対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

フユサンゴの色づく実

2020-11-30 | 庭の草木
この時期になると、毎年同じように、サザンカの花が咲きはじめたとか、レンギョウの紅葉だとか、日の出が遅くなって朝のラジオ体操がやりづらいとかの記事ばかり投稿している。違った景色はないのだろうか。
庭を歩いていると、フユサンゴ(冬珊瑚)の実を長らく取り上げていないことに気づいた。調べてみると、これまでフユサンゴの記事は夏(7月)に投稿していた。夏珊瑚ではないかと疑問を抱いていた。冬珊瑚はナス科の植物で、小さい白い花を咲かせた後、実が夏から冬にかけてついている。その色が、緑→黄色→オレンジ色と移っていく。フユサンゴは花ではなく、実を観賞する花だという。

以前と比べると庭のフユサンゴは貧弱になっている。これが取り上げなかった理由の一つだったろう。2年ほど前、蜜柑の木の下のフユサンゴを取り除いたのが大きかった。

カンナの花と果実

2020-11-27 | 庭の草木
以前、カンナの花のように見えるのは雄しべが変化したものだと知った。昨日、乾いた果実に気づいたが、もう少し観察しようと思った。昨日の乾いた果実の時間を巻き戻してみる。まだ咲いている花の根元を見る。

つぶつぶの赤紫色が出来立ての果実である。造りを見ておこう。中央で説明すると、果実から伸びているウサギの耳のようなものが、本当の花(3枚)である。右側はそこから花びらのようなものが伸びているが、これが雄しべが変化したものである。時間が経つとこれが枯れて落ちる(落ちないものもある)。落ちたものが真ん中のようになる。さらに時間が経つと、次のようになる。

枯れた本物の花が3枚、果実についている。蕊(しべ)は乾燥して柱としてその中に残っている(花びらのようなものが枯れてそのまま残っているものもある)。果実の下は枯れた萼である。
果実をつぶしても種は見当たらなかったが、どうやら種子はできないようである。

カンナの花と乾いた実

2020-11-26 | 庭の草木
カンナの花の時期は長い。初夏から初冬まで。いまもいくつか咲いている。しかしほとんどはもう枯れている。たわしのような毛で覆われた実は3つの子房室に分かれていて、そこに種が入っているという。3つの子房室は確認できた。しかし、種は見当たらない。


ミカンを見つめるメジロ

2020-11-25 | 庭に来る鳥
 みかんの木の下には実がいくつか落ちている。たいてい鳥が啄んだ痕のある実だが、鳥が接触してそのまま落ちた実もある。これは拾って味見した。だいぶ熟してきている。12月に入ってから収穫することになろう。ヒヨドリとメジロが来ている。今日はメジロを見かけた。

 この位置から背伸びして啄んでいた。

「論理的なもの」の表出論6

2020-11-24 | 日記
(認識・商品・推論の三位一体論)

 「論理的なもの」の表出論5の引用文は、内田弘〈『資本論』と『純粋理性批判』―マルクスのカント哲学摂取―〉で知ったものである。内田は、両者に共通するものをいくつか挙げているが、その1つに、「同一対象の二側面の分析」がある。対象を悟性と理性の2側面から考察する(推論する)カントの方法は、マルクスでは、商品を使用価値と価値の2側面から考察する方法として継承されている。内田はカントの複眼、マルクスの複眼と名付けている。
 使用価値は具体的側面で悟性に対応する。価値は抽象的側面で理性に対応する。価値は「単に考えるだけの対象」(『純粋理性批判』)であり、「単に思惟されうるもの」(『経済学批判要綱』)である。

 振り返ってみると、言語の表出論(吉本隆明『言語にとって美とはなにか』)を参考に認識(「論理的なもの」)の表出論を構想した。言語の「自己表出と指示表出」を認識(「論理的なもの」)の2側面として継承した。それと同時に、言語の「自己表出と指示表出」と商品の「価値と使用価値」の対応に注意してきた。
 「論理的なもの」の「自己表出と指示表出」は「商品」の「価値と使用価値」の2側面と対応する。これは出発点で洞察した関係だったが、推論の「悟性と理性」の2側面(『純粋理性批判』)によって正しい関係であることが明確になった。
  1 自己表出――価値――理性
  2 指示表出――使用価値――悟性
が対応する。この関係はこれまで通りだが、その複素数モデルはこれまでとは逆転する。これまでは1を「実部」、2を「虚部」としていたが、これからは1が「虚部」、2が「実部」となる。

「論理的なもの」の表出論5

2020-11-23 | 自己表出と指示表出
 (自己表出と指示表出の文献的な根拠)

