対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

HTMLの復習

2018-04-30 | 日記
「楕円幻想」のカテゴリーの書いてきた記事が60を越えている。これをまとめて、ホームページ「対話とアウフヘーベン」に載せるつもりである。最初からページを作ることは無理なので、最近作った(といっても1年以上前)「跳ぶのか、踊るのか。――ロドスはマルクスの薔薇」の枠組みを利用して、やり始めた。午前中に、10ほどの記事をやってみた。しばらく時間がかかると思う。

この頃は、ブログでは文章のはじめを1文字分空けないようになっているが、これをどうしようかと思った。見比べてみると、空けない方が今は落ち着くような感じである。ブログの記事をベースにするので、空白を入れるのは手間がかかることもあって、ブログと同じやり方で行く。図はどのようにやろうかと思っていたが、記事からコピーするだけで済むようで、案ずることはなかった。

ユウマダラエダシャク

2018-04-27 | 庭の小動物
アオキの葉に蛾が貼りついていた。厚みが感じられず、とても薄い体のように見えた。押しつぶされて死んでいるように見えたが、近づくと羽ばたいて別の葉に止まって、羽を広げてじっとしている。色彩が独特ではじめて見る蛾だった。豹柄が第一印象。

調べると、ユウマダラエダシャク(夕斑枝尺)のようである。マダラエダシャクの仲間もいる。エダシャクの仲間もいる。幼虫はシャクトリムシ(尺取虫)である。昼には羽を広げて葉の上で休み、夕方に活動するのだという。夕方から飛びまわるマダラエダシャク(斑枝尺)ということだろうか。

『日本の科学思想』

2018-04-26 | 日記
G県図書館で棚を見ていたら、『日本の科学思想 その自立への模索』(辻哲夫著、編・解説 廣政直彦、こぶし文庫、2013年)があった。もっている中公新書の本は、もうくたびれているので借りてきた。
確認してみた。持っているのは、昭和48年(1973年)の再版のものであった。この年は学生だったが、読んだのは就職した後のような気がする。何度か読み直していると思う。
黄色い帯には、毎日出版文化賞受賞とあり、表に「伝統文化と普遍的科学との相克を日本思想史の中に追求する」とある。裏には次のようにある。
(引用はじめ)
日本が科学を受容する以前、果たしてどれだけの類似概念を持ち得たのだろう。実理・窮理・理学という呼び名を変えて消えていったものの正体は十全な科学的認識と言うには何が欠けていたのだろうか。仁斎・昌益・梅園らの思想のなかに陰陽五行の世界からの変貌の可能性を読み取り、西・福沢らの翻訳の苦悶を辿りながら、日本の科学の自立への摸索を跡づけた本書は、科学的認識の推移の究明こそ思想史の本流であることを暗示している。
(引用おわり)
定価は280円、こぶし文庫のちょうど10分の1である。アマゾンでみると中公新書の新しいものはないようである。40年経っているのだと思う。

紅葉のような葉

2018-04-25 | 紅葉葵、栽培記録
本家の紅葉葵の方は2つほど新芽が頭を出しかけた程度である。南側の紅葉葵の3本のうち、1本はまだ、芽が見えない。昨年、花開いた株が一番大きく育っている。紅葉のような葉がはっきりしてきた。

東側に細い枯れた茎が10本立っている。これは昨年、南側に選ばれず、いわば捨てられた苗だった。大きなもので30センチほど育ったが、途中で枯れてしまった。しばらく前に、その根元に新芽が出ていることに気づいた。予期していなかった。地下で生きのびていたんだという感動があった。今日、注意してみると葉の形がはっきりしているのもある。ただ、やはり貧弱な印象である。

中山正和の仮説設定

2018-04-24 | アブダクション
中山正和は『演繹・帰納・仮説設定』(産業能率大学出版部、1979年)において、パースがアブダクション(仮説設定)を演繹と帰納から分離し、独立させていることを高く評価している。しかし、パースがアブダクションを帰納(インダクション)と同じように拡張的推論と捉えていることには批判的である。拡張という契機に対してではなく、推論そのものに対してである。推論は「理性的なものでコトバによる」ものだが、仮説設定(アブダクション)は「コトバ」によらないもので推論ではないと主張している。「仮説」は「直観」によって気づかれるのであって、「推論」によって選ばれるものではないというのが中山正和の立場である。これはもちろんパースのアブダクションの否定である。

中山正和のアブダクション(仮説設定)の位置づけをみておこう。
中山にとって推論は、演繹と帰納の2つだけで、仮説設定を推論から切り離し直観として独立させる。もちろん、仮説設定は演繹と帰納と無関係ではなく、次のような関係が想定されている。
(引用はじめ)
このように考えてくると、私にはこの、演繹、帰納、仮説設定が、つぎのように「弁証法的構造」に見えてくるのである。
(正)(反) 帰納
       ↓↑  →(合)仮説設定 
(反)(正) 演繹
すなわち、問題が解けないというのは、自分の知っている法則から演繹的に推論したことと、自分が観測した事実から帰納的に推論したことが対立・矛盾している状態であろう。簡単にいうと「リクツはそうだが事実は違う」ということだ。これはいずれを「正」「反」としてもいいが、とにかく対立・矛盾する。これに対しての「合」が仮説設定であって、あることにハッと気づけば、この対立・矛盾は解消(止揚)されるのである。
(引用おわり)
「リクツはそうだが事実は違う」というのは、「驚くべき事実Cが観察される」(パース)、「常識からはふに落ちないようなある現象Pが観測される」(ハンソン)同じ出発点である。パースはここから次の演繹(ディダクション)・帰納(インダクション)へと繋げていったのに対して、中山はここにとどまり仮説設定の具体的方法に言及していった。
演繹と帰納を止揚する矢印→を「直観」とみるのが中山正和のアブダクション、「推論」とみるのがパースのアブダクションである。矢印→は、はたして、直観なのだろうか、推論なのだろうか。

