの中で論じられている矛盾は、いずれも「問題解決」との関連で取り上げられていますが、違った性格をもっています。

 『弁証法の系譜』では、矛盾はアリストテレスの矛盾をさしています。矛盾は特別な名前を持っていません。

 『弁証法はどういう科学か』では、アリストテレスの矛盾とヘーゲルの矛盾が並存しています。ここでは矛盾は、二つの名前を持っています。一つは「敵対的矛盾」、もう一つは「非敵対的矛盾」です。敵対的矛盾はアリストテレスの矛盾で、克服によって解決される矛盾をさしています。これに対して、非敵対的矛盾は父と子、上と下などヘーゲルが提起した矛盾で、実現によって解決される矛盾をさしています。敵対的矛盾は矛盾の特殊なあり方で、ヘーゲルが矛盾を深く掘下げたと考えられています。

 『弁証法の理論』では、矛盾はヘーゲルの矛盾をさしています。ここでは矛盾は、二つに分けられています。理性の否定作用にもとづく「闘争矛盾」と理性の肯定作用にもとづく「調和矛盾」です。

 上山春平『弁証法の系譜』と許萬元『弁証法の理論』を両端に置き、三浦つとむ『弁証法はどういう科学か』を中央に据えることによって、矛盾が、アリストテレス(論理的矛盾)からヘーゲル(弁証法的矛盾)へと意味を変えていくようすを捉えることができると思います。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Dialectic on the law of contradiction

2005-08-05 | 学問
Hegel has criticized the law of contradiction and contraposed dialectic contradiction. However, he has finished his studies, only supposing dialectic contradiction. He has left an association between dialectic and the law of contradiction unsolved. It is Iwasaki Takeo who has made the association clear. He has proved in principle that dialectic as the logic of contradiction never come into existence. He has insisted that dialectic will come into effect on the premise of the law of contradiction:

In my opinion, dialectic of existence never be able to come into existence. In fact, a state called contradiction in dialectic of existence was nothing but an artificial contradiction. Therefore, dialectic as the logic of contradiction will never be formed as the logic of another kind which is completely different from the formal logic based on the law of contradiction. I will not insist that there are not contradictions from the view point of dialectic of existence, but I cannot help saying at least that it is an error to think that the special logic of dialectic is realized. Thus dialectic of existence is denied. It was in not a field of existence but a field of recognition that dialectic can be observed. Dialectic of recognition is no longer the logic of contradiction. It has changed into the logic of resolving contradiction. Dialectic will be observed in a process of development of recognition at any rate. The reason is that human recognition has finite characters, and must follow a process of trial and error.

Dialectic of existence means a way of thinking : Contradictions exist in existence itself, therefore we must abandon the law of contradiction to grasp existence. For example, a movement is caused by the contradiction that a thing is in this place and it is not at the same time, therefore we must throw away the law of contradiction when we think about movements.

It is from the following reason that this way of thinking is wrong:

1) The law of contradiction is a formal principle of reasoning; One cannot say of something that it is and that it is not in the same respect and at the same time. For example, in cases where we judge that movement consist of being and nothing and don't judge so at the same time, then the law of contradiction is denied. Real contradiction is exclusive relationship in the form of judgement. The law of contradiction is absolutely formal principle, it doesn't state concrete content of judgement about something.

2) When one states such substantial contradiction that movement consists of being and nothing, it is an artificial; superficial contradiction. Actually, there are not contradictions but existence of concrete fact of movement.

3)Nevertheless, the reason one believe the presence of contradiction is adherence to abstract prescriptions such as being and nothing from the beginning.

4) The artificial contradiction is divided into two categories. In cases where one ignore the condition of "in the same respect" of Aristotle's definition, where the structure of existence unified is expressed as contradiction, for example, "life through death." This will connect with topos dialectic of Nishida philosophy. In contrast, in cases where one ignore the condition of "at the same time," where the process of changing is considered to be contradiction and negation. This will link with process dialectic of Marxism.

Contradiction in dialectic of existence is artificial contradictions caused by a wrong application of the law of contradiction; the law of contradiction is a formal principle about reasoning, but the concrete content is encased in it; abstract stipulations are held from the beginning; the condition of in the same respect or that of at the same time is ignored. By these wrong applications, the state which is not contradiction is merely believed to be contradiction. Therefore, it is not necessary to throw away the law of contradiction when we think about movement and change. On the contrary, it is dialectic of existence that should be abandoned instead.

