対話とモノローグ

        弁証法のゆくえ

「ネイピア対数を読み解く」の「はじめに」と「あとがき」

2024-03-29 | 指数と対数
「ネイピア対数を読み解く」はすでに提示している。
      「ネイピア対数を読み解く」(PDF)

これを読みやすくするために「はじめに」を前置きし、あいまいな個所を補完するために「あとがき」を添えることにした。いずれPDFに取り込むつもりだが、とりあえず、「はじめに」と「あとがき」をブログ上に公開しておくことにした。「はじめに」と「あとがき」を読んだ後、「ネイピア対数を読み解く」をクリックして本論を読んでほしい。

はじめに

ネイピアの対数の定義は難解だった。志賀浩二『数の大航海』や 山本義隆『小数と対数の発見』に定義が引用されていたが、さっぱりわからなかった。それでも定義とその解説を行き来しているうちに、なんとか読みとれるようになってきた。「定義」に至る「等比数列と等差数列の対応」からたどると分かりやすくなるのではないかと思う。

ネイピア対数の全貌はこの2著に詳しいが、ここでは全体ではなく、数直線(線分と半直線)上の点の運動として「対数」を定義するネイピアの「発想」の1点に絞って考察する。

等差数列の進行に時間の規則的な経過を対応させたことが跳躍点だったと考える。そして、この観点は前2著に欠けているのではないかと思う。時間の規則的な進行は、ネイピア以降、小数表記の確立とともに、間隔が縮小し、そして連続していくようになる。ここに実数と関数の考えが確立していき、無限解析が可能になっていった。

10^7から0へと減少していく等比数列が、減衰していく指数関数になる過程に着目する。

あとがき

等比数列と等差数列の対応が関数の最初の姿だった。この対応を点の運動として表象するとき、ネイピアは数列の進行に時間を導入した。ここに定義が成立した。そしてこの時間を離散的なものから連続的なものへと稠密していく過程でネイピア数eが現れてきた。

時間とともに減少する等比数列が減衰する指数関数に変化する過程を次の2節で構成した。
  1 ネイピア対数の定義を導く
  2 ネイピア数eが現れる
1はネイピアの対数の発想を端的に捉えたもの、2は「運動現象の数学的取扱い」の端緒(ガリレイの先駆者)を着目したものである。2に、ネイピアが想定した等比数列を小数表記(小数点の位置を7桁左に移動する)する際の式変形が出て来るが、この変形の背景にふれる必要があると感じるようになった。ここを補完しておきたい。

ネイピアの対数概念の提出以降、対数は2つの道に分かれている。常用対数と自然対数である。

ネイピアによる対数の提起は数計算を簡略することにあった。しかし、ネイピア対数は十進記法と相性が悪かった。例えば、同じ数字の配列の数で小数点の位置が違う数に対する補整が複雑になっていた。改善が求められた。数計算の方はブリッグスの常用対数にとって代わった。常用対数にはネイピアも関係していた。(このとき、ネイピアは等比数列と等差数列の対応というアイデアを放棄していると志賀浩二は述べている。)

常用対数は、底・指数・対数・真数の関係を明確にしていく契機となっていると思う。
  ab=c(a^b=c)、logac=b(log_ac=b)
において、aは底、bは指数=対数、cは真数である。これは等比数列のなかから、初項1、公比a、項の順番bの等比数列の項cに着目したものである。それは等比数列と等差数列の対応を1点で取り上げたものとみることができる。

他方、等比数列と等差数列の直接の連続的な対応は、数ではなく幾何(直角双曲線の面積と横座標)に現れてきた。ヴンセント(発見、端緒)にはじまり、メンゴリは区間縮小法によって対数の存在を実数上で確認する。また、メルセンヌは対数を無限級数で表し、双曲線のグラフの面積として与えられる対数を自然対数と述べる。そして、ニュートンは双曲線の面積を無限級数と積分を通して明確にした(志賀浩二『数の大航海』6章無限解析への序曲、参照)。こちらの方から、連続複利の形(ヤコブ・ベルヌーイ,1683 年)として、また,対数が1 となる数c(ヨハン・ベルヌーイ,1697 年)として、ネイピア数は出現してきている。

常用対数から底・指数・対数・真数への流れを「等比数列と等差数列の対応」の抽象としてみることができるだろう。他方、自然対数による双曲線の面積の把握は「等比数列と等差数列の対応」の「具体」化とみることができる。

ネイピアの等比数列(初項10^7)を小数表記(小数点の位置を7桁左に移動する)する際の式の変形は、2つの「等比数列と等差数列の対応」が合流することによって可能になったといえるだろう。

      「ネイピア対数を読み解く」(PDF)

このスイセンの名は?