 「論理的なもの」の表出論を展開する過程において、跳躍点となったのは、沢田充茂の記号論(「現代論理学入門」)だった。記号には、「記号外のなんらかのものと関係をもっているものと、このような記号同士を結びつける働きをする別の記号とがある」。この指摘は「言語」と「論理的なもの」の双方において自己表出と指示表出をどのように位置づけなければならないのかを示唆したのである。指示表出は「事物に関係する働きをもつ記号」の基礎になっているだろう。これに対して自己表出は「2接着剤の働きをする記号(1の記号同士を結びつける働きをする別の記号)」の基礎になっている。このような位置づけは、カントの悟性と理性の違いに対応すると思われた。悟性はカテゴリーと判断を通して現象界に関係するのに対して、理性はこの悟性の機能を統一するだけで現象界と直接かかわらないと想定されているからである。このように把握すると、科学の発展において、アインシュタインが良い理論の判定基準としてあげた「外からの検証」と「内からの完成」も、「指示表出」と「自己表出」の側面と対応しているように思えてきた。
 これが10年前である(「ひらがな弁証法」)。それ以来、特に進展はなかった。ところが最近、悟性と理性いいかえれば指示表出と自己表出について、簡潔な指摘が『純粋理性批判』(第2版序文)にあることを知った。
我々は同一対象を、一方では経験にとっての感覚および知性(悟性のこと、引用者注)の対象として考察できるとともに、他方では我々が単に考えるだけの対象として、とにかく経験の限界を超え出ようと努める孤立した理性にとっての対象として、したがって、二つの異なった側面から考察することができる(内田弘訳)

同一の対象が、一方では――即ち経験に対しては、感性および悟性の対象として、また他方では――即ち経験の限界を超出しようとする孤立した理性に対しては、単に考えられるだけの対象として、――要するに二つの異なる側から考察せられ得る(篠田英雄訳)
 いい感じである。ヘーゲル「論理的なもの」の三側面(『小論理学』)に対応させた
   悟性―理性……理性―悟性
をカントの悟性と理性(『純粋理性批判』)で読み解こうとしてきたのである。

ワクチンの有効性95%とは

2020-11-20 | ノート
米の製薬会社ファイザーは開発したワクチンの臨床試験での有効性が95%だったと発表した。これは次のように計算した結果だという。
参加者43500人を、ワクチンを打つ組Aと偽薬を打つ組Bの2組(半数)に分け、新型コロナの発症を1か月追跡する。結果はAの発症は8人、Bの発症は162人。ワクチンを打たずに発症した人数162を「もと」にして、ワクチンで発症を防げた可能性のある人数162-8=154をくらべる。
  ワクチンで発症を抑えられる割合=154÷162×100=95%
これが有効性95%の内容である。計算じたいは簡単だが、数値を出すのに手間がかかっている。
 

ヒヨドリが柿を啄みに来た

2020-11-19 | 庭に来る鳥
 ここ1週間で柿の葉はほとんどが落ちてしまった。ラジオ体操の後、道路に落ちた葉を集めるのが日課になっていた。今年の柿(渋柿)は昨年ほど実らなかった。果実は初夏には数多くできるように見えていたが、色づく前にかなりの数が落ちてしまった。柿色の実は10個ほど残った。収穫するまでもない。鳥の餌である。今日はヒヨドリが啄みに来た。

南天の紅葉

2020-11-18 | 庭の草木
 今、南天に赤い葉と緑の葉がある。赤い葉はやはり紅葉である。もみじなどの落葉樹では紅葉すると葉は落ちるが、南天は紅葉した後も葉は落ちない(南天は常緑樹である)。紅葉するのは、気温や風などの条件が厳しい(ふきっさらし)ところだという。たしかに内側の葉は緑のままである。


「論理的なもの」の表出論4

2020-11-17 | 自己表出と指示表出
(「論理的なもの」と複素平面)

 「論理的なもの」の表出論の特徴は複素数をモデルとしていることである。複素数はa+bi(実部と虚部)という構造をもっている。これまで「論理的なもの」の2つの側面(自己表出と指示表出)を実部と虚部にそれぞれ対応させてきた。すなわち、
  「論理的なもの」=「自己表出」+「指示表出」i
と考えてきた。
 これまで自己表出を実部に、指示表出を虚部に対応させてきたのは、すでに把握されている「論理的なもの」を前提としていたからである。「論理的なもの」の内部においては理性の推論が実質を担っており、外部(認識対象)と関係する悟性は「想像されたもの」と位置づけるのが、自然と思われたからである。(この「悟性」は変容する可能性がある。)
 しかし、これから新しく把握しようとする「論理的なもの」においては、こんどは逆に、出発点となる悟性が実質で、「論理的なもの」の内部の理性の推論は「想像的なもの」と位置づける方が妥当だと思われる。つまり、実部に指示表出を対応させ、自己表出に虚部を対応させる方が自然と思われる。つまり、
 「論理的なもの」=「指示表出」+「自己表出」i
と考えるのである。
 これは「論理的なもの」を前提としないときの対応だが、2つの「論理的なもの」(AとA’)から1つの「論理的なもの」(B)をつくる過程においても、新たな1つの「論理的なもの」は、途中から生まれてくるのではなく、最初から形成され始めていると考えれば、
 「論理的なもの」=「指示表出」+「自己表出」i
という対応の方が根源的ではないかと思う。
 指示表出は実部と対応する。自己表出は虚部と対応する。ガウスの複素平面の実軸は水平軸であり、虚軸は垂直軸である。アインシュタインの思考モデル(1952年)に投影した「論理的なもの」の背景には複素平面があるといえよう。