This is a foundation that dialectic as the logic of contradiction must be removed. No contradiction exist in field of existence, therefore dialectic of existence are never observed. However, there frequently exist contradictions in thoughts, therefore dialectic will be recognized in a field of recognition. "To declare that contradictions exist in existence is a suicide of thought . We must absolutely make an effort to grasp existence without contradiction." This is basic stance of Takeo Iwasaki. The effort to grasp existence without contradiction will form "dialectics of recognition." These words are quotations from Iwasaki Takeo:

Contradiction of thought is in a process toward a real thought without contradiction about objects. Therefore, a thinking process in which we face with contradiction, overcome them, and unify contradictory arguments to transfer higher-level standpoint can form a dialectic process. This dialectic of recognition is regarded as the logic of resolving contradiction. It is considered reasonable and proper.

We may express that the standpoint to construct a dialectic theory on the base of the law of contradiction is not Hegel's but Aristotle's view. Aristotle has considered dialectic to be a reasoning from the acknowledged idea;Endoxa. A new theory of dialectic should be tried to construct by returning to the standpoint of Aristotle.

Note

This is a translation of "岩崎武雄の矛盾論(『弁証法試論』第4章新しい弁証法の基礎) ."



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

Dialectic to begin with a selection

2005-05-15 | 学問
  Kierkegaard has considered Hegel dialectic to be the logic of "both/and". Against it, he has regarded his own dialectic as the logic of "either/or". We can think "both/and" of Hegel means unification and "either/or" of Kierkegaard means "selection". It seems that Kierkegaard has contraposed "selection" against "unification" of Hegel dialectic. In other words, he has introduced a subjective selection as an individual into dialectic.

  I think that the subjective selection is necessary in dialectic of recognition also. Probably, it is related with "a possibility of freedom in the region of recognition". (Umemoto Katsumi "Transitional Consciousness" ).

  Dialectic is unity of opposites in recognitions promoted by a thinking method modeled after dialogue . This is my concept. I can discover a synchronic structure of dialectic in the thinking method modeled after dialogue. In contrast, I can show a diachronic structure of dialectic in a process of unity of opposites. The process consists of three stages to begin with selection as follows:

1) Selection
  The stage we select two "logical thoughts" which seem to have connection for grasp of an object among logical thoughts.

2) Hybridization  The stage we crossbreed two distinguishable definitions of "logical thoughts" which are confronting to form two hybrid momenta.

3) Unification  The stage we unify the two hybrid momenta to form a logical thought corresponding to the object.

  In short, three stages indicate the process that two logical thoughts are selected, hybridized and unified. Dialectic starts with a selection of two "logical thoughts". This is a characteristic of the complex theory, a new theory of dialectic. When we select two logical thoughts, we will accede to mental attitude of "either/or" of Kierkegaard:

  Most important thing when we select two logical thoughts is not selection of right thoughts but energy, seriousness, and passion.


Note

This is based on "選択から始まる弁証法"

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

An image of dialectic

2005-05-08 | 学問
  Hegel has propounded three philosophers Zeno, Heraclitus, and Plato as the founders of dialectic. Against him, I proposed two philosophers of Plato and Aristotle.

  Dialectic is directly connected with Panta Rhei,that is, Everything flows, nothing stands still, of Heraclitus today. I want to insist, however, that this is an image in these two centuries at most. I assert that this image should be removed from dialectic.

  It is the two philosophers of Plato and Aristotle who are walking in the center of the school of Athens drawn by Raphael. Probably, I think their dialogue is an image of general dialectic. The fluidity of dialectic is not flow of the river of Heraclitus but that of the dialogue of Plato and Aristotle.

     The school of Athens

Notes
1) This is a translation of "弁証法のイメージ".
2) Plato is a symbol of dialogue. In contrast, Aristotle is that of the law of contradiction.
3) In addition, it is a synchronic structure of dialectic that the two philosophers are walking along the corridor side by side when we regard them as two logical thoughts.
  


コメント
この記事をはてなブックマークに追加