2024-03-28 | 庭の草木
緑の地に、目立つのはスイセンの白である。

十年ほど前から咲くようになった。庭のあちこちにあるスイセン(ニホンスイセンだろう)より開花の時期が1月ほど遅い。
名前を知りたくて、ほぼ毎年検索するのだが、わからずじまいである。これまでも候補にでてきたペーパーホワイトでいいのだろうか。

レンギョウの花を家の中に

2024-03-27 | 庭の草木
雨が4日降り続いた。ようやく今日は晴れあがった。洗濯機は2度回した。3本の物干し竿は一杯になった。

庭に出てみると、カラスノエンドウなど雑草が伸びてきている。また、水仙の葉もボリュームがあり、草刈りの季節のはじまりを実感する。
レンギョウ(連翹)の黄色い花があざやかである。

今までは何もしなかったが、今日初めて、枝を切って、玄関や床の間に飾り、また仏壇にも供えた。



自己表出はアブダクションである6

2024-03-26 | ノート
吉本隆明の三段階論

1)第一段階は次のように図示されている。

この図の「音声」→「現実界」がマリーノスキーの第一段階である。
「音声は現実界(自然)をまっすぐに指示し、その音声のなかにまだ意識とはよべないさまざまな原感情が含まれることになる。

2)「音声がしだいに意識の自己表出として発せられるようになり、それとともに現実界におこる特定の対象にたいして働きかけをその場で指示するとともに、指示されたものの象徴としての機能をもつようになる段階である。

1)の1次元の「反射」が、2)では「自己表出と指示表出」に2次元化される。自己表出の矢印↑の先端にある有節(半有節)音声と現実対象を結ぶ右下がりの線分がマリノウスキーの第2段階にあたる。
「ここではじめて現実界は立体的な意識過程にみたされるのである。この自己表出性が生まれるとともに、有節(半有節)音声は、たんに眼前にある特定の対象をその場で指示するのではなく、類概念を象徴する間接性とともに指定のひろがりや厚さを手に入れることになる。」

3)「音声はついに眼の前に対象をみていなくても、意識として自発的に指示表出ができるようになる段階である。たとえば狩猟人が獲物をみつけたとき発する有節音声が、音声体験としてつみかさねられ、ついに獲物を眼のまえにみていないときでも、特定の有節音声が自発的に表出され、それにともなって獲物の概念がおもいうかべられる段階である。

ここではじめて有節音声は言語としてのすべての最小条件をもつことになる。」
右側の「有節音声」・「現実対象」・「対象像」を結ぶ三角形がマリノウスキーの第三段階にあたる。
「有節音声が自己表出として発せられるようになったとき、いいかえれば言語としての条件をもつようになったとき、言語は現実的な対象との一義的な関係をもたなくなった。たとえば、原始人が海をみて、自己表出として〈海(う)〉といったとき、〈う〉という有節音声は、いま眼のまえにみえている海であるとともに、また他のどこかの海をも類概念として抽出していることになる。そのために、はんたいに眼の前にある海は〈海(う)〉ということばでは具体的にとらえつくせなくなり、ひろびろとしているさまを〈海(う)の原〉なら〈うのはら〉といわざるをえなくなった。」

自己表出はアブダクションである5

2024-03-25 | ノート
マリノフスキーの三段階論

オグデン・リチャーズの三角形は、三角形の底辺に象徴と指示物、その頂点に「思想あるいは指示」が配置されているものである。

マリノフスキーの三段階論の1段階と2段階は、オグデン・リチャーズの三角形の底辺だけ、線分(1次元)の図示である。
1段階
音声反応と場が直接に結合する。
2段階
分節的な言語の発端。指示物が場から遊離し始めるが、音声は象徴ではない。行動的音声と指示物が相関する。
3段階
音声は象徴となる。1)行動的、2)物語的、3)儀式的が区別されている。1)行動としての言語(操るために用いられる)の図示は、三角形の底辺だけで、行動的象徴と指示物が結ばれている。
2)3)ではじめて三角形で表示され、底辺はどちらも象徴と指示物。頂点はそれぞれ、物語言語(比喩行動)、儀式的魔術の言語(儀式動作)である。
次に4段階目としてオグデン・リチャーズの三角形が来る。

吉本はマリノウスキーの第三段階で、「行動としての言語」と「物語言語、儀式言語」の区別に、言語の指示表出性と自己表出性との類似を見る。しかし、次のように表出論を対置する。
(引用はじめ)
しかしその意味はまったくちがっている。マリノウスキーはいわば言語がこの段階で、あるばあいに実用的につかわれ、あるばあいには儀式的、物語的につかわれるといっているので、言語の本質が対自であることによって、対他(ここでいう儀式的、物語的に相当する)か、対他であることによって対自(ここでいう行動としての言語)かの構造としてみるべきだと云っているわけではない。言語の本質はマリノフスキーのいうように、行動としての言語と儀式、物語としての言語にわけられるのではなく、ただ指示表出の面を拡大するか、自己表出の面を拡大するかによって、行動としての言語、祭式または物語としての言語があらわれることになるのだ。
(引用おわり)
この後、表出論による発達の段階が提示される。

自己表出はアブダクションである4

2024-03-22 | ノート
カッシラーの三段階論(1擬態的・2類推的・3象徴的)

2進化の特性では、まず、言語が現実から離れてゆく過程(言語成立の過程)に着目した2つの三段階論を紹介し検討している。カッシラーとマリノウスキーの三段階論である。そしてこの後に、表出論の図解を提示している。