躑躅色(つつじいろ)

2018-04-23 | 庭の草木
つつじ色は、ツツジの花のあざやかな赤紫色。『万葉集』にも名前がある伝統色だという。「あざやかな紫みの赤」(JISの色彩規格)。
一昨年、害虫(ルリチュウレンジ)にやられたせいで、昨年のツツジは貧弱だった。気の重い春だった。先週、西側のオオムラサキツツジ(大紫躑躅)の葉の間から花のつぼみが出ていることに気づいた。暑いほどの気候に一気に花開いた。回復したのだ。庭のつつじ色。



ジャーマンアイリス

2018-04-20 | 庭の草木
昨日、ダッチアイリスを知ったが、調べているうちに、これまでアヤメだと思っていた花はアヤメではなく、ジャーマンアイリス(German iris)だとわかった。ドイツあやめ。学名、Iris germanica (アイリス・ゲルマニカ)。

花の青紫色と網目模様だけにとらわれていたのだろうか。花びらの中央に歯ブラシ状の柔毛がある。これは見えていたとは思うが、アヤメの否定にはつながらなかった。ダッチアイリスとジャーマンアイリスの花期はほぼ同じで、アヤメの開花時期は5月になってからだという。ダッチアイリスは球根で育つが、ジャーマンアイリスは根茎だとある。庭にはカキツバタ(杜若)と対照されるアヤメ(文目)はないのだ。
白い花がある。これもアヤメだと思っていた。しかし、これも白い花のジャーマンアイリスだろう。

調べていると、よく似た花に「匂いアイリス」(ニオイイリス)があるという。ジャーマンアイリスの変種で、違った品種のようである。その可能性はあるのだろうか。

ダッチアイリス

2018-04-19 | 庭の草木
暖かい一日、洗濯日和であった。2回、洗濯機をまわした。
フキの近くに薄い青色の花が咲いているのに気づいた。その色はアヤメの青紫よりもかなり淡いように見える。近寄ると確かに初めて見る花である。1本だけ咲いている。

ダッチアイリス(Dutch iris)。オランダあやめ。学名、Iris hollandica (アイリス・オランディカ)。オランダで改良された球根タイプのあやめ。これはシルベリービュティという種類のようだ。

袋のなかの白い豆2

2018-04-18 | アブダクション
パースのアブダクションの定式は、仮説を作る推論の定式になっていないのではないだろうか。
パースのアブダクション(仮説)は次のようだった。

(1)この袋の豆はすべて白い(規則)、
(2)これらの豆は白い(結果)、
(3)ゆえに、これらの豆はこの袋の豆である(事例)。

アブダクション(仮説)は帰納と同じような拡張的推論である。それならば、(3)に来るのは「この袋の豆はすべて白い」(規則)だろう。これは帰納の(3)と同じである。
(1)に来るのは、帰納の(1)「これらの豆はこの袋の豆である」(事例)のような袋に入った豆ではなく、裸の白い豆だろう。「これらの豆は白い(結果)」。
(2)に来るのは、残りの「これらの豆はこの袋の豆である」(事例)である。

整理すると、アブダクション(作理)は次のようになる。

(1)これらの豆は白い(結果)
(2)これらの豆はこの袋の豆である(事例)、
(3)ゆえに、この袋の豆はすべて白い(規則)。

この定式の方が、アブダクションの推論形式と相性がいいのではないか。
(1)驚くべき事実Cが観察される、
(2)しかしもしHが真であれば、Cは当然の事柄であろう、
(3)よって、Hが真であると考えるべき理由がある。
記号で表記すると、
   (1)C
   (2)H→C
   (3)H

(注)
演繹
(1)この袋の豆はすべて白い(規則)、
(2)これらの豆はこの袋の豆である(事例)、
(3)ゆえに、これらの豆は白い(結果)。
帰納
(1)これらの豆はこの袋の豆である(事例)、
(2)これらの豆は白い(結果)、
(3)ゆえに、この袋の豆はすべて白い(規則)。

『アブダクション』(米盛裕二著、勁草書房、2007)参照

ミゾイチゴツナギ

2018-04-17 | 庭の草木
イネ科の雑草の図鑑を見ていて、これかなと思う。わずかな風でも大きく穂がゆらぎ、ピントが合わない。シャッター速度を優先するモードがあるのだが、やり方がわからない。風が止むのを待った。

ミゾイチゴツナギ(溝苺繋)。奇妙な名前だと思う。イネ科イチゴツナギ 属には同定の難しい種が多いのだという。「溝」(湿った場所)に生える「苺繋」。イチゴツナギ(苺繋)の名前は、野いちごをこの草の茎に通して持ち運んだことに由来するという。たしかにミゾイチゴツナギの茎も釣り糸のように細くて丈夫そうである。