カッシラーの三段階論(1擬態的・2類推的・3象徴的)は、音声と対象との関係で言語成立の過程を見ているものである。
1擬態的
擬声的と同じで、ニャーンで猫を指すたぐい。音声の意識は特定のものと離れられず、対象とつるんでいる。「この段階では意識から見られた世界はまだなにもない薄明である。」
2類推的
音声形式と事象の関係形式との間に類推が成り立つ段階。多くの言語で、母音a・o・uが遠方、e・iが近くを表わすたぐい。『言語の本質』第二章「アイコン性――形式と意味の類似性」ではさまざまな例が挙げられている。「音声と対象とが面をつきあわせている段階」
3象徴的 
いわば比喩的で、抽象的な前置詞後置詞のかわりに具体的な身体部分の名詞が空間表現として用いられる。「前に、後に、上に、中に」のかわりに「眼、背、頂、腹」が使われるたぐい。(音声が空間のなかに対象を見ている段階)

カッシラーの三段階論の意義は認めるが、その当否を実証することは難しいし、また言語の進化の過程には法則性は想定できない。だから、もっと確実にあとづけるには、ある「原理」に身をよせてその移行をみたほうがよいと吉本は考えた。そこで検討されるのがオグデン・リチャーズの三角形を原理として適用したマリノウスキーの三段階論である。

「カッシラーが擬声的、類推的、象徴的とよんでいる三段階は、マリノフスキーの象徴、指示、指示物の関係がオグデン・リチャーズの三角形としてなりたっていく過程とおきかえことができる。」

自己表出はアブダクションてある3

2024-03-21 | ノート
『言語にとって美とはなにか』は、これまでも何度か見直している。1章2節の冒頭、「二枚の画布」の比喩は、以前見直したときに着目した箇所だった。そのころ定式化していた「弁証法」の実例がここにもあると感動したものである。

これを記事にして、投稿しているはずだったが、ブログを探しても見つからなくて、不思議な気がした。調べてみる(記憶をたどる)と、これはOCNやso-netのサービススペースに投稿していたもので、いまのFC2には移行していないことがわかった。これは最初のホームページ「弁証法試論」の補論5「表出論の形成と複合論」だった。2005年の記事である。

「弁証法」は、まだ「ひらがな弁証法」となっていないし、自己表出はアブダクションと関連づけられていないが、基本は今も持続しているので紹介します。

    表出論の形成と複合論


自己表出はアブダクションである2

2024-03-19 | ノート
『言語にとって美とはなにか』の第一章「言語の本質」は次の3つの節からなっている。
  1発生の機構
  2進化の特性
  3音韻・韻律・品詞
今回は1発生の機構において、オノマトペの位置づけを考えてみよう。
『言語の本質』に〈オノマトペは基本的に物事の一部分を「アイコン的」に写し取り、残りの部分を換喩的な連想で補う点〉とある。吉本隆明はオノマトペを意識の「しこり」・「さわり」において見ているといえる。〈言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり、それが発達して自己表出として指示性をもつようになったとき、はしめて言語とよばれるべき条件を獲取した。)

次は、ひろびろとした海、ザーザーと波が打ち寄せる音を背景に読んみるといいのではないかとおもう。
(引用はじめ)
たとえば狩猟人が、ある日はじめて海岸に迷いでて、ひろびろと青い海をみたとする。人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを〈う〉なら〈う〉と発するはずである。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりを〈う〉なら〈う〉という有節音を発するだろう。このとき〈う〉という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反映的な指示音声であるが、この指示音声の中に意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば〈海(う)〉という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することとなる。このとき、〈海(う)〉という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。
(引用おわり)傍点をゴシックて表示


自己表出はアブダクションである

2024-03-18 | ノート
新聞の広告に『言語の本質』(中公新書、今井むつみ/秋田喜美著)が載っていて興味を持った。アブダクションという言葉が目に留まったからだろうか。
一読して、これまでの歩みを振り返るきっかけにしようと思った。

オノマトペは、これまでは言語学では周辺に位置づけられていたが、これを中心に据えて考察していく姿勢に感心した。また、言語がオノマトペから離れて、その世界を拡大して過程に「アブダクション」推論が位置づけられていて(ブートストラッピングサイクル)、こちらにも感心した。

「言語」に対する関心は1970年代に遡る。偏った問題意識だったと思う。吉本隆明『言語にとって美とはなにか』に強くひかれていた。そこで展開されていた表出論はその後に構想した「認識論」の基礎になった。

カテゴリー「自己表出と指示表出」や「アブダクション」の記事に表出論を展開してきたが、まず、これらの記事を見直し整理しようと思った。

次に、オノマトペが吉本の本でどのように捉えられているか確認しようと思った。そこで『言語にとって美とはなにか』を書庫から持ってきた。半世紀前の本である(吉本隆明全著作集6、昭和47年8月20日第2刷)。

第1章は、こんど買った本と同じ「言語の本質」だった。オノマトペは自己表出と指示表出の2つの側面からとらえられていると思った。

つづく